罪の巨コン2008年04月07日

(掲示板に書いた記事の転載です)

 沖縄渡嘉敷島で住民を殺害した赤松の弟等が、大江健三郎ノーベル賞作家を名誉毀損で訴えた裁判は、一審で原告全面敗訴の判決が下されました。原告は判決を不服として控訴しました

 この事件について、曽野綾子の誤読が原因との説があります。
 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118/p1
 大江が『罪の巨塊』と書いたところを、曽野が『罪の巨魁』あるいは『罪の巨魂』と誤読したとのことです。私は、曽野の著作を読んだことがなかったので、曽野綾子(あるいは三浦)なる人物が何を書いているのか良く知りません。それで、『曽野綾子/著 集団自決の真実(ワック)』を、図書館で借りてきて、少し読んでみました。
 普通に日本語ができる人ならば、曽野のように誤読することは無いだろう、そのように感じました。普通に考えたら、誤読ではなくて、捏造ではないだろうか。

 まず、関連する部分を記載します。

大江健三郎/著 沖縄ノート(岩波新書)(P210)
 慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。
曽野綾子/著 集団自決の真実(ワック)(P295)
 大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨魂のまえで……(後略)」
 このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨魂」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。
 大江が『罪の巨塊』と書いたところを、曽野は『罪の巨魂』としています。
 曽野の本が単にミスプリであるとは、ちょっと考え難いことです。大江は『罪の巨塊』と、罪が物であることを示唆しているのに対して、曽野は、『なぜなら私はそこにいあわせなかつたから』と、罪が、赤松個人であるかのような記述をしています。

 ところで、大江は『集団自決』が『命令』によるものであると、断定していません。当時、そのように言われていたので、言われていたことをそのまま書いたに過ぎません。いわゆる『集団自決』が直接、軍の命令であったのか否かは、大江の関心ではなかったのでしょう。
大江健三郎/著 沖縄ノート(岩波新書)(P208)
 このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしずかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。

コメント

_ 松五郎 ― 2008年12月22日 08時43分27秒

「馬から落ちて落馬して」という同義反復がありますが、「余りにも大きな罪の巨塊」とはノーベル賞作家とは思えない同義反復です。それでも「罪」という言葉を媒介してあえてなした文章的修飾でしょう。ここは「余りにも大きな罪」=「罪の巨塊」と読みました。「死体の塊」などとは笑止。後でとりつくろって自らの文章を貶め、自ら「罪の巨塊」になってしまいました。

_ cccpcamera ― 2008年12月22日 15時37分14秒

松五郎さま、コメントありがとうございます。裁判は、判決書を良く読んで、評価すればよいでしょう。現在、最高裁に上告中ですが、地裁判決・高裁判決では、原告赤松や曽野綾子の読み方にたいして、『被告人大江が…守備隊長を指すと読むことはできないとするのは、首肯でき・・・』と、大江の説明が認定されています(高裁判決所P267)。地裁・高裁判決では、文学者としての大江の能力と、曽野綾子の無能ぶりが指摘されたと評価できます。 最終的には、裁判が確定してから、評価すればよいでしょう。

_ 和田 ― 2009年02月03日 15時11分25秒

松五郎さん、
論点を誤っています。
死体も罪の結果であり大きなくくりとしては罪の巨塊が「罪」であることは動きません。
曽野は「罪の巨塊」を罪人・極悪人などと認識したのであり、センテンスに沿えば誤読であることは明らかです。

罪の巨塊などというあやしげな造語を使うのはけしからん、罪の巨塊が死体というのは後出しじゃんけんだろうというのは、論点をはぐらかす単に憤怒という感情へのすり替えすぎません。 論理的に通用しない赤子の駄々に類するものです。

_ cccpcamera ― 2009年02月04日 09時23分53秒

和田様、コメントありがとうございます。

 私も、大江の文章を和田様と同じように読みましたので、曽野説には賛成しかねます。

 ただし、「大きい罪」と書くと、違和感を覚える人がいるのかもしれません。私は、理系の人間なので、「大きい面積」「大きい圧力」などと普通に使うのですが、「広い面積」「強い圧力」と書くべきと言われることも有ります。
 「重い罪」「深い罪」のほうが一般的で、「大きい罪」はどことなく、技術的用語のような雰囲気があります。大江は「巨きい罪」と、技術的用語とは逆の文字を使っていますが、作家としての技量の高さを感じます。

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