久間防衛相発言2007年07月01日

新聞報道によると、久間防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大学の講演で、「間違えると北海道までソ連に占領されていた。原爆も落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、『あれで戦争が終わったんだ』という頭の整理でしょうがないなと思っている」と述べたそうである。原爆投下の正当化と受け取れる、防衛相として、もっともふさわしくない発言であり、野党はいっせいに反発している。

原爆投下を正当視している問題は、多くの批判があるのでここでは触れない。

 「間違えると北海道までソ連に占領されていた」との発言は、全く歴史に反した、冷戦時代の悪質な反ソ宣伝の焼き直しである
 そもそも、長崎原爆投下は、ソ連参戦の後に行われているので、ソ連参戦を阻止するためで、ないことは、はっきりしている。広島原爆投下の後も、日本政府はポツダム宣言を受諾していないが、ソ連が参戦すると、あわててポツダム宣言を受諾した。このことからも、日本のポツダム宣言受諾に、ソ連参戦は決定的に重要だったことがわかる。
 
 米国の北海道空襲は7月14日、15日に行われており、千島列島周辺海域もすでに米軍の行動範囲だった。
 8月18日、ヤルタ協定に従って、スターリンとトルーマンの間の往復電報で、千島列島はソ連の占領、北海道は米国が占領することが同意された。ソ連軍が千島に現れたのは、同じ日の8月18日である。結局、ソ連・アメリカの間では、ヤルタ協定に従って、日本の占領地域が定められている。

 歴史に『もし』を言っても仕方ないが、あえて、『もしソ連の千島占領がもっと早かったら』、あるいは『もしソ連の占領が遅く米国が千島を占領していたら』どうなっていただろうか。類似の例はドイツ・イエナがそれに当たる。イエナには世界最大の光学機器メーカー、カール・ツアイスの本部があった。イエナはチューリッヒ州にあるため、ソ連占領地であることが合意されていた。ところが、ソ連の占領がもたついたため、カール・ツアイスの確保をもくろんだ米国は、イエナをいち早く占領してしまった。しかし、ソ連の抗議によって、最終的には、イエナはソ連に引き渡された。結局、実際の現場のドサクサ紛れの占領よりも、首脳間の合意が優先するという、当たり前の結末に至っている。
 連合国(国連)による、日本の占領では、首脳間合意に従った行動がなされたが、もし、それに反した行動があったとしても、首脳間合意が優先されたであろうことは容易に推定できるだろう。
 なお、イエナを占領した米国は、イエナ撤退前に、カール・ツアイスの主要メンバーを西側に拉致した。これが、戦後の、カールツアイスの分裂(イエナとオーバーコッヘン)に繋がって行く

固有の領土論2007年07月06日

 ユーラシア21研究所理事長で拓殖大学客員教授等を務める吹浦忠正氏は、北方領土問題研究の第一人者の一人です。氏は、Blogを公開し、頻繁に記載しています。
 吹浦忠正氏は、Blogに、どなたかが択捉島で寛永通宝を拾ったことを理由に、「江戸時代に日本人がいた、ここは日本固有の領土であるということを今さらながら証明したようなものだった」と書いています。
 どうしてこんな発想をするのでしょう。日本には、渡来銭(宋銭など)ぐらい、いくらだってあります。日本に宋銭があるからといって、日本列島は中国の固有の領土であると、今さらながら証明したようなものだなどと、考えるような人はいないでしょう。
 択捉島に寛永通宝があったところで、驚くに値しません。江戸時代、アイヌの人たちと、松前の人たちの間で、交易が行われていたことを示しています。この時代、国後島・択捉島などのアイヌの人たちが、日本やロシアと交易をしていたことは、良く知られていることです。
 なお、博物館には、山丹錦と呼ばれる着物が展示していることがありますが、これは、アイヌの人たちが中国(山丹)と交易をしていた証です。

 北方領土は日本の固有の領土であると主張する人たちが居ます。幕末に、日本とロシアの間で結ばれた下田条約によって、日本の領土になったので、そのことを『固有の領土』と言うならば、その意味において、固有の領土との表現は間違いではありません。
 ところが、『固有の領土』の語感に惑わされて、太古の昔から日本人が支配していたかのような錯覚に囚われると、先住民族の存在を無視し、彼等を貶めることになりかねません。固有の領土論は、主張を誤ると、民族蔑視になりかねないので、十分注意する必要があります。

北方領土返還運動の目的2007年07月13日

 拓殖大学客員教授を務める吹浦忠正氏は、北方領土問題研究の第一人者の一人です。氏は、Blogを公開し、頻繁に記載しています。吹浦忠正氏は、北方領土返還運動の目的を以下のように説明しています。
私など旧島民のために返還運動をしているわけではない。日本と日本人の矜持として取り組んでいるのであり、法と正義が国際政治に十分反映されるべきであるとしてやっていることだ。返還運動は、孫子に引き継いででも、というのでいいのだ。
 『矜持』は、『矜恃』と書く事も多く、『きょうじ』あるいは『きんじ』と読みます。意味は、『誇り』『自負』『プライド』のことです。
 『日本と日本人の矜持』とは、何であるのかは、人によってだいぶ違いそうなので、ここでは触れずに、『法と正義』の具体的内容を検討します。

 最初に、法について。直接、北方領土問題に関連している、現在有効な国際法、国際司法は、以下のようなものでしょうか。
①日ソ共同宣言
 両国間に平和条約が締結された後に、ソ連の善意で、歯舞色丹を日本に引き渡すことを規定。

②サンフランシスコ条約
 日本は千島列島の領有を放棄。

③国連憲章
 旧敵国条項(この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。)

④極東国際軍事裁判所の判決
 ソ連対日参戦は正当なものであることを認定。
 この4つが、国際政治に十分反映されるべきとの主張であるならば、全く同感です。
 『法と正義』による解決は、現在プーチンが主張しているところです。もし、日本政府が、まじめに法による解決を望むのならば、日ロ間の合意は、それほど困難では無いように思います。


 『正義』は人によって違うので、一概には言えないけれど、日本の蝦夷地進出で有名どころは3つです。
①コシャマインの乱
②シャクシャインの乱(松前藩側は和議を申し入れ、和議の酒宴で暗殺)
③クナシリメナシの乱(投降したアイヌを殺害)

 現在の視点から見ると、あまり誇れるようにも思えないのですが、先住民の弾圧に関しては、日ロとも同じようなものです。日本だけが悪いとか、ロシアだけが悪いとか、そのようなものでは有りません。



 北方領土は日本の固有の領土であると、主張する人がいます。日本の固有の領土であることが『正義』であるようです。固有の領土論を主張する人の多くは、アイヌの視点が乏しいようです。

 和人はアイヌを平定することにより、蝦夷地に進出したわけですが、これをどう見るのかによって考えが違うのかも知れません。普通の人は、軍事力・奸計に劣ったアイヌを、和人が支配して、アイヌの地を日本の領土に組み入れた、と考えるでしょう。
 でも、固有の領土論を主張する人は、ちょっと違う考えをもっているのかもしれない。『人類に属する和人が、畜類に属するアイヌ(あ、犬だ=アイヌだ)を家畜化して、領土を開拓した。』まあ、ここまではっきり言う人は、さすがに居ないけれど。

 参議院議員選挙が始まりました。北海道選挙区には、アイヌ民族の女性が立候補しています。さて、選挙結果やいかに。
 なお、北海道選挙区には、息子で元秘書の道議が、最近、道議を辞職した候補も居ます。辞職の理由は『酒気帯び運転がばれた』。せっかくの選挙なのだから、あまりにもレベルの低いスキャンダルは止めて欲しい。

図書紹介-日本人が行けない「日本領土」 北方領土・竹島・尖閣諸島・南鳥島・沖ノ鳥島上陸記2007年07月14日

 
山本皓一/著 『日本人が行けない「日本領土」 北方領土・竹島・尖閣諸島・南鳥島・沖ノ鳥島上陸記』小学館(2007/5/31) を読みました。

著者は写真家です。この本は、著者が撮影のために行った、日本の国境係争地の上陸記です。写真家の著書であるため、若干の写真も掲載されていますが、写真は多くありません。

 写真の本としてみると、これら地域の写真としては、出色のできですが、写真の掲載点数が少なすぎます。
 上陸記として見ると、それほど興味ある文章では有りません。まあ、この点は、好みによりますが。
 領土問題の解説も、安倍総理との対談を含めて、かなりのページ数に上ります。しかし、内容は、日本の政治家の政治宣伝や、簡単なパンフレットをそのまま書いているような程度です。
 竹島問題では、最近、岩波書店から内藤正中氏等による、しっかりした解説書が出版されているので、それと比べると、内容がプアーなだけではなく、日本に都合の良い我田引水的解釈が、そのまま史実であるかのような記載になっています。
 北方領土問題の解説書として見ると、類似の本(北方領土の上陸記で写真があるもの)は、ソ連崩壊のときに多数出版されています。これらの本は、領土問題の解説書としても、しっかりしているものがたくさんありました。これらの本に比べると、ずいぶん内容が貧弱です。この本の解説を読むならば、無料のパンフレットでも読んだほうが、ましかもしれません。
 領土問題の解説を書くのならば、もう少し、まともな本で勉強してからにして欲しかった。

 ただし、マンガしか読んだことのないような青少年が、領土問題に関心を持ったときに、初めて読む本としては、面白いかもしれません。

本-田久保忠衛/著 日本の領土問題2007年07月22日


 新しい歴史教科書をつくる会 理事である、田久保忠衛氏の著書『日本の領土問題(PHP研究所 2007.4.2発行)』を読みました。お読みになることを推奨しません。

 北方四島・竹島・尖閣等、日本の領土問題を扱っています。
 この本は、1999年にPHP研究所から出版された本に加筆したものです。前書に比べて、若干のデータは追加変更されていますが、本の内容は、おおむね、前書と同じです。

 1992年、ソ連崩壊の頃、ソ連経済は大混乱しました。このとき、北方四島は、ソ連のヨーロッパ部に比べても、更に混乱し、経済は苦境に陥りました。前書が出版された頃は、ロシア社会もだいぶ安定し、北方四島も、平静を取り戻しつつありましたが、前書では、そのことに触れられておらず、若干時代遅れの記述の感がありました。その後、10年近くたち、その間、ロシアの主要輸出産品である原油が高騰し、そのため、ロシア経済は大きく好転しました。北方四島の経済も、かなり好転しています。

 本書は、そのような事実に全く触れられておらず、相変わらずソ連崩壊期の混乱状態が今に続いているかのような記述になっています。もともと、内容が貧弱な上に、古い知識そのままであるため、この本を読んでも何も得ることはないでしょう。北方領土問題に関しては、外務省国内広報課が無料で配布している『われらの北方領土』を読んだほうが、良いでしょう。
 竹島問題に関して言えば、最近、竹島問題を解説した、外務省のホームページが大幅に改訂されました。この本を読むぐらいならば、外務省のホームページを読んだほうがよいでしょう。

 もう少し、内容に踏み込んでみます。ちょっと信じられないような、記述があります。少し長くなりますが、引用します。
『日露国境交渉史』-木村汎著・中公新書-によれば、千島への探検は一七一一年に始まっており、その一人がコサックのコズイレフスキーで、千島列島の北端にあるシュムシュ島、パラムシル島を調査し、そこにいた南千島のアイヌ人から各島の知識を得ている。以来、長らくロシア人の千島南下の記録はなく、一八○○年代に至っても北方四島への接近は見られない。
 ピョートル大帝は日本人の漂流民などから東方への情報を得て関心を持ったが、ペテルブルグから見て千島方面は遥か彼方の遠い地であるうえに、欧州での政策に追われていたので、コズイレフスキーの千島探検以降は積極的に人を派遣するまでには至らなかった。
 エカテリーナ女帝の時代に変わって、日本に通商を求めるため派遣されたのがラックスマンの率いる使節である。一行は一七九二年に北海道根室に到着して交渉を要求したが、幕府は鎖国中のため長崎以外では交渉しないと断り、受け入れを拒否した。
 一八〇三年になってアレクサンドル一世は、レザーノフに親書を託し公式に使節団を送ったが、一行は長崎に到着したにもかかわらず、上陸は認められなかった。この対応に怒ったレザーノフは帰路、部下に命じて樺太と千島の日本人を襲撃し、勤番所や集落を焼き討ちにした。(P77)

 この記述を読むと、ロシア人の千島南下・北方四島への接近は、一八〇三年以降の樺太と千島の襲撃までなかったことになってしまいます。そこで、『木村汎著 日露国境交渉史』を調べてみると、「1830年代になっても、ロシア人の千島南下は北部千島の数島に限られ・・・(P22)」と書かれています。
 しかし、木村の本には、1740年のシパンベルクの航海、1771年のべニョフスキーの警告、1790年の最上徳内のロシア人接触の記述、1792年の大黒屋光太夫の帰国、等、1740年以降の千島南下の様子が記載されており、「1830年代になっても」は1730年代のミスプリントであることが容易に分かるでしょう。実際、田久保も、1803年のレザーノフフの襲撃を記しているのだから、木村の本にある「1830年代になっても」の記述が、単純なミスであることは、分かっているはずです。
 分かっていながら、さらに、それをそのまま引用せずに、1803年のレザーノフフの襲撃と矛盾しないように、「1830年代になっても」を「一八○○年代に至っても」と書き換えているなど、…(書いていて、バカらしくなってきたので、以下省略)

木村汎氏の本-まともな研究者が書いたの本なの??2007年07月28日

 拓殖大学教授の木村汎氏は、北方領土問題研究の第一人者です。
 この分野の研究として、木村氏は、まともな研究者なのでしょうか。良く分からなくなってきました。

 木村汎/著 日露国境交渉史 中公新書(1993.9) P102,103 に以下の記述があります。
ソ連式「クリール列島」理解
もうひとつ重要なことがある。スラビンスキーは、八月十八日、「クリール列島すべて」をソ連領とすることを改めて確認するスターリンの要求にたいして、トルーマンが同意をあたえたと書いている。しかし問題は、「クリール列島すべて」の範囲である。少なくとも現場のソ連軍司令官や兵士たちは、「クリール列島すべて」とはウルップ島までの島々のことを意味し、択捉以南にはおよばないと理解していた節がある。
そのことを証明するものとしては、まず、水津満陸軍少佐の証言がある。…(省略)…。また、先に引用した『元島民が語るわれらの北方四島』も、証言している。北方四島の各々に上陸してきたソ連兵が真っ先に日本人住民に尋ねた質問が、きまって「アメリカ兵は上陸していないか」という問いだった、と。もしこれらの水津少佐および引揚げ元島民の証言を採用するならば、スターリンはいざ知らず、当時のソ連軍の現場の人間の感覚では、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島は、ソ連軍が手に入れうる「クリール列島すべて」の範疇に入っていなかったといえよう。
 この本を読んだとき、木村氏ほどの高名な学者が、嘘・偽りを書くこともないだろうから、北方四島の各々に上陸してきたソ連兵は、きまって「アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねたと証言しているのだろうと思っていました。中公新書では、参考文献・ページの記載がなかったのですが、改訂新版の角川選書では、参考文献とページが記載されていました。

 『元島民が語るわれらの北方四島』シリーズの第一巻の「ソ連占領編」(一九八八)のなかでの証言(P153,P177)

 この参考文献は、東京都立中央図書館の蔵書にあったので、そこで読んでみました。驚いたことに、多数ある証言の中で、「アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねられたとの証言は、わずかに2件だけでした。そのうちの一件は、言葉が分からなかったが良く聞いてみると、日本兵はいないか、アメリカ兵はいないか、と尋ねられた、と記載されています。
 当時、ソ連兵の中に、日本語ができるものはほとんどいませんでしたし、英語のできるものも、ごくわずかでした。北方四島居住者の中に、ロシア語ができる人はおそらく絶無だったと思います。また、英語ができる人も、ごくわずかでした。このため、ソ連兵上陸時に、言葉が通じなかったため、手振り・身振りで意思伝達をしていたことが知られています。元島民の証言は、言葉が理解できなかったことが原因の誤解である可能性が高いものです。
 千島連盟初代会長の高城重吉氏は、早稲田大学で学んだことがあるため、多少の英語を解しました。高城氏は、ソ連軍艦が択捉島に接近したときに、日本人として最初にソ連軍に出会った人です。彼の証言によれば、片言の英語で会話をし、留別等の場所を聞かれたとありますが、アメリカ兵云々の話はありません。(還れ北方領土 高城重吉/著)。また、色丹村長だった、梅原衛氏は、ソ連軍が色丹島に上陸したとき最初にソ連兵と、身振り手振りで交渉した人ですが、彼の証言でも、アメリカ兵云々の話はありません。(北方領土 終戦前後の記録 北海道根室市発行)。
 木村汎氏の示した参考文献でも、他の責任ある人の証言でも、木村氏の書いているように「きまって、アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねた、との証言はありません。

 木村汎氏は、ソ連の理解でも、千島に北方四島は含まれていなかったと説明しています。この、もう一つの根拠は、水津満の証言です。この証言は、かなり怪しく、おそらく日にちを、偽っている可能性が高いものです。 http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/05/20/1520618

 さて、木村汎氏の記述をもう一度良く見てみましょう。
 『水津少佐および引揚げ元島民の証言を採用するならば』と前提条件をつけています。もし、間違いであったとしても、木村氏の責任では無いような書きかたです。嘘であることを知っていながら、さも事実であるかのように書いているのでしょうか。

 虚偽の引用で、結論を捏造しているのかなー。違うかなー。このあたり、何か知見のある方、教えてください。

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