北方領土問題2006年01月03日

あけましておめでとうございます。遅ればせながら、新年の御祝詞を申し上げます。


最近、中公新書から岩下明裕/著『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』が出版されました。
 北方領土問題の解説本の多くは、四島返還論を主張するものです。そして、四島返還運動をいかに広げるかを説明するものです。ところが、この本は、もっと現実的な解決を目指しています。
 著者は、ロシア・中国国境画定問題の研究者として知られています。この本では、前半で、ロシア・中国国境が、お互いの妥協によって確定されたことを説明しています。後半では、この経験をどのように日ロ国境画定に生かすべきかを考察しています。
 北方領土は、どのように解決すべきなのだろうかとの視点で、問題を考える場合には、たいへん、参考になる書籍です。

 日本では、四島返還以外は絶対に受け入れるべきではない、との主張をする人が多いのが実情です。このような主張では、領土問題の解決はありえません。外交は交渉ごとなので、一方の主張が100%通って、他方の主張が0%の可能性は、戦争以外にはありえないことです。もし仮に、日本が、長い間、全千島返還を主張し、交渉の結果、四島返還に落ち着くのならば、四島返還の可能性がなかったわけではないでしょう。しかし、日本は、四島返還を主張しているので、交渉の結果、四島返還になったとしたならば、ロシアの政権がロシア国内世論の激しい批判にさらされ、政権が崩壊します。そのような解決はありえないことです。
 
 岩下明裕氏は、お互いにハードルを下げるべきと説きます。解決を目指すのであるならば、当然の主張ですが、では、なぜ、これまで、ハードルを下げなかったのかの考察がありません。そもそも、北方領土問題は本当に解決すべき問題なのでしょうか。戦後60年、一貫してソ連・ロシアの領土だったところです。北方領土返還運動には、政府の補助金がつくので、それ自体がビジネスになっている面があります。さらに、北方領土問題を、自己の政治主張(反ソ・反ロ宣伝など)に利用している勢力が存在することも事実です。岩下明裕氏の著書では、こういった側面に触れられていません。北方領土問題とは、そもそも解決すべき問題なのだろうか、それとも、なるべく問題のまま永続させるべき問題なのだろうか。--本を読み終えて、このような疑問が残りました。

ニコン、フィルムカメラから撤退2006年01月13日

 今日の、朝日新聞朝刊によると、「ニコン、フィルムカメラから撤退」だそうです。カメラ屋に行っても、フィルムカメラは少なく、ほとんどがデジタルなので、まあ、時代の趨勢でしょうか。
 最近、半導体の好調が伝えられ、半導体製造メーカーは設備投資を大幅に増やすそうです。そうすると、ニコンは、カメラ部門から半導体製造装置部門に、人員を移動することになります。カメラ部門を縮小することになるので、この時期に、フィルムカメラから撤退を決定したことは、時代の趨勢から見て、妥当な判断だと思います。キヤノンの撤退も時間の問題でしょうか。寂しい限りです。

 ウクライナ、キエフのZabod Arsenalでは、ニコンと同じマウントの一眼レフカメラKiev-19Mを製造中です。また、以下のニコンマウントの交換レンズも、商品にラインアップされています。
  ARSAT H 1.4/50 (Helios-123)
  ARSAT H 2.8/20 (Mir-73H)
  PCS ARSAT H 2.8/35 (Mir-67H)
  ARSAT H 2.8/300 (Yashma-4)
  ZOOM ARSAT H 4.5/80-200 (Granit-11H)

第2次世界大戦-ソ連の勝利は日本のおかげだった!?2006年01月15日

 北陸地方を中心に大雪の被害が続いています。雪の映像を見ると、スターリングラード攻防戦の映画を思い出します。そこで、今日は、関連した話題です。

 大祖国戦争(第2次大戦のことをソ連ではこのように言う)2年目の1942年8月、ナチスドイツはスターリングラードに攻め入り、街は陥落の危機に陥りました。スターリングラード攻防戦です。
 11月、ソ連軍は反撃を開始、逆にドイツ軍を包囲します。ドイツ軍救出作戦も12月23日には断念、翌年1月31日には、ドイツ軍司令官パウルス投降、ソ連の勝利に終わりました。この戦闘は、独ソ戦争の形勢逆転を意味する重大な戦闘でした。この時以降、ソ連がドイツを追撃することになります。
 ソ連軍全体を指揮し、スターリングラード攻防戦の作戦を立案したのが、参謀総長のジューコフでした。彼は、ノモンハン事件の作戦指揮でレーニン勲章を受章しています。ノモンハン事件は、ソ連軍が本格的な近代戦争を戦った最初の戦争で、このとき、ソ連軍は近代戦を追行するノウハウを獲得しました。
 スターリングラード攻防戦において、ジューコフは、敵兵力を圧倒する兵力を結集し、敵軍を包囲し、一気に殲滅する作戦を立てました。これは、ノモンハンの経験を生かしたものです。
 敵兵力を圧倒する兵力を結集するまでの間、スターリングラードは決して陥落することは許されず、その間、乏しい兵力をやりくりして、ともかく敵兵力を少しでも消耗させる必要がありました。この重要な作戦を履行したのが、チュイコフです。彼は、敵に包囲されたスターリングラードにとどまり、乏しい兵力と乏しい物資をやりくりし、ともかく持ちこたえ、ドイツ軍の兵力を消耗させました。彼の取った戦法は接近戦です。離れて戦う場合、兵器の優劣が物を言いますが、接近戦になると、兵器の優劣は、あまり影響しなくなります。さらに、チュイコフは、スターリングラード市民を効率的に兵力として使用しました。このような作戦を取ったのは、スターリングラード市民の確固たる支持があったためですが、実は、もう一つ理由が有りました。
 スターリングラード攻防戦に投入される以前、チュイコフは軍事顧問団の団長として、中国で日本との戦いを支えていました。チュイコフがスターリングラードで取った戦法は、中国での日本との戦いの経験から得られたものだったのです。
 このように、スターリングラード攻防戦を勝利に導いたのは、ノモンハンや中国での、日本との戦いの経験があったためです。

 1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツ第三帝国は崩壊しました。ベルリン陥落作戦全体を指揮したのはジューコフです。また、真っ先にベルリンに攻め込んだ一人がチュイコフでした。ジューコフ・チュイコフの経験は、このときも十分に生かされていました。

 このように考えると、日本との戦争の経験は、独ソ戦勝利にたいして、大きな要因になっていたことは疑いないでしょう。日本のおかげで勝利したといったら、言いすぎですが。
 1945年8月、ソ連は対日参戦します。ドイツ戦勝利から3ヵ月後でした。3ヶ月の間に、軍隊をシベリア・極東に移送し、圧倒的な軍事力で,一気に関東軍を殲滅する作戦に出ました。ノモンハンの経験が生きていました。

1月19日は東京裁判所条例60年の日2006年01月20日

 1946年1月19日は東京裁判所条例の日です。この日、マッカーサー指令で極東軍事裁判所が設置されることが決まりました。降伏文書・ポツダム宣言に基づき、東京裁判所条例が設定され、この条例に基づき、東京裁判が実施されたので、形式的に見るならば、東京裁判は正当・合法です。不当・違法を主張する根拠は、何なのだろう。
 現在の憲法理念によれば、戦前の行政には、不当・違法と思えるものが有ります。だからと言って、戦前の行政は不当・違法であるとの主張には賛成できません。おなじように、占領下には、占領下の施政があるのだから、占領施政下で、正当・合法ならば、それで十分に思うのですが。。。

平和ニ対スル罪:
 極東国際軍事裁判所条例の第五条には、次のように、「平和ニ対スル罪」が条例中に規定されています。このため、東京裁判の判決で、平和に関する罪が認定されたことは、形式的には適法です。

本裁判所ハ,平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
(イ) 平和ニ対スル罪 即チ,宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争,若ハ国際法,条約,協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画,準備,開始,又ハ遂行,若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。

 平和に関する罪の議論は、東京裁判のなかで、弁護側が再三主張し、判決第二章の冒頭で触れられています。合法性の根拠として、1928年のパリー不戦条約があげられています。
 平和に関する罪を批判する人がいますが、結局、条約解釈論で、自分に都合よく解釈している言説であるか、自分の理念なり感情による、判決の批判にしか思えません。

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