北方領土問題(その2・・・日本の立場) ― 2009年02月03日
<1955年ごろまで>
1951年にサンフランシスコ条約で、千島を放棄しました。この当時、日本政府は、放棄した千島に択捉・国後が含まれ、歯舞・色丹は含まれないと説明していました。このため、この時期の日本の領土要求は二島返還論です。
歯舞・色丹が千島に含まれないとする根拠はいくつかあります。
①明治18年以前の行政区分では、歯舞・色丹は根室に所属している。
②歯舞・色丹は千島列島の島々と異なり、根室半島の延長である。
③GHQ指令SCAPIN-677で歯舞・色丹は千島とは別に記載されている。
日本政府の国会答弁では、ヤルタ協定の千島には歯舞色丹を含まないとの根拠がSCAPIN-677であると言っていますが、サンフランシスコ条約の千島に歯舞・色丹が含まれない根拠を明確に説明していません。ただし、①②のほかに、米国に説明したところ米国もその線で理解してくれた、との説明がなされています。
<1956年以降>
1956年2月11日、衆議院外務委員会で、森下政府委員から、四島返還論の立場が明確に示されました。ただし、このときから四島返還論になったのではなくて、既に四島返還論になっていたものを国会で明確にしたのが2月11日でした。
根拠として、次の点が説明されています。
①サンフランシスコ条約は千島の範囲を決定していない
②国後、択捉の両島は常に日本の領土であったので、返還は当然である
③日本国民は連合国が領土拡大を求めていないことを信じて疑わないので、日本固有の領土たる南千島をソ連が自国領土であると主張することは、日本国民一人として納得し得ない
④南千島は水産資源の宝庫で日本人の生業に欠くべからざる島である
このように、1956年の森下答弁以降、北方領土要求の根拠は、法的立場から、国民心情・経済的利益に移っています。
(つづく)
1951年にサンフランシスコ条約で、千島を放棄しました。この当時、日本政府は、放棄した千島に択捉・国後が含まれ、歯舞・色丹は含まれないと説明していました。このため、この時期の日本の領土要求は二島返還論です。
歯舞・色丹が千島に含まれないとする根拠はいくつかあります。
①明治18年以前の行政区分では、歯舞・色丹は根室に所属している。
②歯舞・色丹は千島列島の島々と異なり、根室半島の延長である。
③GHQ指令SCAPIN-677で歯舞・色丹は千島とは別に記載されている。
日本政府の国会答弁では、ヤルタ協定の千島には歯舞色丹を含まないとの根拠がSCAPIN-677であると言っていますが、サンフランシスコ条約の千島に歯舞・色丹が含まれない根拠を明確に説明していません。ただし、①②のほかに、米国に説明したところ米国もその線で理解してくれた、との説明がなされています。
<1956年以降>
1956年2月11日、衆議院外務委員会で、森下政府委員から、四島返還論の立場が明確に示されました。ただし、このときから四島返還論になったのではなくて、既に四島返還論になっていたものを国会で明確にしたのが2月11日でした。
根拠として、次の点が説明されています。
①サンフランシスコ条約は千島の範囲を決定していない
②国後、択捉の両島は常に日本の領土であったので、返還は当然である
③日本国民は連合国が領土拡大を求めていないことを信じて疑わないので、日本固有の領土たる南千島をソ連が自国領土であると主張することは、日本国民一人として納得し得ない
④南千島は水産資源の宝庫で日本人の生業に欠くべからざる島である
このように、1956年の森下答弁以降、北方領土要求の根拠は、法的立場から、国民心情・経済的利益に移っています。
(つづく)
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