竹島問題-もっとまじめに取り組んで欲しい2006年12月21日

久しぶりに、外務省の竹島のページを見たら、あきれた誤りが訂正されていました。
(以前の記述)
江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。
(現在の記述)
江戸時代の初期(1618年)、伯耆国の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していた。その際、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。
注1)伯耆藩は存在しません

注2)大谷家に残る古文書には鬱陵島を拝領したことが記されているそうです。大谷家には、ほら吹きがいたということを証明する資料でしょう。なお、『伯耆藩』の文字は、同じ文書に記載されています。このような資料を採用しないのは良いことでしょう。

注3)『遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた』この記述は変更されていません。これは、上記、大谷家に残る古文書に記載されたもので、史実とするには無理があります。
このように、2点が訂正されています。しかし、外務大臣答弁は訂正されていません。
平成十七年四月十五日(金曜日)衆議院外務委員会における町村信孝外務大臣答弁

竹島の領有権の根拠という部分でございます。これは、資料は手にするだけでも大変大部なものでございまして、多少読み上げることをお許しいただきますと、相当古くから竹島を、昔は松島とも呼んでいたようでございますが、認知してきた。江戸時代の初期、一六一八年、したがって徳川幕府ができて間もなくでございます。伯耆藩の、これは鳥取でございますけれども、大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受けて、毎年この島で漁業を行い、アワビを幕府に献上していましたけれども、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には、両家は幕府から竹島を拝領していたというところが、それ以前にもまたいろいろな事実があるようでございますが、一応、かなり確認できる部分としてはそのあたりからのものがある。

外務省のホームページは訂正されたけれど、外務大臣答弁は訂正されていません。外務省は、日本政府の正式説明である、外務大臣の答弁は誤りであるとの認識なのでしょうか。

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