麻生太郎には、あきれた ― 2009年06月03日
日本政府がロシアの北方領土支配を「不法占拠」と言ったことに対して、メドベージェフが反発しています。これに対して、麻生太郎が、日本政府の立場を主張したとのニュースがありました。
新聞報道によると、
麻生首相は(5月)30日、北方領土問題について、「(旧ソ連以来)不法占拠が続いている。日本が独立した昭和27年(1952年)から以降、ずっと同じことしか言っていない」と述べ、主権は日本にあると改めて強調した。視察先の横浜市内で、記者団の質問に答えた。(読売新聞5月31日)
はじめ見たとき、政府見解かと思ったのですが、良く見ると、記者会見の中での発言なんですね。麻生太郎が頭悪いとしても、それは生まれつきだろうから仕方ないとしても、知らなければ、官僚に聞けばいいのに。無知をさらけ出して、恥ずかしい。官僚たちは麻生太郎にあきれて、放置しているのかなー。
昭和31年(1956年)参議院外務委員会で下田武三政府委員は、次のように、説明しています。
「日本が独立した昭和27年から以降、ずっと同じことしか言っていない」とは、無知も甚だしい。個人が無知なのは仕方ないとしても、総理大臣談話がウソの積み重ねというのでは情けない。
不法占拠と言うようになったのは、1964年の池田内閣のときからだと思います。なお、現在、日本政府の説明は、「ソ連が占拠した。現在も不法占拠の状態が続いている。」との表現を使うことが多く、ソ連・ロシアはいつから不法占拠しているのかとか、日本政府はいつから不法占拠と言っているのかを明確にしていないと思います。
新聞報道によると、
麻生首相は(5月)30日、北方領土問題について、「(旧ソ連以来)不法占拠が続いている。日本が独立した昭和27年(1952年)から以降、ずっと同じことしか言っていない」と述べ、主権は日本にあると改めて強調した。視察先の横浜市内で、記者団の質問に答えた。(読売新聞5月31日)
はじめ見たとき、政府見解かと思ったのですが、良く見ると、記者会見の中での発言なんですね。麻生太郎が頭悪いとしても、それは生まれつきだろうから仕方ないとしても、知らなければ、官僚に聞けばいいのに。無知をさらけ出して、恥ずかしい。官僚たちは麻生太郎にあきれて、放置しているのかなー。
昭和31年(1956年)参議院外務委員会で下田武三政府委員は、次のように、説明しています。
従来は、これらの島々に対するソ連の占領は戦時占領でございました・・・事実上ソ連が解決がつくまで押えてあるということを、日本は不問に付するという意味合いを持っておるのでありまするから、これもあながち不法占拠だということは言えません。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19561129Sangiin.htm
「日本が独立した昭和27年から以降、ずっと同じことしか言っていない」とは、無知も甚だしい。個人が無知なのは仕方ないとしても、総理大臣談話がウソの積み重ねというのでは情けない。
不法占拠と言うようになったのは、1964年の池田内閣のときからだと思います。なお、現在、日本政府の説明は、「ソ連が占拠した。現在も不法占拠の状態が続いている。」との表現を使うことが多く、ソ連・ロシアはいつから不法占拠しているのかとか、日本政府はいつから不法占拠と言っているのかを明確にしていないと思います。
日本の歴史は裏切りの歴史 ― 2009年06月04日
今日は6月4日。タイトルは大げさ。
Залив ИЗМЕНЫ:
国後島の一番南側の湾を日本では「泊湾」と言います。また湾奥の町を「泊」といいます。ロシア語ではそれぞれ「ZALIV IZMENY」「Golovnino」。ZALIV=湾 IZNENY=裏切り です。
1811年6月4日(たぶん旧暦だと思う)、沖に停泊して交渉を求めたGolovninは日本の背徳的裏切りで捕らえられたので、このような名称が付けられています。
北方で、日本人(和人)が、蝦夷と衝突した事件としてもっとも有名なのは、シャクシャインの乱です。松前藩は、偽計によりシャクシャインに和睦を申し出、酒宴の席で謀殺しました。
アイヌ最後の抵抗であるクナシリ・メナシの乱では、武装解除に応じたアイヌを護送名目で仲間から引き離し、ノッカマップで惨殺しました。現在、慰霊祭(ノッカマップ・イチャルパ)が毎年行われています。
謀殺を得意とする日本が、裏切りをするのは当然なのですが、そんなことをGolovninは知らなかったでしょう。
写真は、明治時代に、千島・泊村郵便局で使用された切手。日本はサンフランシスコ条約で千島列島の領有を放棄しましたが、国後島は千島国なので、消印にも千島と書かれています。
ソ連邦英雄 ― 2009年06月14日
リヒャルト・ゾルゲ略歴 ― 2009年06月14日
ゾルゲ事件-宮城与徳同志 ― 2009年06月15日
ゾルゲ事件-尾崎秀実 同志 ― 2009年06月16日
徳田球一の墓 ― 2009年06月17日
浅沼稲次郎の墓 ― 2009年06月18日
安保闘争 ― 2009年06月19日
1960年の安保条約反対闘争で、もっとも痛ましい事件は、東大生・樺美智子さんの死亡です。
樺美智子さんの墓も多磨霊園にあります。墓標には高校生時代に作った詩が刻まれています。
樺美智子さんは、1960年6月15日のデモで全学連が国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡しました。直接の死亡原因は圧死と言うことになっているけれど、右翼か警官隊が殺したのかもしれない。
学生運動がほとんど見かけられなくなった頃、極、まれに行われる学生のデモに遭遇したことがあります。場所は渋谷だった。警備の機動隊員が、学生デモ隊を蹴っていた。ばれないように、不必要な暴行。
その後、知ったのですが、右翼も機動隊員も優秀な学生に対して、ねたみ・ひがみの感情を持っていて、あわよくば痛めつけたいとの感情を持っていることも珍しくない。今でも、大学生がスピード違反で警察官に捕まると、警察官に八つ当たりして、警察官の頭の悪さをとことん言い立てる学生もいます。警察官は職務をこなさなくてはならないけれど、落ち込むよ。気の毒です。
東大の女子大生を見たら、中卒・高卒の右翼や警官隊が、ねたみを持つのもうなづけます。デモがなければ、映画でも見ていただろうに、エリートのおかげで、何で自分達が仕事する必要が有るんだ、と、癪にも触るでしょう。積極的に殺害したかどうかはわからないけれど、暴行に全く加担していないかというと、それも・・・・真相は永遠に闇の中。
PMR ― 2009年06月22日
新聞によると、モルドバ議会は結局大統領を選出することが出来ず、解散になるそうです。
今年の4月、議会選挙では、共産党が大勝して、定数101人中、60議席を獲得しました。この選挙結果に一部暴徒化して騒乱が有ったのですが。
モルドバ議会は大統領を選出する必要があり、そのためには61票が必要なのだとか。勝利した共産党は1議席不足で、結局大統領を選出できず、そのまま解散になるのだそうです。
モルドバは、元々、紛争地域を抱えています。それが、PMR。
PMR(Transnistria、沿ドニエストル共和国)とは、旧ソ連邦のモルダビア共和国が連邦離脱したときに、工業化が進んでいたドニエストル川東の地域が、遅れたモルダビアになることを嫌って、独立宣言して出来た共和国です。おそらく、どこの国も承認していないと思います。(モルダビアはモルドバに改名しています。)
写真は、PMRのBenderyの市内郵便物。Benderyはドニエストル川の西にあるのだけれど、PMRの一部です。この郵便物にはPMR独自の切手が使用され、消印もキリル表記です。BenderyはPMR側の呼び名で、Tighinaがモルドバ側の呼び名かもしれない。