大湊基地と日露戦争 ― 2009年07月04日
大湊基地は、北方方面の海軍力強化のために、つくられており、日露戦争と密接な関係が有ります。
大湊水雷団と日露戦争
明治35年(1902年)8月1日、大湊水雷団を設置し、日本海軍の北日本方面における拠点を確保した。
主な任務は津軽海峡の防備であり、所属部隊は敷設隊、水雷艇隊、修理工場だけであった。
当時日露関係は険悪となり、一触即発の情勢であった。
明治37年2月、日露戦争が勃発し海峡防備が急務となり、横須賀から巡洋艦「高雄」、後に「武蔵」も加わり水雷団の水雷艇隊と
共に函館を根拠地として津軽海峡の防備に当たった。しかし対岸のウラジオストックからロシア艦隊は日本海沿岸で行動し、我が国の船舶は少なからぬ被害を受けた。
同年7月、ロシア・ウラジオストック艦隊は白昼、堂々と海峡を通り、太平洋沿岸で行動した。このため急遽津軽海峡警備艦隊(司令官宮岡直記大佐大湊水雷団艮兼務)が編成され、厳戒態勢を執ったが、再びロシア艦隊の海峡通過を許してしまった。
翌38年5月、ロシアバルチック艦隊が津軽海峡を通航する可能性があるとし、機雷敷設部隊を主力とした津軽海峡防禦司令部を編成した。しかし連合艦隊は日本海海戦において大勝利を収め日露戦役はおおむね終結したが樺太占領作戦が残されていた。
明治38年6月15日、樺太占領作戦のため第3艦隊と第4艦隊による北遣艦隊(司令長官片岡四郎海軍中将)を編成し、6月下旬から片岡司令長官が座乗する「八雲」以下、数10隻の艦艇が大湊湾を埋め尽くした。
同作戦は陸軍との協同作戦であり、第一次と第二次とに分けて大湊、青森、函館、小樽を拠点として艦隊作戦を進め、樺太を占領したが、艦隊は警備のため10月上旬まで同方面で行動した。(北洋館パネルより)