ツアー登山の遭難 ― 2010年08月02日
8月2日、北海道・日高山脈ヌカビラ岳で中高年ツアー登山の遭難がありました。「疲労や増水でツアー客の身動きが取れなくなった」ため、道警のヘリでツアー客8人全員が救助されました。ガイドスタッフ4人は自力下山。
全員救助されたので、よかったのですが。。。
「疲労や増水」って、何だ!?
登山すれば疲労するのは当たり前、そういう時は休息します。沢が増水して身動きとれないときは、水が引くのを待つのは当たり前のことです。「疲労や増水」で救助を求めるって、どういうことなのだろう。
ツアー登山って、どうもよくわからない???
全員救助されたので、よかったのですが。。。
「疲労や増水」って、何だ!?
登山すれば疲労するのは当たり前、そういう時は休息します。沢が増水して身動きとれないときは、水が引くのを待つのは当たり前のことです。「疲労や増水」で救助を求めるって、どういうことなのだろう。
ツアー登山って、どうもよくわからない???
ツアー登山の遭難-アキレル ― 2010年08月03日
8月2日、北海道・日高山脈ヌカビラ岳で中高年ツアー登山の遭難がありました。「疲労や増水でツアー客の身動きが取れなくなった」ため、道警のヘリでツアー客8人全員が救助されました。ガイドスタッフ4人は自力下山。
ニュース報道によると、遭難原因は『膝が痛くなったから』のようです。
高齢者の場合は、年齢的なものがあって、治りが遅いのかもしれない。
自分は、どの程度歩くと、どの程度痛んで、どの程度休めば治るのかを、事前に知っていなくてはならない。
疲労・膝の痛みで救助を頼んだのかなー。そうだとしたら、アキレル。
昨年のトムラウシ山大遭難では、救助要請の遅れが、一部、批判の対象になっていました。このため、高齢者ツアー登山では、安易な救助要請がなされるよう傾向があるのでしょうか。「顧客の一人が靴ずれを起こすという重症で身動きが取れなくなったのでヘリの出動を要請する」!
ニュース報道によると、遭難原因は『膝が痛くなったから』のようです。
北海道斜里町の山田雄一さん(63)は「とにかく雨と風が強かった。降りる途中で右足を痛めてしまい、それ以上は降りられなかったので、ガイドと話をして救助を呼ぶことになった」と話しました。(NHKニュース)私も、膝が弱いので、登山すると痛くなることがあります。少し力が加わっただけで、刺すように痛む。でも、足を延ばして数時間たつと嘘のように治ります。まれに、翌朝になっても完治しないこともありますが、そういうときは、少し動かして、温めるとほとんど痛みはなくなります。
登山客は「やっぱり、わたしの両ひざが、関節痛くて歩けない。まったくやっぱり、わたしが歩けない状態だった。」と話した。(FNNニュース)
救助されたツアー登山客の50~60代の男性6人と女性2人は2日午後、医師の診断で、けががないことが確認された。(山陽新聞)
高齢者の場合は、年齢的なものがあって、治りが遅いのかもしれない。
自分は、どの程度歩くと、どの程度痛んで、どの程度休めば治るのかを、事前に知っていなくてはならない。
疲労・膝の痛みで救助を頼んだのかなー。そうだとしたら、アキレル。
昨年のトムラウシ山大遭難では、救助要請の遅れが、一部、批判の対象になっていました。このため、高齢者ツアー登山では、安易な救助要請がなされるよう傾向があるのでしょうか。「顧客の一人が靴ずれを起こすという重症で身動きが取れなくなったのでヘリの出動を要請する」!
トムラウシ山遭難考(22)-遭難の真の原因(推測) ― 2010年08月04日
2009年7月16日、トムラウシ山で高齢者ツアー登山の大量遭難事故があった。登山客15人、ツアースタッフ3人のパーティーのうち8人が低体温症で凍死した未曽有の大惨事だった。
トムラウシ山遭難事故調査特別委員会よる「トムラウシ山遭難事故調査報告書」が、今年の3月初めに作成・公開されている(http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf) 。
報告書では、低体温症の原因は「強風を最大の要因」とし、ガイドの責任を強調している。本Blogでは、着衣がまともならば、当時の風程度であるならば低体温症とはならないことを簡単な計算により確認し、(http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2010/07/08/5205609 )低体温症の原因として考えられる要素には以下の3つがあることを指摘した。
a)気象条件 b)不十分な着衣 c)登山技術の問題
一応、大真面目に検討した結果ですが、低体温症の原因として考えられるものを3つのカテゴリーに分類したに過ぎず、内容のない結論です。
遭難者の着衣(実際に何を着ていたのか、防寒具は何を持っていたのか)や、体力・技術を明らかにしない限り、気象条件・着衣・登山技術が、今回の遭難にどのようにつながったのかを解明することはできません。
さらに、濡れは低体温症に重要な影響を及ぼすけれど、この点も解明されていません。当初は全員がビショヌレだったかのように言われたけれど、実際には、濡れなかった人がいることは確実で、さらに濡れなくても低体温症になった人もいるので、個々の登山者の濡れがどのようだったかを解明すべきです。ただし、当時の気象条件では、まともな登山用雨具を正しく着用していれば着衣を濡らすことはありませんでした。
重要なことが解明されておらず、遭難原因を特定することは困難な状況ですが、何も書かないのも面白くないので、以下、推測を書きます。
普通、早朝に小屋を出発すると、日が高くなるにつれて気温が上がってくるものだけれど、この日は、逆に気温が下がったため、小屋に比べて北沼では気温が4~5℃低くなった。おまけに、強風になったため、小屋を出発した時に比べ、ずいぶん寒くなっていた。(これは事実です。)
前日、雨の中、悪路を歩いたために、多くの人はかなり疲労したが、小屋で一泊した朝になっても、高齢者のため、疲労が回復しなかった。このため、歩行は、かなり遅いペースだったので、身体が冷えてきた。なかには、不十分な雨具の着用や発汗のために、歩行途中に着衣を濡らした人がいたかもしれない。(推測です。)
ロックガーデンを越えて、北沼につくと、そこで停滞することになるが、気温は下がり、風は強く、運動による発熱もなくなったので、かなり寒くなった。このような場合は、幾つかの対処法が考えられる。
①寒くても平気な体力がある。
②日頃、薄着を心がけ、寒さに強くなる。
③その場で走るなり運動して体を温める。
④着衣を増やす。
⑤ホカロンなどで温める。
ところが、高齢者で、体力がなく、日ごろ寒さ慣れもしておらず、おまけにその場で運動する気も起きなかったので①②③の対処はできなかった。ホカロンは持っていなかったので、⑤もできなかった。つまり④の対処しか方法がなかった。なお、北沼到着以前にかなり寒くなっていた人もいた。寒さ対策のため、着衣を増やした人もいたが、多くの人は、着衣を増やすことがなかった。結局、気温が下がり風が強くなったのに、防寒対策をしなかったことが大量遭難につながった。(これは、推測です。)
注意)寒さ対策にホカロンは有効です。薄くて軽いので、イザと言うときのために、普通の大きさのホカロンを持つことをお勧めします。2つ持つと良いです。1つは自分のため、もう1つは誰かにあげるため。
では、なぜ、着衣を増やさなかったのか。防寒具を持っていなかったとか、濡らして使えなかった人もいるかもしれないけれど、多くの人は持っていたけれど使わなかったのではないだろうか。高齢者は、たいてい、防寒対策は結構しっかりしています。登山用品店に夏用ダウンジャケットを勧められ、それを持っていた人も多かったでしょう。(推測です。)
ダウンジャケットは保温性に優れているのだけれど濡れに弱いので(一部の商品は防水・ハッ水加工されている)、雨の中、着るのは大変です。風が強ければ、誰か手伝ってくれる人がいなければ、着用はたいへん。(これは事実です。)購入のときに「濡らしてはだめですよ」とのアドバイスを受けた人は、一人で着用する気がしなかったでしょう。(これは推測。)生還男性登山客の中には、ガイドが着用指示をしなかったと、ガイドを非難している人がいますが、普通の人なら、周りに寒がっている人がいたら「寒いですね、厚着したほうがいいですよね、手伝いましょうか」ぐらい言うよねー。(これは、疑問。) しかし、高齢者の集まりだったため、お互いに協力し合うということができなかった。(単なる推測です。)
と言うことで、遭難被害を拡大した最大の要因は、登山客自身の性格的な問題があったのではないだろうか。別な言い方をすると、登山客は、非常時でも、お互いに協力しあって危機を乗り越えるものではないという事実に、ガイドたちは気づいていなかったのではないだろうか。ガイドはツアー登山ガイドの経験は豊富だったろう。また自分自身が山で困難になった経験や、遭難の話は知っていたと思うけれど、ツアー登山ガイドとして遭難に遭遇した経験はなかったのではないだろうか。だから、自分が勉強・見聞した遭難対処をしたのだろう。これがいけなかったと言うべきか、登山客の教育がいけなかったと言うべきか、登山にふさわしくない人たちを募集してツアーを組んだと言うべきか。
トムラウシ山遭難事故調査特別委員会よる「トムラウシ山遭難事故調査報告書」が、今年の3月初めに作成・公開されている(http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf) 。
報告書では、低体温症の原因は「強風を最大の要因」とし、ガイドの責任を強調している。本Blogでは、着衣がまともならば、当時の風程度であるならば低体温症とはならないことを簡単な計算により確認し、(http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2010/07/08/5205609 )低体温症の原因として考えられる要素には以下の3つがあることを指摘した。
a)気象条件 b)不十分な着衣 c)登山技術の問題
一応、大真面目に検討した結果ですが、低体温症の原因として考えられるものを3つのカテゴリーに分類したに過ぎず、内容のない結論です。
遭難者の着衣(実際に何を着ていたのか、防寒具は何を持っていたのか)や、体力・技術を明らかにしない限り、気象条件・着衣・登山技術が、今回の遭難にどのようにつながったのかを解明することはできません。
さらに、濡れは低体温症に重要な影響を及ぼすけれど、この点も解明されていません。当初は全員がビショヌレだったかのように言われたけれど、実際には、濡れなかった人がいることは確実で、さらに濡れなくても低体温症になった人もいるので、個々の登山者の濡れがどのようだったかを解明すべきです。ただし、当時の気象条件では、まともな登山用雨具を正しく着用していれば着衣を濡らすことはありませんでした。
重要なことが解明されておらず、遭難原因を特定することは困難な状況ですが、何も書かないのも面白くないので、以下、推測を書きます。
普通、早朝に小屋を出発すると、日が高くなるにつれて気温が上がってくるものだけれど、この日は、逆に気温が下がったため、小屋に比べて北沼では気温が4~5℃低くなった。おまけに、強風になったため、小屋を出発した時に比べ、ずいぶん寒くなっていた。(これは事実です。)
前日、雨の中、悪路を歩いたために、多くの人はかなり疲労したが、小屋で一泊した朝になっても、高齢者のため、疲労が回復しなかった。このため、歩行は、かなり遅いペースだったので、身体が冷えてきた。なかには、不十分な雨具の着用や発汗のために、歩行途中に着衣を濡らした人がいたかもしれない。(推測です。)
ロックガーデンを越えて、北沼につくと、そこで停滞することになるが、気温は下がり、風は強く、運動による発熱もなくなったので、かなり寒くなった。このような場合は、幾つかの対処法が考えられる。
①寒くても平気な体力がある。
②日頃、薄着を心がけ、寒さに強くなる。
③その場で走るなり運動して体を温める。
④着衣を増やす。
⑤ホカロンなどで温める。
ところが、高齢者で、体力がなく、日ごろ寒さ慣れもしておらず、おまけにその場で運動する気も起きなかったので①②③の対処はできなかった。ホカロンは持っていなかったので、⑤もできなかった。つまり④の対処しか方法がなかった。なお、北沼到着以前にかなり寒くなっていた人もいた。寒さ対策のため、着衣を増やした人もいたが、多くの人は、着衣を増やすことがなかった。結局、気温が下がり風が強くなったのに、防寒対策をしなかったことが大量遭難につながった。(これは、推測です。)
注意)寒さ対策にホカロンは有効です。薄くて軽いので、イザと言うときのために、普通の大きさのホカロンを持つことをお勧めします。2つ持つと良いです。1つは自分のため、もう1つは誰かにあげるため。
では、なぜ、着衣を増やさなかったのか。防寒具を持っていなかったとか、濡らして使えなかった人もいるかもしれないけれど、多くの人は持っていたけれど使わなかったのではないだろうか。高齢者は、たいてい、防寒対策は結構しっかりしています。登山用品店に夏用ダウンジャケットを勧められ、それを持っていた人も多かったでしょう。(推測です。)
ダウンジャケットは保温性に優れているのだけれど濡れに弱いので(一部の商品は防水・ハッ水加工されている)、雨の中、着るのは大変です。風が強ければ、誰か手伝ってくれる人がいなければ、着用はたいへん。(これは事実です。)購入のときに「濡らしてはだめですよ」とのアドバイスを受けた人は、一人で着用する気がしなかったでしょう。(これは推測。)生還男性登山客の中には、ガイドが着用指示をしなかったと、ガイドを非難している人がいますが、普通の人なら、周りに寒がっている人がいたら「寒いですね、厚着したほうがいいですよね、手伝いましょうか」ぐらい言うよねー。(これは、疑問。) しかし、高齢者の集まりだったため、お互いに協力し合うということができなかった。(単なる推測です。)
と言うことで、遭難被害を拡大した最大の要因は、登山客自身の性格的な問題があったのではないだろうか。別な言い方をすると、登山客は、非常時でも、お互いに協力しあって危機を乗り越えるものではないという事実に、ガイドたちは気づいていなかったのではないだろうか。ガイドはツアー登山ガイドの経験は豊富だったろう。また自分自身が山で困難になった経験や、遭難の話は知っていたと思うけれど、ツアー登山ガイドとして遭難に遭遇した経験はなかったのではないだろうか。だから、自分が勉強・見聞した遭難対処をしたのだろう。これがいけなかったと言うべきか、登山客の教育がいけなかったと言うべきか、登山にふさわしくない人たちを募集してツアーを組んだと言うべきか。
トムラウシ山遭難考―訃報 ― 2010年08月04日
東京都あきる野市伊奈 無職 小池雅彦様(45歳)は、秩父ブドウ沢ヘリコプター墜落遭難現場近くで、先月25日(ヘリコプター墜落当日)沢から転落して重体であるところを救助されましたが、搬送先の病院でまもなく死亡しました。27日、ご家族により本人であることが確認されました。
謹んでお悔やみ申し上げます
小池様は、トムラウシ遭難Blogで有名な人(sub eight)です。トムラウシ遭難で生還した男性登山客の一方的言い分を掲載していました。数度Mailのやり取りをしたことがあります。
トムラウシ遭難の登山客とは違って、若いころから沢登りの経験も豊富で、トレイルランをするほどの体力の持ち主だったようで、どうして遭難したのか不思議です。
秩父の遭難死者は合計9人。最初の人はともかく、ヘリのパイロットはベテランだろうし、日テレのカメラマンも山を良く知っている人でした。皆、遭難するような人ではないのだけれど。
ご冥福をお祈りします
謹んでお悔やみ申し上げます
小池様は、トムラウシ遭難Blogで有名な人(sub eight)です。トムラウシ遭難で生還した男性登山客の一方的言い分を掲載していました。数度Mailのやり取りをしたことがあります。
トムラウシ遭難の登山客とは違って、若いころから沢登りの経験も豊富で、トレイルランをするほどの体力の持ち主だったようで、どうして遭難したのか不思議です。
秩父の遭難死者は合計9人。最初の人はともかく、ヘリのパイロットはベテランだろうし、日テレのカメラマンも山を良く知っている人でした。皆、遭難するような人ではないのだけれど。
ご冥福をお祈りします
トムラウシ山遭難考―本の紹介 ― 2010年08月09日
本の題名:トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか
著者:羽根田治, 飯田肇, 金田正樹, 山本正嘉
出版社:山と渓谷社
定価:1680円
著者:羽根田治, 飯田肇, 金田正樹, 山本正嘉
出版社:山と渓谷社
定価:1680円
昨年7月16日、北海道のトムラウシ山で15人のツアー登山パーティのうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きました。これまで、いろいろな検証がなされてきましたが、本書は、これらの集大成です。
本の内容は以下の項目となっている。
①遭難の経緯②松本ガイドの証言③低体温症の解説④遭難時の気象条件⑤運動生理学的から見た本遭難⑥まとめとしての提言
このうち、『①遭難の経緯』はこれまで伝えられていた集大成、あるいは、それ以上に詳しい内容になっている。特に、断片的ではあるが、登山客の着衣にも触れられており、低体温症の真の原因に迫れる内容になっている。『②松本ガイドの証言(本書では山崎ガイド)』は雑誌『山と渓谷2010年8月号』の記事とほとんど同じ内容。『③低体温症の解説』はトムラウシ山遭難事故調査特別委員会のトムラウシ山遭難事故調査報告書(以下、報告書と書きます)と類似した内容であるが、報告書にある『低体温症にならないために』の項は少なくなっている。ただし、他の遭難事例の考察なども追記され、内容的にはかなり豊富になっているので、低体温症のさらに深い理解が得られるだろう。『④遭難時の気象条件』『⑤運動生理学的から見た本遭難』は報告書とほぼ同じ内容。
報告書では遭難の第一の原因はガイドのミスと結論し、ガイドのスキルアップの必要性を強調していた。本書の、『⑥まとめとしての提言』の部分は、報告書とは異なり、もう少し幅広い考察がなされている。
①遭難の経緯②松本ガイドの証言③低体温症の解説④遭難時の気象条件⑤運動生理学的から見た本遭難⑥まとめとしての提言
このうち、『①遭難の経緯』はこれまで伝えられていた集大成、あるいは、それ以上に詳しい内容になっている。特に、断片的ではあるが、登山客の着衣にも触れられており、低体温症の真の原因に迫れる内容になっている。『②松本ガイドの証言(本書では山崎ガイド)』は雑誌『山と渓谷2010年8月号』の記事とほとんど同じ内容。『③低体温症の解説』はトムラウシ山遭難事故調査特別委員会のトムラウシ山遭難事故調査報告書(以下、報告書と書きます)と類似した内容であるが、報告書にある『低体温症にならないために』の項は少なくなっている。ただし、他の遭難事例の考察なども追記され、内容的にはかなり豊富になっているので、低体温症のさらに深い理解が得られるだろう。『④遭難時の気象条件』『⑤運動生理学的から見た本遭難』は報告書とほぼ同じ内容。
報告書では遭難の第一の原因はガイドのミスと結論し、ガイドのスキルアップの必要性を強調していた。本書の、『⑥まとめとしての提言』の部分は、報告書とは異なり、もう少し幅広い考察がなされている。
と言うことで、最初と最後の章を始めとして、一読の価値があります。本書では登場人物が仮名になっているので、本事件に対して興味を持ってきた者にとっては、若干読みにくい。私は、仮名と本名の対応表を作って読みました。
この本を読むと、戸田新介氏(本書では久保博之)は嫌なやつで、言っていることも必ずしも信用置けないと感じます。斐品真次氏(本書では清水武志)は人間味あふれる立派な人に感じます。著者は、両人ともにインタビューして、そう思ったのでしょうか。
トムラウシ山遭難考(23)-遭難の真の直接原因 ― 2010年08月12日
7月中旬に、「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」が出版された。この本には、生還者を中心に、何名かの着衣の様子が記されている。同書は仮名を使っているので、実名を推測した。推測に、誤りがあるかもしれません。
そもそも寒くなかった
斐品氏(自力下山)
途中で防寒具を着用
亀田・長田氏(自力下山)、戸田氏(自主ビバーク後自力下山)、真鍋氏(自主ビバーク)
注)真鍋氏は軽度の低体温症になった可能性あり。
注)亀田・戸田氏はロックガーデン付近でダウンやフリースを着用、真鍋氏は北沼分岐でダウンを着用。長田氏はレスキューシートを着用。
防寒着不着用(濡れのため着用する防寒具がなかった)
前田氏(自力下山)、松本氏(全身ずぶぬれ、重度の低体温症から生還)
防寒着不着用(持っていたが着なかった)
石原氏(重度の低体温症から生還)、竹内氏(死亡)
静岡パーティーの1名(低体温症から生還)
本に記載なし
野首氏(自主ビバーク)、多田氏(自主ビバーク)
吉川・植原・木村氏(死亡)
川角・市川・味田・岡氏(死亡)
このうち、植原・木村氏は早い段階から体調不良だったこと、吉川ガイドは体調不良者のケアに忙殺されたので、防寒着を着用していない可能性が高い。多田氏はもともと体力があるので着用しなくても問題ないのだろう。自主ビバークの野首氏と死亡した川角・市川・味田・岡氏については分からない。
結局、低体温症にかからなかった人は、もともと寒さに強いか、体力があるか、防寒着を着用したか、であるのに対して、重度の低体温症になった人は防寒着を着用していなかったか、その可能性が高いことが分かる。
トムラウシ山遭難の原因は防寒着の着用不良に尽きるのかもしれない。
でも、この結論は、最初から想像できていたことなので、ちょっとつまらない。
そもそも寒くなかった
斐品氏(自力下山)
途中で防寒具を着用
亀田・長田氏(自力下山)、戸田氏(自主ビバーク後自力下山)、真鍋氏(自主ビバーク)
注)真鍋氏は軽度の低体温症になった可能性あり。
注)亀田・戸田氏はロックガーデン付近でダウンやフリースを着用、真鍋氏は北沼分岐でダウンを着用。長田氏はレスキューシートを着用。
防寒着不着用(濡れのため着用する防寒具がなかった)
前田氏(自力下山)、松本氏(全身ずぶぬれ、重度の低体温症から生還)
防寒着不着用(持っていたが着なかった)
石原氏(重度の低体温症から生還)、竹内氏(死亡)
静岡パーティーの1名(低体温症から生還)
本に記載なし
野首氏(自主ビバーク)、多田氏(自主ビバーク)
吉川・植原・木村氏(死亡)
川角・市川・味田・岡氏(死亡)
このうち、植原・木村氏は早い段階から体調不良だったこと、吉川ガイドは体調不良者のケアに忙殺されたので、防寒着を着用していない可能性が高い。多田氏はもともと体力があるので着用しなくても問題ないのだろう。自主ビバークの野首氏と死亡した川角・市川・味田・岡氏については分からない。
結局、低体温症にかからなかった人は、もともと寒さに強いか、体力があるか、防寒着を着用したか、であるのに対して、重度の低体温症になった人は防寒着を着用していなかったか、その可能性が高いことが分かる。
トムラウシ山遭難の原因は防寒着の着用不良に尽きるのかもしれない。
でも、この結論は、最初から想像できていたことなので、ちょっとつまらない。
8月15日 ― 2010年08月15日
今日は、俗称『終戦記念日』。
公式には、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』なので、今日の主要新聞に掲載された政府広報でも『戦没者を追悼し平和を祈念する日』と書かれています。
8月14日、天皇は大詔を煥発し、同時に、各国へ『ポツダム宣言受諾の用意あり』と伝達しました。翌、15日、NHKにより国民に向けた玉音放送が流れました。
全軍にたいして戦闘停止の大元帥指令が下されるのは8月16日です。
9月2日、天皇は『降伏文書調印に関する詔書』を発し、日本軍と日本国民に対して、連合国に対する敵対行為の中止を命令しました。同日、降伏文書の調印が行われ、ここに、戦争は終結しました。
8月15日は、NHKラジオで国民向け放送がされた日なので、国際法上の終戦とは関係ないのですが、伝統行事の盂蘭盆会にあたり、故人の追悼に便利なので、日本では、8月15日が終戦記念日とされています。
多くの国では、国際法上の終戦の日である9月2日が終戦の日です。
アメリカの場合は9月2日が『日本に勝利した日』となっています。
上の封筒は、日本の降伏を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。ソ連を含む連合国の協力を表現している図案です。
公式には、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』なので、今日の主要新聞に掲載された政府広報でも『戦没者を追悼し平和を祈念する日』と書かれています。
8月14日、天皇は大詔を煥発し、同時に、各国へ『ポツダム宣言受諾の用意あり』と伝達しました。翌、15日、NHKにより国民に向けた玉音放送が流れました。
全軍にたいして戦闘停止の大元帥指令が下されるのは8月16日です。
9月2日、天皇は『降伏文書調印に関する詔書』を発し、日本軍と日本国民に対して、連合国に対する敵対行為の中止を命令しました。同日、降伏文書の調印が行われ、ここに、戦争は終結しました。
8月15日は、NHKラジオで国民向け放送がされた日なので、国際法上の終戦とは関係ないのですが、伝統行事の盂蘭盆会にあたり、故人の追悼に便利なので、日本では、8月15日が終戦記念日とされています。
多くの国では、国際法上の終戦の日である9月2日が終戦の日です。
アメリカの場合は9月2日が『日本に勝利した日』となっています。
上の封筒は、日本の降伏を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。ソ連を含む連合国の協力を表現している図案です。
トムラウシ山遭難考―体調不良者は小屋で停滞したくないものです ― 2010年08月20日
2009年7月16日、トムラウシ山で高齢者ツアー登山の大量遭難事故があった。登山客15人、ツアースタッフ3人のパーティーのうち8人が低体温症で凍死した未曽有の大惨事だった。
トムラウシ山遭難に関して報告書、解説本・雑誌記事、ネット上のおしゃべり、など、いろいろな発言がなされている。これらは、立派な登山家や登山無経験者の発言が多く、高齢者ツアー登山の実態を理解していない点があるのではないかと感じる。そうした中、生還した遭難者の一人である戸田新介氏は、自分の主張を繰り返している。随分と登山の常識に反していると思われる点もあるが、体力不足の高齢者ツアー登山者の実態に則した発言で、多いに賛同できる点も多々ある。
かくいう私も、高齢者ではないけれど、体力不十分・技術不十分の情けない登山者の一人である。
以前、表銀座から穂高を歩いた時、体調不良になったことがある。燕山荘を出た時は快調だったのに、西岳ではずいぶん疲れた。その日は槍岳山荘まで行く予定だったけれど、ヒュッテ大槍に宿泊。翌朝は頭痛と倦怠感で体調不良。この日は大キレットを越えて穂高岳山荘にゆく予定だったけれど、絶対に無理と思った。とにかく、槍に登り、亀の歩みで中岳を越えて、水場のところで少し寝た。南岳小屋に着いたのは3時近くなっていた。天気は快晴、気温も低くなかったのに、厚手のセーターを着て、布団にもぐりこんで、それでも寒かった。
寝ながら考えたこと。①うんと具合が悪くなったら上高地からヘリを呼ぶ(小屋にはヘリポートがあった)。②ちょっと具合が悪かったら飛騨側に下りる。③体調が良かったら大キレットを越えて北穂にゆく。
しかし、「停滞する」との選択肢はありません。前日、ヒュッテ大槍に宿泊中に体調が非常に悪くなったのだから、宿泊していたらさらに悪化するかもしれない。
朝起きたら、前日と同じ状態。洗面所の鏡を見ると、顔がマンマルに膨らんでいた。「これは軽い高山病だ、少し下りればすぐ良くなる」と安心して、大キレットに行った。思った通り、キレットを降りるに従って、体調は良くなる。でも、登り返すと再び悪くなったので、北穂高岳から上高地(横尾)に下山した。
槍の頂上で、岳人の取材者がいたので、集合写真に私も収まったら、翌年の雑誌に、自分が写った写真がのっていた。顔が膨らんでおり、この時から明らかに高山病だった。3000mでも高山病になる人がいることは知ってはいたが、まさか、自分がそんなに情けない体力だとは思っていなかったので、顔を見るまで、高山病とは気付かなかった。
トムラウシ山で最初に行動に支障をきたした者は、ひさご沼避難小屋を出て2時間足らずのようだ。おそらく、小屋を出た時点で、何らかの体調不良があったのだろう。「体調不良の登山客は小屋で休んでいたかったのに、ガイドが無理に歩かせた」と思っている人も多いことだろう。病院がそばにあれば、体調不良の人が無理に歩くことはないので、登山経験のない人や、体調不良になったことがない人が、そのように誤解することは仕方ないのかもしれない。しかし、山小屋で休んでいる間に、どんどん体調不良になった場合、無理してでも下山して病院に行きたいと思うのは、当然なのだ。
トムラウシ山遭難に関して報告書、解説本・雑誌記事、ネット上のおしゃべり、など、いろいろな発言がなされている。これらは、立派な登山家や登山無経験者の発言が多く、高齢者ツアー登山の実態を理解していない点があるのではないかと感じる。そうした中、生還した遭難者の一人である戸田新介氏は、自分の主張を繰り返している。随分と登山の常識に反していると思われる点もあるが、体力不足の高齢者ツアー登山者の実態に則した発言で、多いに賛同できる点も多々ある。
かくいう私も、高齢者ではないけれど、体力不十分・技術不十分の情けない登山者の一人である。
以前、表銀座から穂高を歩いた時、体調不良になったことがある。燕山荘を出た時は快調だったのに、西岳ではずいぶん疲れた。その日は槍岳山荘まで行く予定だったけれど、ヒュッテ大槍に宿泊。翌朝は頭痛と倦怠感で体調不良。この日は大キレットを越えて穂高岳山荘にゆく予定だったけれど、絶対に無理と思った。とにかく、槍に登り、亀の歩みで中岳を越えて、水場のところで少し寝た。南岳小屋に着いたのは3時近くなっていた。天気は快晴、気温も低くなかったのに、厚手のセーターを着て、布団にもぐりこんで、それでも寒かった。
寝ながら考えたこと。①うんと具合が悪くなったら上高地からヘリを呼ぶ(小屋にはヘリポートがあった)。②ちょっと具合が悪かったら飛騨側に下りる。③体調が良かったら大キレットを越えて北穂にゆく。
しかし、「停滞する」との選択肢はありません。前日、ヒュッテ大槍に宿泊中に体調が非常に悪くなったのだから、宿泊していたらさらに悪化するかもしれない。
朝起きたら、前日と同じ状態。洗面所の鏡を見ると、顔がマンマルに膨らんでいた。「これは軽い高山病だ、少し下りればすぐ良くなる」と安心して、大キレットに行った。思った通り、キレットを降りるに従って、体調は良くなる。でも、登り返すと再び悪くなったので、北穂高岳から上高地(横尾)に下山した。
槍の頂上で、岳人の取材者がいたので、集合写真に私も収まったら、翌年の雑誌に、自分が写った写真がのっていた。顔が膨らんでおり、この時から明らかに高山病だった。3000mでも高山病になる人がいることは知ってはいたが、まさか、自分がそんなに情けない体力だとは思っていなかったので、顔を見るまで、高山病とは気付かなかった。
トムラウシ山で最初に行動に支障をきたした者は、ひさご沼避難小屋を出て2時間足らずのようだ。おそらく、小屋を出た時点で、何らかの体調不良があったのだろう。「体調不良の登山客は小屋で休んでいたかったのに、ガイドが無理に歩かせた」と思っている人も多いことだろう。病院がそばにあれば、体調不良の人が無理に歩くことはないので、登山経験のない人や、体調不良になったことがない人が、そのように誤解することは仕方ないのかもしれない。しかし、山小屋で休んでいる間に、どんどん体調不良になった場合、無理してでも下山して病院に行きたいと思うのは、当然なのだ。
北方領土観光旅行 ― 2010年08月24日
ついに、北方領土観光ツアーが現れました。
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010082301000878.html
日本人ツアーグループがロシアのビザを取得したうえで、国後島観光したそうです。これまでも、個人で、同様の旅行をする人は多かったのですが、ツアー旅行は初めてです。
日本人が、ロシアのビザを取得したうえで、北方領土旅行することは、北方領土は日本の領土との日本政府の主張と相容れないので、このような旅行をしないように、政府は国民に要請しています。
日本以外の国では、ロシアのビザをとった上で旅行することは珍しくないので、日本人に旅行させないことが、日本に有利になるとも思えないのですが。。。
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010082301000878.html
日本人ツアーグループがロシアのビザを取得したうえで、国後島観光したそうです。これまでも、個人で、同様の旅行をする人は多かったのですが、ツアー旅行は初めてです。
日本人が、ロシアのビザを取得したうえで、北方領土旅行することは、北方領土は日本の領土との日本政府の主張と相容れないので、このような旅行をしないように、政府は国民に要請しています。
日本以外の国では、ロシアのビザをとった上で旅行することは珍しくないので、日本人に旅行させないことが、日本に有利になるとも思えないのですが。。。
占守島の戦い ― 2010年08月29日
今日(2010年8月29日)の朝日新聞に、浅田次郎/著「終わらざる夏 上 ・下」の書評を、姜尚中が書いている。この本は、終戦末期の8月18日から始まった千島列島最北端・占守島の戦いを題材にした小説である。姜尚中は次のように書いている。
「それにしても、なぜ彼らは無条件降伏を受け入れた国家の意思に反して戦ったのか。明らかに国家に対する反逆であった。」
姜尚中のこの考えは正しいのだろうか。巷間に言われているように、8月15日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのだとしたならば、日本軍は同宣言に従って、直ちに無条件降伏をするべき義務があったので、彼らは国家と天皇(大元帥)に対する反逆者になる。しかし、実際に戦闘が始まったのは18日未明で、北方軍司令部からの指令は、18日16時に停戦せよとのことだったので、占守島守備軍(第91師団)が戦闘したことは、指示通りのことだった。戦いは当日には終了して、翌日に停戦交渉が行われ、日本軍の武装解除が調印された。ところが、堤司令官は停戦合意を一方的に破棄した。翌日、合意に従って第2千島海峡に入ったソ連艦を奇襲攻撃、再び戦闘が開始された。堤司令官が停戦合意を破って武装解除を拒否した理由はよく分からないが、おそらく自分の名誉を守りたいとの私利私欲からの行為だったのだろう。
もし、日本の無条件降伏が8月20日以前だったとしたならば、堤司令官・第91師団の行動は「明らかに国家に対する反逆」と言えるだろう。しかし、日本の無条件降伏は国際法上は9月2日なので、彼らの行為が戦争犯罪を問われることはなかった。
以上、姜尚中の文章を解説風にコメントしてみました。
日本では、8月15日を終戦の日として、日本が先の戦争の被害者だったように振舞っています。姜尚中は8月15日がどういう日なのか、よく知っていながら、日本人の戦争に対する態度を揶揄しているのかもしれません。
「それにしても、なぜ彼らは無条件降伏を受け入れた国家の意思に反して戦ったのか。明らかに国家に対する反逆であった。」
姜尚中のこの考えは正しいのだろうか。巷間に言われているように、8月15日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのだとしたならば、日本軍は同宣言に従って、直ちに無条件降伏をするべき義務があったので、彼らは国家と天皇(大元帥)に対する反逆者になる。しかし、実際に戦闘が始まったのは18日未明で、北方軍司令部からの指令は、18日16時に停戦せよとのことだったので、占守島守備軍(第91師団)が戦闘したことは、指示通りのことだった。戦いは当日には終了して、翌日に停戦交渉が行われ、日本軍の武装解除が調印された。ところが、堤司令官は停戦合意を一方的に破棄した。翌日、合意に従って第2千島海峡に入ったソ連艦を奇襲攻撃、再び戦闘が開始された。堤司令官が停戦合意を破って武装解除を拒否した理由はよく分からないが、おそらく自分の名誉を守りたいとの私利私欲からの行為だったのだろう。
もし、日本の無条件降伏が8月20日以前だったとしたならば、堤司令官・第91師団の行動は「明らかに国家に対する反逆」と言えるだろう。しかし、日本の無条件降伏は国際法上は9月2日なので、彼らの行為が戦争犯罪を問われることはなかった。
以上、姜尚中の文章を解説風にコメントしてみました。
日本では、8月15日を終戦の日として、日本が先の戦争の被害者だったように振舞っています。姜尚中は8月15日がどういう日なのか、よく知っていながら、日本人の戦争に対する態度を揶揄しているのかもしれません。