乃木2007年05月01日


今日はメーデーなのでお休み。中央メーデー集会に参加することも無いので、近所の霊園に行きました。霊園入り口に、乃木さんの胸像があります。戦死した人も多かったのだろうなーと思いつつ、乃木さんの禿頭をなでてみました。

オオヨシキリ2007年05月02日


加須市浮野の里へ行きました。湿原です。アシ原で、オオヨシキリが「ギョン ギョン」と鳴いていました。水の中では、ウシガエルが鳴いているし、結構にぎやかです。
写真は、樹上で鳴いていたオオヨシキリ。

世界は北方領土をどのように理解しているか2007年05月03日

ブリタニカ百科事典でKuril Islandsを調べると。

The Kurils were originally settled by the Russians, ...
In 1855, however, Japan seized a group of southern islands ...
In 1945, as a part of Yalta agreements, the islands were ceded to the Sovit Union, ...

 千島に最初に住み着いたのはロシア人であった。1855年に日本は南千島をseizeした。1945年にソ連領になったのは、ヤルタ協定に従ってcedeした。
 seizeを辞書で調べると、強奪したとか、力ずくで取ったとか、そういう意味が有ります。cedeは、条約に従って合法的に割譲したとの意味です。
 
 ブリタニカの解説では、最初にロシア人が住み着いた領土を、1855年に日本が強奪し、1945年にソ連に対して合法的に割譲された、そういうことになりかねません。
 日本と、ロシアとで、解釈が異なるのは当然としても、ブリタニカの説明は、ロシアの主張以上に、日本に厳しい解釈です。アメリカやイギリスからすれば、日独伊3国は悪の枢軸で、それに対抗したヤルタ協定は正義であるということが、自明な前提なのでしょう。
 ヤルタ協定に日本は加盟していないので、領土問題とは関係ないと、日本政府は説明します。しかし、一般の欧米人の感覚では、そのように理解されてはいないようです。世界をどのように説得しているかと言う点で、北方領土問題を見ると、日本はロシアに大きく後れを取っているように思えます。

北方領土問題2007年05月08日

掲示板に書いた記事の転載です

北方領土問題のページに加筆しました。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm

 北方領土要求の根拠の一つに、「ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかった」との説があります。この説の出所は、水津満少佐の証言です。和田春樹氏はこれを「単純な誤解」としていますが、北方領土要求のためのデッチアゲではないだろうかという気がしてなりません。

 連休中、北方領土関連の文献を幾つか読み、その中に、水津の講演記録等も幾つかありました。これらをあわせると、次のようになります。

 『水津が乗せられたソ連駆逐艦は、8月26日に松輪島を占領し3000人の日本兵を武装解除した、その後、新知島で偵察の結果、日本兵がいないことを確認し、さらに、得撫島に到着したときは濃霧と台風接近のため島に上陸せずに、島を1周し、数時間沖合いに仮泊し、そして、27日に北へ戻った』水津はこのように説明しています。
 どう考えても、日程的に不可能です。

 故意に日付けをごまかし、それを返還運動関係者は知っていながら、故意に嘘を吹聴して、国民をだまし続けたのではないだろうか。そんな不信感が心の中に沸いています。
 このあたり、何かご存知のかた、何かご教示ください。

北方領土問題2007年05月10日

 5月8日の記事では、北方領土要求の水津満の証言はデッチアゲの可能性が有ると書きました。
 平成3年にゴルバチョフが来日して、海部総理と会談したとき、総理から、水津満証言を元に、領土要求をしたことを、日本政府は国会の場で明らかにしています。もし、水津満の証言が捏造だったとしたならば、日本外交の国際的信用は失われかねません。和田春樹氏の想像である「単純な誤解」だとしても、日本の北方領土要求は世界の笑いものになります。
参議院 外務委員会 平成03年04月23日

○政府委員(兵藤長雄外務省欧亜局長) その点はまさに海部総理から、日本の主張の一つの重要な根拠として領土不拡大方針というものを、戦後の処理の過程として大西洋憲章から引き起こしまして説明をいたしました。その点は明確に主張をいたし、さらに水津満参謀が水先案内人でおりてきて、得撫島まで来て択捉を見て、ここは日本固有の領土であるから米国の占領地であると言って反対した事実、これはとりもなおさずスターリンの拡張主義というものの具体的な例であるという主張をいたしました。
 それに対して、ゴルバチョフの方はヤルタ協定というものを持ち出しまして、これは戦後のこの協定によって決着済みであるという論理を中心とした反論をいたしました。


衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 平成03年04月24日

○兵藤政府委員 六回にわたります大変厳しい交渉の過程におきまして、海部総理大臣より繰り返し北方四島の主権の主張を展開したわけでございますが、その中で、海部総理も何回か北方四島の占拠というものはスターリン時代の拡張主義というもののもとにおいてなされたということで、例えば水津満参謀の有名な証言があるわけでございますが、その証言を紹介される等してソ連の当時の占領の非を鋭くつかれたわけでございます。
 ところで、千島歯舞居住者連盟創設者の高城氏は、8月27日9時ごろ、択捉島西岸沖にソ連軍艦が現われたと証言しています。このとき、高城氏はソ連軍艦に乗り込み、艦長と会談しています。ソ連は留別湾の位置を知らなかったようで、高城氏は位置を教えました。この会談のなかで、米軍の進駐の有無を尋ねられたというようなことはなかったようです。8月26日に大泊を出航したソ連軍艦は、択捉島の詳細を知らなかったけれど、米軍の進駐の有無に関らず、択捉島に上陸占領の意思を有していた事実がうかがえます。

史的検証竹島・独島2007年05月13日

 最近出版された『史的検証竹島・独島(内藤正中・金柄烈 (著)  岩波書店』を読みました。竹島問題を理解する上で、欠かせない、最良の教科書です。

 3月に出版された『竹島=独島論争 歴史資料から考える(内藤正中・朴炳渉 /著 新幹社』と同じような内容ですが、新幹社の本は、日本政府による竹島固有の領土論を批判することに重点が置かれているのに対して、こちらは、主に日本に残る歴史資料を元に、竹島問題の解明に重点が置かれています。

 著者の島根大学名誉教授・内藤正中氏は歴史学者で、特に、島根県の歴史がご専門のようです。歴史学者であるため、歴史考証は厳密正確です。
 竹島日本領論を唱えている第一人者は拓殖大学の下條正男氏ですが、こちらは著書によって主張が異なることがあったり、我田引水的解釈が目立ったりと、歴史の解説としてみると力量に格段の違いを感じます。現在、島根県は下條氏を座長として、竹島問題の研究をしているようですが、内藤正中氏を中心に据えれば、もっとまともな研究ができるのではないだろうかと思います。

北方領土要求の根拠にはインチキがある?2007年05月20日

掲示板に書いた記事の転載です。以下の記事の続きです。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/05/08/1492695


 北方領土要求の根拠の一つに、「ソ連もはっきりと千島列島を得撫島以北と考えていたために、はじめは択捉島以南の諸島を占領する意思のなかった」との説があります。この説の出所は、水津満少佐の証言です。水津の証言は、日にちがどうしても一日合わないように思えるので、水津の幾つかの文献を、更に読んでみました。
 ①『北方領土を奪還しよう』(日本及日本人 1969年1月号)
 ②『ソ連は北方四島を放棄していた』(文藝春秋 1975年5月号)
 ③『私は見た ソ連の千島不法占領』(自由民主 1981年9月号)
 ④『占守島いまだ停戦せず』(学芸書林発行 証言私の昭和史 1969.10)
なお、以下の文献はこれまで読んだことがあります。
 ⑤根室市総務部企画課領土対策係/編『北方領土』(1970.3.30)
 ⑥北方領土百年記念刊行会/編『帰れ北方領土』(1968.7.29)
 ⑦読売新聞社/編『昭和史の天皇6 ああ北方領土』(1980)
 ⑧水津満/著『北方領土解決の鍵 元北千島師団参謀の実証と提言』(謙光社1987.2)

水津の証言では以下の4点が疑問です。
a)新知島を出航したのは8月何日の何時ごろか。
b)ウルップ島を離れたのは8月27日の日中でよいか。
c)水津の乗った船は、ウルップ島を1周したか。
d)水津の乗った船は、最初は国後島まで行くような話しであったのか、誰から聞いたのか。

a)はどの文献にも日付けが書いてありません。この日付があれば、b)が嘘であることが明白になるはずです。だから、故意にごまかしている可能性が高いと思われます。
b)はどの文献にも27日とありますが、時間はどこにも有りません。ただし、太陽が出ていたと書かれた文献があります⑧。
c)文献①⑤に書かれているので、間違いないのでしょう。
d)はそのような話だったと、ほとんどすべての文献に書いていますが、誰から聞いたのかは、どこにもありません。誰からも聞いていない可能性があります。

水津の行動で、a)~d)について、何かご存知でしたならば教えてください。

 木村汎氏は、ソ連が北方四島に上陸するときに、日本人住民に決まって「アメリカが来ていないか」と尋ねたとして、それを、水津の証言の補強根拠としています。
 しかし、木村説は事実だろうか。もし、ソ連が北方四島に上陸するときに、日本人住民に決まって「アメリカが来ていないか」と尋ねたとしたのならば、それは、ロシア語で尋ねたのか、日本語で尋ねたのか、英語で尋ねたのか。千島連盟創立者の高城氏は、択捉島にソ連艦が現れたとき、最初に乗り込んだ人ですが、片言の英語が通じたと書いています。また、色丹島にソ連軍が上陸したとき、色丹村長は、手振り身振りで話をしたと書いています。
 当時の千島住民には、外国語ができる人はほとんどいなかった。ソ連軍人に、日本語ができる人は少なかった。もし、そうだとしたら、日本人住民に決まって「アメリカが来ていないか」と尋ねたとの、木村汎説は、誤りか、捏造ではないだろうかと思えてなりません。

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