NHKの捏造報道? ― 2010年10月01日
昨日、中国当局は逮捕したフジタの社員4人のうち3人を釈放し、解放された3人は帰国の途についたそうです。このニュースが昨夜の7時のNHKでも放送されましたが、この中で、中国のTV放送を引用していました。中国語の放送にNHKは字幕を付けていたのですが、字幕では「解放」と書かれていました。中国のTV放送は「釈放」と言っていたように感じたのですが、実際にはどのように言っていたのでしょう。「釈放」と言っていたのに「解放」と字幕を付けたのならば、捏造報道ではないか。
フジタの経営者は「釈放」と言っていましたが、NHKの字幕は「釈放(解放)」となっていました。NHKが独自判断で「解放」と言うのは問題ないのだけれど、「釈放」と言っている人の発言を、あえて変更することはおかしいのではないか。
今朝の朝日新聞1面のタイトルは「釈放のフジタ社員3人、1日に帰国予定」です。朝日新聞は日本の新聞なのだから、「釈放」ではなく「解放」と書いてほしかった気もするけれど、これは記者の判断なのだから、とやかく言う筋合いではありません。
毎日新聞:「フジタ社員釈放:3人、1日に帰国予定…1人は拘束継続」
日経新聞:「残る1人も早期解決を フジタ社員釈放で官房長官 」
産経ニュース:「中国当局から釈放されたフジタ社員ら3人は…」
などなど、「釈放」と書いている報道は他にもあります。
フジタの広報では「釈放」としています。
当社社員3名の釈放について
中国当局より取り調べを受けていた当社邦人社員のうち3名と、中国現地法人の社員1名が釈放されたことが確認され、ひとまず安心いたしました。
引き続き残された社員の一刻も早い釈放をめざしてまいります。
ご尽力いただいております外務省、大使館始め関係者の皆様に感謝申し上げます。
渡来銭―清朝銭 ― 2010年10月03日
江戸時代、寛永通宝の輸出は禁止されていたけれど、実際には相当数の、中国流出があったようです。逆に、清朝の銭も日本に入ってきています。貿易をしていたので、当然のことです。日本では、寛永通宝以外の銭の流通は禁止されていましたが、寛永通宝を100枚束ねた中に、清朝銭がまぎれていることも多々あります。
写真は、「乾隆通宝」「嘉慶通宝」「道光通宝」。それぞれ、高宗・仁宗・宣宗の時代に鋳造された。
清朝銭は鉄を含み、磁石に付くことが多い。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
渡来銭-三藩銭 ― 2010年10月04日
清で鋳造された銭と同様に「三藩銭」も日本に渡来している。
明朝末期、清に寝返った3人の武将、呉三桂・尚之信・耿精忠は、清朝により藩王権限を与えられ、それぞれ、雲南・広東・福建を治めた。明朝崩壊に利用した武将ではあったが、次第に、清にとって、危険な存在になりうるため、1673年、康熙帝は廃止を強行、これに対し、呉三桂らは反乱を起こした。これを三藩の乱という。氾濫は徐々に劣勢となり、1678年、呉三桂は士気をあげるため、皇帝に即位して国号を周とすると宣言したが、半年ほど後に病死、孫が帝位を継いだが、1681年には敗戦により自殺した。三藩の乱は、1683年に終結した。
三藩銭とは、これら藩王により鋳造された銭のこと。なお、明朝末期の農民反乱軍による銭貨も三藩銭ということがある。
利用通宝は、1673年から、呉三桂が鋳造した。「利用」は年号とは関係ない。
洪化通宝は、新たに即位した孫が1678年から鋳造したもの。「洪化」は年号。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
渡来銭―安南銭、朝鮮銭、琉球銭 ― 2010年10月05日

安南(今のベトナム)は中国文化の影響が強い地域で、10世紀初頭から中国と類似の形態の銭貨を鋳造している。安南銭には歴代王朝が鋳造したもののほかに、地方・私的に鋳造されたものがある。前者を「安南歴代銭」、後者を「安南手類銭」と言う。
室町時代、明からの銭貨の輸入が止まると、安南の銭貨も輸入された。ただし、発掘された渡来銭の40位以内に入っている安南銭はない。
写真は、安南で1740年~鋳造された景興通宝。日本では江戸中期で寛永通宝が十分流通していたので、安南銭をあえて輸入する必要はなかったが、長崎貿易に伴った入ってきたものもあるだろう。安南銭は現地にたくさん残っているので、近年になって、収集家により輸入されたものも多い。
朝鮮半島では、高麗時代の12世紀初頭から「東国通宝」などの銭貨を鋳造したが、あまり普及していない。朝鮮王国建国後の1425年から鋳造された「朝鮮通宝」も、国内ではそれほど普及していないが、日本へもある程度は渡来しており、日本での発掘渡来銭の第41位になっている。
1633年から「常平通宝」を鋳造、1679年からは大型「常平通宝・折二」を鋳造開始した。常平通宝・折二は大量に製造されたようで、現在も良く見かける。
また、15世紀、琉球で鋳造された世高通宝も渡来銭の一つ。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
室町時代、明からの銭貨の輸入が止まると、安南の銭貨も輸入された。ただし、発掘された渡来銭の40位以内に入っている安南銭はない。
写真は、安南で1740年~鋳造された景興通宝。日本では江戸中期で寛永通宝が十分流通していたので、安南銭をあえて輸入する必要はなかったが、長崎貿易に伴った入ってきたものもあるだろう。安南銭は現地にたくさん残っているので、近年になって、収集家により輸入されたものも多い。
朝鮮半島では、高麗時代の12世紀初頭から「東国通宝」などの銭貨を鋳造したが、あまり普及していない。朝鮮王国建国後の1425年から鋳造された「朝鮮通宝」も、国内ではそれほど普及していないが、日本へもある程度は渡来しており、日本での発掘渡来銭の第41位になっている。
1633年から「常平通宝」を鋳造、1679年からは大型「常平通宝・折二」を鋳造開始した。常平通宝・折二は大量に製造されたようで、現在も良く見かける。
また、15世紀、琉球で鋳造された世高通宝も渡来銭の一つ。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
渡来銭-鐚銭 ― 2010年10月06日
鐚銭とは、悪い銭貨のことだけれど、中国から渡来した立派な銭に対して、日本で私鋳された出来の悪い銭のことを言う場合が多い。私鋳でも、ニセガネではなくて、貨幣として通用した。

写真の左は綺麗な永楽通宝。右は、作りの悪い永楽通宝。鐚銭の作り方は、綺麗な銭を使って型を取ることが多かったため、鋳痩して直径が若干小さくなっている物が多い。

上の写真は背面。
右は背面がまともに鋳造されていないことが分かる。
鐚銭の鋳造場所は不明な場合が多いが、鹿児島県加治木町で鋳造された鐚銭は、背面に加・治・木の文字があって、鋳造地が分かる物がある。
稚拙に作られた私鋳銭は鐚銭だけれど、高度な技術で作られたならば、鐚銭とは判断できない。永楽線の多くは、渡来銭ではなく、日本国内で高度な技術で作られた私鋳銭ではないかとの考えもある。
稚拙に作られた私鋳銭は鐚銭だけれど、高度な技術で作られたならば、鐚銭とは判断できない。永楽線の多くは、渡来銭ではなく、日本国内で高度な技術で作られた私鋳銭ではないかとの考えもある。
渡来銭-鐚銭、続き ― 2010年10月06日

昔の銭は、銅・鉛・錫の合金だったが、日本は錫の産量が少ないので、鐚銭の中には、銅の含有量が多いものがある。この場合、流動性が悪くなり、成形不良品が多い。銭貨の表面の錆を研磨して落とすと、銅分が多い場合は赤みを帯びている。
写真の左は、赤みを帯びた銭貨、右は普通の渡来銭で、黄金色をしている。5円玉は、銅・亜鉛の合金なので、もっと黄色が強い。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
写真の左は、赤みを帯びた銭貨、右は普通の渡来銭で、黄金色をしている。5円玉は、銅・亜鉛の合金なので、もっと黄色が強い。
渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
本の紹介-奇妙な時間が流れる島サハリン ― 2010年10月10日

『奇妙な時間が流れる島サハリン 』田中水絵/著 凱風社(1999/11)
1992年にソ連が崩壊すると、日本人もサハリンに比較的容易に渡航できるようになった。筆者はその時期にサハリンに渡り、それ以降、サハリンで日本語教師をするなど、数回、サハリンを渡航した。本の内容は、そのときに出合った現地の人との交流の記録。サハリンに残留した朝鮮人や日本人の話が多い。
元サハリン州党委員会の書記だった歴史研究家クージンが公表した『サハリン・沿海州』により、有益な人物の帰国をしぶったことを確認している。
1992年にソ連が崩壊すると、日本人もサハリンに比較的容易に渡航できるようになった。筆者はその時期にサハリンに渡り、それ以降、サハリンで日本語教師をするなど、数回、サハリンを渡航した。本の内容は、そのときに出合った現地の人との交流の記録。サハリンに残留した朝鮮人や日本人の話が多い。
元サハリン州党委員会の書記だった歴史研究家クージンが公表した『サハリン・沿海州』により、有益な人物の帰国をしぶったことを確認している。
同書によると、引揚げ者の名簿は日本の企業を接収したソ連の各工場や生産現場の指導部が作成し、次に政府機関で検分され、最後に引揚げ委員会で承認された。これでは、引揚げが伸び伸びになるのは当たり前だ。生産現場から政府機関に送られた手紙が、その間の経緯を物語っている。
「日本人が大規模に帰国すると、労働力が不足し、操業ができなくなるので、引揚げの規模や期間を考慮してほしい」
特に、石炭部門の責任者からの、引揚げ延長を求めた手紙が多い。
引揚げの順番についても、司令官や民政局が先に挙げた「よく働く者」を、工場や生産現場が真っ先に手放すはずがない。案の定、彼らが選んだ基準は、まず「企業所有者」「商人」「官吏」「その他のブルジョア分子」「インテリゲンチァの一部」「働いていない住民」「子だくさんの人」だった。復興をめざすソ連にとって必要な、労働者や農民、医師や教師、技師は後回しにされた。残される日本人の精神面を考慮してか、神社などの聖職者も後回しになった。
北方領土返還運動関係者は、「全員強制的に日本に送還された」と、書く人がいます。当時、ソ連は労働者不足で困っていたのだから、働ける人間を返したくなかったのです。全員が帰国できるほど甘くはなかった。北方領土に居住していた人たちは、ほぼ全員が帰国を待ちわび、その気持ちにこたえるために、日本政府やアメリカ政府が努力した結果、多くの人が帰国することが出来たのです。
北方領土は日本の地図でもソ連領であることは明確だ ― 2010年10月12日
尖閣問題で「中国の地図でも尖閣は日本の領土になっていた」との主張があります。9月30日の衆議院予算委員会で、菅直人首相は「尖閣諸島は状況的な証拠もあり、中国の地図でも日本領であることは明確だ。」と中国の地図で日本の領土になっていたことを、中国の領土で無いことの根拠の一つに挙げています。
昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約が発効し、日本は占領から脱しました。図は、昭和27年7月30日、文部省検定済の中学校社会科用教科書地図(帝国書院 中学校社会科地図帳)の中にある「新しい国土」の北方領土付近の拡大図です。クナシリ島・エトロフ島はソ連の領土になっています。
尖閣問題で、菅の説明が正しいのならば、クナシリ島・エトロフ島はロシア領でしょう。皆さまは、いかがお考えですか。私は、菅の説明はおかしいと思います。地図に書いてあったって、間違って書いたのかもしれないので、領有の根拠にはならない。
ところで、中国の地図で尖閣が日本の領土になっていたって本当かなー。日本のでっちあげではないだろうか。当時、尖閣はアメリカ信託統治領だったので、日本地図でも中国地図でも、そのように書かれていたはずです。
文部省検定済み教科書地図で、北方領土がロシアの領土になっていたことは明白です。くわしくは、以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/MAP_Kyoukasho/Kyoukasho.htm
また、北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
日光白根登山 ― 2010年10月19日
日曜日、日光白根山に登りました。ゴンドラリフトのある軟弱登山。
頂上に着いたのは9時半ぐらいでしたが、気温は2℃。水たまりには、うっすら氷が張っていました。

正面は男体山。岩の上でカッコつけてる人がいるなーと思って撮ったのだけれど、立っていただけかな。

下山は、五色沼経由。

紅葉は、カラマツが一部残っていた程度で、ほとんど終わっていました。

最後は神社に一礼。途中、右ひざが痛くなってきたので、サポーターを使用しました。

尖閣 ― 2010年10月22日
尖閣列島は、江戸時代の日本の認識では、中国(清国)の領土です。
尖閣列島が、日本で、最初に紹介されたのは、天明6年発刊の『林子平/三国通覧図説』です。当時、ロシアの蝦夷地進出が盛んになったため、国防の必要性を解いたものです。この本は、蝦夷地の話が主題ですが、朝鮮・琉球にも言及され、このうち、琉球周辺図の中に、尖閣諸島を『釣魚台』などの名称で記載し、中国の領土である赤色に着色されています。
中国では、明代には尖閣の存在は知られ、以降、琉球との交通の中継地として使われていたようです。
日清戦争が起こり、日本が優勢になると、日本は尖閣を領有宣言し、さらに、戦勝により台湾を領有しました。以降、尖閣・台湾は日本の領土でした。
日本の太平洋戦争敗戦により、日本は連合国に占領されますが、台湾は中国、尖閣・琉球は米国、本土は米国、千島はソ連の担当になりました。日本が独立した後も、尖閣・琉球は米国の信託統治のもとに置かれました。
釣魚島:
Googleの地図には尖閣諸島の日本名のほかに、中国名称である『釣魚島』の名前が記載されています。日本は、これを削除するように要請したとか。でも、『釣魚』は、江戸時代に日本で最初に紹介された時の名称です。中国名と言えばそうだけれど、日本での古名でもあるわけで、何も削除する必要もないように思うのですが。
尖閣列島が、日本で、最初に紹介されたのは、天明6年発刊の『林子平/三国通覧図説』です。当時、ロシアの蝦夷地進出が盛んになったため、国防の必要性を解いたものです。この本は、蝦夷地の話が主題ですが、朝鮮・琉球にも言及され、このうち、琉球周辺図の中に、尖閣諸島を『釣魚台』などの名称で記載し、中国の領土である赤色に着色されています。
中国では、明代には尖閣の存在は知られ、以降、琉球との交通の中継地として使われていたようです。
日清戦争が起こり、日本が優勢になると、日本は尖閣を領有宣言し、さらに、戦勝により台湾を領有しました。以降、尖閣・台湾は日本の領土でした。
日本の太平洋戦争敗戦により、日本は連合国に占領されますが、台湾は中国、尖閣・琉球は米国、本土は米国、千島はソ連の担当になりました。日本が独立した後も、尖閣・琉球は米国の信託統治のもとに置かれました。
釣魚島:
Googleの地図には尖閣諸島の日本名のほかに、中国名称である『釣魚島』の名前が記載されています。日本は、これを削除するように要請したとか。でも、『釣魚』は、江戸時代に日本で最初に紹介された時の名称です。中国名と言えばそうだけれど、日本での古名でもあるわけで、何も削除する必要もないように思うのですが。