木村汎著『日露国境交渉史』について2006年02月11日

今回も 木村汎/著『日露国境交渉史』(以下・木村本) について書きます。

吉田全権の、サンフランシスコ条約受諾演説に関連して、木村本には次のように書かれています。(新版、旧版とも同じ。)

 吉田全権は1954年9月7日に、「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます」とのべた。同全権は、つづけて言明した。「色丹島及び歯舞諸島は、北海道の一部を構成し」「択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿さまなかつたのであります」。(新版ではP151、旧版ではP124)

実際はちょっと違って、吉田全権は次のように発言しています。

 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。
 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

 木村本は、一見すると、吉田発言を短くまとめたように見えるでしょう。しかし、よく見ると、明確な意図に基づく細工がされています。

 吉田発言では、「千島南部の二島、択捉、国後両島」「北千島と樺太南部」「樺太南部」の順に説明し、「千島列島及び樺太南部は…」、とまとめています。その次に、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」の説明をしています。
 重要な点が3つあります。
 ①択捉・国後両島を「千島南部の二島」と説明している。
 ②南千島・北千島・南樺太を「千島列島及び樺太南部」とまとめている。
 ③歯舞・色丹を「日本の本土たる北海道の一部」と説明している。

 サンフランシスコ条約では、日本は千島列島を放棄しました。①②では択捉・国後両島が千島列島であるとの印象が明確です。③では歯舞・色丹が日本の本土である事を明確にしていますが、同時に、択捉・国後両島が日本の本土ではないとの印象になっています。

 木村本では、歯舞・色丹が先にきて、国後・択捉が後になります。歯舞・色丹の説明で、「日本の本土たる」が欠落し、さらに、択捉、国後両島を「千島南部の二島」と説明した事実が欠落しています。

 すなわち、木村本では、3つの重要な点が欠落されているのです。この3つの点は、すべて、二島返還論につながるものです。
 サンフランシスコ会議の前後に行われた、政府の国会答弁は、国後・択捉を放棄する二島返還論でした。この答弁の中心になったのは、西村熊雄条約局長です。そして、吉田演説の原稿を書き、英文を作成し、更に、演説の時、英語の同時通訳をしたのも、西村熊雄条約局長だったのです。
 木村本では、吉田演説の中で、二島返還論につながる部分を巧妙に削除し、四島返還が吉田演説の意図であったかのような細工がなされています。

 学者の書く解説本にしては、随分と細かい細工に驚きます。木村本のみに頼って、北方領土問題を理解したかのような錯覚にとらわれることなきよう、ご注意ください。


注)吉田全権の発言もおかしなものです。

①『千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。』

 ソ連代表は、そんなことを言っていません。


②『千島南部の二島、択捉、国後両島』
 
 択捉、国後両島とだけ言えば、それで話は通じるのに、なぜあえて「千島南部の二島」と言うことにより、日本が放棄した千島列島の一部ととられかねない発言をしたのでしょう。


③『得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。』
 
 事実に反します。北千島諸島はロシアの領土でした。また、当時日露両国人の混住の地は、樺太全島であって、南樺太だけではありませんでした。


④『樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。』
 
 事実に反します。このとき、樺太全島を露領としています。譲渡したのは「樺太南部」ではなくて、樺太の権利です。

 ②③④はなぜ、このような発言をしたのか、今となっては知る由もありません。しかし、よく読んでみると、もし、事実が吉田発言の通りだとしたら、全千島返還論を有利にするものです。吉田発言は、全千島返還論のためだったのではないのだろうかとも思えます。
 サンフランシスコ条約で、千島列島を放棄することは、吉田にとって耐え難いことだったに違いありません。歯舞・色丹がすぐに返還されなかったことも不満だったでしょう。このとき、吉田の課題は、早期に歯舞・色丹を取り戻すことと、全千島の返還を将来の課題とすることだったのではないでしょうか。
 しかし、その後、日本は四島返還論に固執するあまり、北千島を完全に失い、歯舞すら返還されていない。  

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