東京裁判-その後(1) ― 2006年02月04日
昨年9月から、極東国際軍事裁判(東京裁判)とサンフランシスコ条約の文言の問題を何回かにわたって書きました。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2005/09/21/82024
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2005/10/16/109772
などです。
サンフランシスコ条約日本語版は正しい翻訳であること、日本は東京裁判の正当性を含めて、東京裁判を受諾したものであることを説明しました。
重要な2つの点をまだ書いていませんでした。
①裁判で有罪となった被告人の罪は、その後、赦免され無罪となったのか、それとも、有罪のままか。
②日本は東京裁判の判決に示されている「東京裁判史観」を尊重する必要があるか。
まず、①の件について。
有罪判決を受けたもののうち、死刑判決を受けたものは、講和条約以前に絞首刑が執行されています。
懲役刑のものは、講和条約発効から程なくして、全員が出所し、その後、何人かは政府要人として活躍しています。だからといって、刑自体が取り消されたわけではないのです。
平成3年当時の海部内閣が、参議院質問趣意書の答弁書で明確に説明しています。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/121/touh/t121012.htm
(この、回答書は有名なので、知っている人も多いと思います。)
A級戦争犯罪人として有罪判決を受けた者のうち減刑された者は十名(いずれも終身禁錮の判決を受けた者である。)であり、いずれも昭和三十三年四月七日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。なお、赦免された者はいない。
・・・
なお、その減刑の処分決定には理由が付されていないが、我が国の勧告は、本人の善行及び高齢を理由とするものであった。
要するに、受刑者として模範的であったこと、などの理由で、刑が減刑されたのであって、罪が否定されたわけではありません。もし、罪が否定されたのであるならば、受刑中の日当を支払う責任が生じますが、そんなものは支払われてはいません。つまり、東京裁判の判決は無効になっていないのです。
(なお、靖国神社に合祀されているA級戦犯14人は、赦免・減刑などの措置はとられていません。)
世の中には、不思議な考え違いをする人もいるものです。『すでに、A級戦犯受刑者はいないのだから、戦争犯罪などなかったのだ。』このような主張があります。
次の場合を考えてください。ある殺人犯がいたとします。彼は懲役15年の刑に処せられたとします。刑期8年目で、減刑されて出所したとしましょう。この場合、殺人犯が無罪になったのだと主張する人はどれだけいるでしょうか。さらに、殺人は正義だったのだと主張する人はどれだけいるでしょうか。
もっと極端な場合を想定してください。ある凶悪犯が、死刑になり死刑が執行されたとします。それ以上の刑に執行はありえません。だからといって、もう済んだことなので、犯罪者ではなかったとか、凶悪な犯行が正義とみなされるようになったと、主張する人はどれだけいるでしょうか。
これと同じことで、A級戦犯は減刑されたり、あるいは、死刑の執行が完了したけれども、無罪になったわけでも、ましてや、戦争犯罪が正当化されたわけでもありません。
では、A級戦犯を靖国神社が合祀して、多くの人が参拝することは正しいことなのか、誤りなのでしょうか。
先ほどの、死刑が執行された凶悪犯や、減刑された殺人犯のたとえを考えてください。減刑され、出所した殺人犯は、通常の社会生活を営むことが許されるので、「俺のやったことは正しいんだぞー」と言ったところで、特に罪になることはありません。死刑囚に対しても、死刑囚の子供が、彼のことを「立派な人だった」「彼の行為は正しかった」と主張したところで、特に犯罪になるわけではありません。しかし、殺人被害者遺族からしたら、眉を背けたくなる主張で、非難されてしかるべきでしょう。
A級戦犯を靖国神社が合祀しても、多くの人が参拝しても、これらの行為は犯罪ではありません。しかし、犯罪被害国だった、中国・朝鮮にしてみたら、眉を背けたくなる行為でしょう。
だいぶ長くなってしまったので、『②日本は東京裁判の判決に示されている「東京裁判史観」を尊重する必要があるか』は、また今度書きます。
東京裁判-その後(2) ― 2006年02月06日
「東京裁判史観」とは何であるのか、よく分かりませんが、日本の誰が、何を尊重する必要があるのか、具体的に考えないといけない問題です。
東京裁判の判決は司法判断です。司法では何をどのように尊重する必要があるでしょう。日本国憲法第76条では、『すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される』となっているので、東京裁判の判決には拘束されませんね。
次に行政ではどうでしょう。憲法第98条では『日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする』となっているので、東京裁判の判決は誠実に遵守する必要があります。東京裁判の判決に反して、A級戦犯に対して重ねて起訴することはできません。
しかし、行政が司法判断に示された判決理由に束縛される制度は日本には存在しません。東京裁判の判決理由に示された内容に、日本政府の行政が束縛されるとの解釈は成り立たないでしょう。
しかし、日本は東京裁判の判決を受諾しています。このため、東京裁判の判決文に対して「これは誤りである」「違法である」などと、評論する立場にもないわけです。
では、政治家はどうでしょう。東京裁判の判決理由に示された内容に従ったほうが、選挙のときに票が取れるのならば、特に、従わないと落選する恐れがあるのならば、東京裁判の判決理由に示された内容に従がわなくてはなりません。これは、法的要請ではなくて、単に、個人利益の問題です。
現在、日本政府は、東京裁判の判決に抵触するような行為を行っていません。また、東京裁判の判決を否定する評論をしているわけでもありません。東京裁判判決を金科玉条のごとく扱ってもいません。おおむね妥当な態度だと思います。
以上、つまらない結論になってしまいました。
木村汎著『日露国境交渉史』について ― 2006年02月07日
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2005/08/02/39396
このうちの1つは、サンクト・ペテルブルグ条約のタイトルの件です。
(中公新書P66の記述)
サンクト・ペテルブルグ条約のタイトル自体「樺太千島交換条約」と略称されて、日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか。すなわち、これは、文字通り樺太における日本の権益を放棄することの交換において日本が新しく獲得した地域が千島であることを示している。
(解説)
サンクト・ペテルブルグ条約はフランス語が正文であり、日本語文は日本国内の私訳にすぎない。日本語文に便宜上どのようなタイトルがついたとしても、条約とは関係ないことであり、ロシアの預かり知らないことである。木村汎氏は「日露双方によって不思議と思われなかった」と書いているが、ロシアが日本語文を確認したと言う事実は知られていない。実際、条約本文には「千島」なる文字は存在しないので、「樺太千島交換条約」の略称は、条約交渉とは関係ないところで付けられたことが分る。なお、フランス語正文には条約のタイトルは無かったと思う。(確認していないので誤りかも知れない。)
ところで、サンクト・ペテルブルグ条約で日本が放棄した樺太とは、樺太すべてではないので、「獲得した千島は千島のすべてである」との主張が、全く成立し得ないことは明らかでしょう。
昨年10月、角川選書から改訂新版が出版されました。
角川選書の改訂新版では、この部分は欠落しています。誤りを削除することは当然ですが、何の断り書きもないのはどうしたことでしょう。旧版を真実と思い込んで学習した一般の人は、誤りを気づくことなしに、誤った北方領土返還要求にこだわり続ける恐れがあります。
まともな学者ならば、誤りが分かったならば、こっそり削除するのではなく、きちんと説明すべきです。
インチキペテン師はウソがばれたときには、こっそり削除するものなので、まあ、そういう類の図書であるならば、致し方ないのですが。(そういう本には思えないのです。)
誤りではないが、多くの読者に誤解を与えると思われる表現の箇所は、そのままです。
海外から強い批判を浴びている、扶桑社の歴史教科書は、言葉遣いによって、日本が正しかったのだと、言いくるめようとしている箇所が、多々見受けられます。右翼的歴史学者は、読者に事実を伝えることではなく、わざと誤解を与え、自分の考えを押し付けようとする傾向が強いのはなぜでしょう。
木村汎著『日露国境交渉史』改定新版 ― 2006年02月09日
昨年10月、角川選書から改訂新版が出版されました。改定新版と旧版(中公新書)の違いを説明します。
改定新版では、エリツイン時代の後半と、プーチン時代の領土交渉が加筆されています。さらに、解決策の部分がだいぶ変っています。序章も違います。それ以外の部分、日露の出会い・国境確定・戦後の占領・国交回復・田中ブレジネフ会談・ゴルバチョフ、と、これらの説明は、多少違いはありますが、大きく変ったところは無いようです。
中公新書の旧版は¥754に対して、角川選書の新版は¥1995と2倍以上になっています。内容が2倍以上になったわけではないけれど、どちらかを入手しようかと思っている人は、最新の知識も加わっている、新版のほうがよろしいかと思います。
北方領土問題に関心のある人は、『北方領土問題 歴史と未来』和田春樹/著(朝日新聞社1999.3) あるいは、『北方領土問題と日露関係』長谷川毅/著(筑摩書房2000.4) と、この木村汎著『日露国境交渉史』の両方を読むと良いでしょう。両方を読むことをおすすめします。
和田春樹氏・長谷川毅氏の本は、正確な知識を伝える事を目的としているようです。木村汎氏の本は、四島返還論の正当性の根拠を理解する上で重要です。
免訴 ― 2006年02月10日
判決は妥当なのだろうけれど、おもしろくない判決です。
刑事訴訟法上の再審は、ほとんどの場合、新たな事実が明らかになることによって、確定判決の事実認定をやり直す制度です。今回の横浜事件の裁判も、事実認定が再審理由でした。ところが、昨日の判決は、法律解釈に終始し、事実問題が判決に触れられていません。なんとなく、肩透かしを食らったような。
(今回の再審判決は、法律解釈に終始していたけれど、法律問題が再審査されたわけではないので、お間違いなきよう。)
一度確定した判決を覆すのって、たいへんですね。横浜事件など、冤罪である証拠などいくらでも有ったでしょうに。ここまで来るのに、戦後60年もかかってしまった。確定判決を覆すことはできない、これが司法の原則なんですよね。
事実問題:事実関係の確定についての問題
法律問題:事実に関係する法律の解釈・適用の問題
木村汎著『日露国境交渉史』について ― 2006年02月11日
今回も 木村汎/著『日露国境交渉史』(以下・木村本) について書きます。
吉田全権の、サンフランシスコ条約受諾演説に関連して、木村本には次のように書かれています。(新版、旧版とも同じ。)
吉田全権は1954年9月7日に、「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます」とのべた。同全権は、つづけて言明した。「色丹島及び歯舞諸島は、北海道の一部を構成し」「択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿さまなかつたのであります」。(新版ではP151、旧版ではP124)
実際はちょっと違って、吉田全権は次のように発言しています。
千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。
日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。
千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。
木村本は、一見すると、吉田発言を短くまとめたように見えるでしょう。しかし、よく見ると、明確な意図に基づく細工がされています。
吉田発言では、「千島南部の二島、択捉、国後両島」「北千島と樺太南部」「樺太南部」の順に説明し、「千島列島及び樺太南部は…」、とまとめています。その次に、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」の説明をしています。
重要な点が3つあります。
①択捉・国後両島を「千島南部の二島」と説明している。
②南千島・北千島・南樺太を「千島列島及び樺太南部」とまとめている。
③歯舞・色丹を「日本の本土たる北海道の一部」と説明している。
サンフランシスコ条約では、日本は千島列島を放棄しました。①②では択捉・国後両島が千島列島であるとの印象が明確です。③では歯舞・色丹が日本の本土である事を明確にしていますが、同時に、択捉・国後両島が日本の本土ではないとの印象になっています。
木村本では、歯舞・色丹が先にきて、国後・択捉が後になります。歯舞・色丹の説明で、「日本の本土たる」が欠落し、さらに、択捉、国後両島を「千島南部の二島」と説明した事実が欠落しています。
すなわち、木村本では、3つの重要な点が欠落されているのです。この3つの点は、すべて、二島返還論につながるものです。
サンフランシスコ会議の前後に行われた、政府の国会答弁は、国後・択捉を放棄する二島返還論でした。この答弁の中心になったのは、西村熊雄条約局長です。そして、吉田演説の原稿を書き、英文を作成し、更に、演説の時、英語の同時通訳をしたのも、西村熊雄条約局長だったのです。
木村本では、吉田演説の中で、二島返還論につながる部分を巧妙に削除し、四島返還が吉田演説の意図であったかのような細工がなされています。
学者の書く解説本にしては、随分と細かい細工に驚きます。木村本のみに頼って、北方領土問題を理解したかのような錯覚にとらわれることなきよう、ご注意ください。
注)吉田全権の発言もおかしなものです。
①『千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。』
ソ連代表は、そんなことを言っていません。
②『千島南部の二島、択捉、国後両島』
択捉、国後両島とだけ言えば、それで話は通じるのに、なぜあえて「千島南部の二島」と言うことにより、日本が放棄した千島列島の一部ととられかねない発言をしたのでしょう。
③『得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。』
事実に反します。北千島諸島はロシアの領土でした。また、当時日露両国人の混住の地は、樺太全島であって、南樺太だけではありませんでした。
④『樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。』
事実に反します。このとき、樺太全島を露領としています。譲渡したのは「樺太南部」ではなくて、樺太の権利です。
②③④はなぜ、このような発言をしたのか、今となっては知る由もありません。しかし、よく読んでみると、もし、事実が吉田発言の通りだとしたら、全千島返還論を有利にするものです。吉田発言は、全千島返還論のためだったのではないのだろうかとも思えます。
サンフランシスコ条約で、千島列島を放棄することは、吉田にとって耐え難いことだったに違いありません。歯舞・色丹がすぐに返還されなかったことも不満だったでしょう。このとき、吉田の課題は、早期に歯舞・色丹を取り戻すことと、全千島の返還を将来の課題とすることだったのではないでしょうか。
しかし、その後、日本は四島返還論に固執するあまり、北千島を完全に失い、歯舞すら返還されていない。
木村汎/著『日露国境交渉史』について ― 2006年02月12日
『ウラジヴォストークは、東方を征服せよ』の意味であるとの説明がなされることがあります。『日露国境交渉史(新版)』P75には次の説明があります。
ムラヴィヨフは、一八六〇年の北京条約によって清国から割譲された海参威をウラジヴォストークと名づけた。「東方(ヴォストーク)」を「支配せよ(ウラジ)」の意味である。これらの行動は、ロシアの一方的な拡張欲をしめすかのように解釈されがちである。だがすくなくとも部分的には、当時の北東アジアにおける米英の進出にたいするロシアの反応であった。防衛の要素もふくまれる攻撃、あるいは防衛にかこつけてはじめるものの結果としては当初の目的を逸脱して拡大に終わる。このような意味で、形容矛盾の表現のように聞こえるかもしれないが、「防衛的膨張主義」と名づけうる行動であった。
ロシア政治史の専門家だけ有って、的確な説明です。ウラジの意味も、征服ではなくて、支配のほうが、より適切な訳語です。いい加減なロシア評論家の説明とは、わけが違います。
木村汎/著『日露国境交渉史』は、一般向けに書かれた解説書ですが、知識豊富な、この道の第一人者の筆になるものなので、内容の正確さと、レベルの高さは、四島返還論を主張する北方領土解説本の中では、群を抜いています。
二島返還論につながりかねない事実に関係する部分だけが、おかしな記述になります。著者は、よほど、二島返還論が嫌いなようです。