北方領土問題 - 日本は国後・択捉を放棄していた2006年02月18日

 現在、日本国内では北方領土問題と言うと、北方四島の問題です。このため、日本は最初から四島返還を求めていたように、誤解されがちです。実際は、1951年のサンフランシスコ条約締結当時、日本政府の主張は、二島返還論でした。
 現在のような四島返還論になるのは、1956年以降です。(実際にはもう少し早くて、1955年12月から、日本政府内部においても、四島返還論になっています。)
 この間の政府の説明を簡単にまとめて見ました。

 1951/10/19、国後・択捉両島は、サンフランシスコ条約で放棄したことを、西村条約局長は明白に説明しています。西村答弁は、日本国内の四島返還論にとって都合が悪いので、「西村条約局長は混乱してこのような答弁をしたのだ」とか、「まだ、日本は占領下だったので、本当のことが言えなかったのだ」などと、ごまかしが行われます。しかし、実際は、西村答弁だけではなく、草葉答弁や島津答弁も同じように、千島には国後・択捉両島が含まれていると説明しています。さらに、サンフランシスコ条約が発効し、日本国が占領を脱した1年後の、1953/3/5の下田答弁でも、日本の領土問題は歯舞・色丹と竹島だけであると、国後・択捉が日本の領土で無いとの認識を示しています。
 下田氏は外務省退官後、長い間、最高裁判所の判事を務め、最近は、プロ野球コミッショナーだったので、ご存知の人も多いでしょう。

 四島返還論は、日ソ国交回復を控えた、1955年終わりから1956年はじめに起こった、政治的主張です。政治の都合で変化してしかるべきものです。再び二島返還論に戻るのか、あいだを取って、三島返還論になるのか、さらには、威勢よく、全千島返還論になるのか、今後の政治情勢で、変化しても不思議の無いことです。


1946/1/29 SCAPIN-677
 日本の行政を停止する地域として、『千島列島、歯舞群島、色丹島』との記述。千島列島には国後・択捉島は含まれるが、歯舞群島・色丹島を含まれないとの考えは、ここから生まれている。


1950/3/8 島津答弁
 『ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです』


1951/9/8 サンフランシスコ条約調印
 『日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する』


1951/10/19 西村答弁
 『条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味である』


1951/11/6 草葉答弁
 『国後及び択捉の問題は…これはやっぱり千島と…解釈を下すのが妥当であります』


1952/4/28 サンフランシスコ条約発効


1953/3/5  下田答弁
 『現在のところ只今御指摘の歯舞、色丹両島とこの竹島以外に何ら紛争の発生が現実にございませんし、又ありそうな島もないわけでございまする』


1953/7/7 領土に関する決議
 『平和条約の発効以来、歯舞及び色丹島等の復帰を図ることは、わが国民あげての宿望』
 (この時期は、国会決議においても、歯舞及び色丹島等となっており、国後・択捉は返還要求をしていない。ただし、『等』と付いているのは、国内には根強い四島返還・全千島返還要求があったことを反映している。)


1956/2/11 森下答弁
 この答弁が、四島返還論の統一見解とされている。これ以降、日本政府は四島返還論になっている。(実際は、数ヶ月前から四島返還論である。)


1961/10/3 池田首相答弁
 『私は条約局長の言っておることは間違いと思います』。
 池田首相は、1951/10/19の西村答弁を、このように否定した。

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