尖閣(釣魚)問題2010年10月25日

以下、M先生に出した手紙です。

M先生

お久しぶりです。尖閣問題で、中国に批判的なご意見のようです。
確かに、中国人のヒステリックな態度は感心できません。
尖閣の歴史的経緯について、以下にまとめてみます。
先生の歴史認識も、だいたい同じでしょうか。

尖閣列島が、江戸時代の日本で、紹介されたのは、天明6年発刊の『林子平/三国通覧図説』で、この中の琉球周辺図に、尖閣を『釣魚台』などの名称で記載し、中国の領土の色に着色されている。
(中国では、明代には尖閣の存在は知られ、以降、琉球との交通の中継地として使われていた。)
 明治以前、琉球は、独立国であったが、日本と清国の両方に従属していた。明治政府は、琉球処分として、内国に編入し、清国との関係を禁止した(1879/4/4)。
 これに対して、清国との間で外交問題となり(1879/5/10)、間に立った米国の斡旋もあって、清国は『奄美を日本領、八重山を清国領、琉球を独立国とする』ことを提案するも日本政府が拒否。変わって、日本政府は、『八重山・宮古を清国領、他を日本領とする』提案をするも、清国がこれを拒否し、交渉は物別れに終わった。
 日清戦争が起こり、日本が優勢になると、日本は尖閣を隠密裏に領有し、さらに、戦勝により台湾を領有した。以降、琉球・尖閣・台湾は日本の領土だった。
 日本の太平洋戦争敗戦により、日本は連合国に占領されるが、台湾は中国、尖閣・琉球は米国の担当になった。
 日本が独立した後も、尖閣・琉球は米国の統治のもとに置かれた。
 1960年代後半、琉球の返還の機運が高まると、中国政府は尖閣の領有を主張するようになった。また、琉球政府は歴史上初めて尖閣に標杭を立てて、領有を主張した(1969年5月5日)。
 日本が尖閣の領有宣言を公開で行ったのは、1969年5月5日であるが、現在、日本政府は、明治29年の勅令の中に「八重山」の文言があるので、尖閣もこの中に入っていると主張しているが、このとき以前に、尖閣を八重山に編入したことはない。

 以上、尖閣の歴史的経緯をまとめてみました。
 もし、先生の歴史認識と大きく異なるのならば、また、誤りがあるならば教えてください。

 尖閣は、日本にとっては、単に資源の問題・経済的利益の問題ですが、中国人にとっては、『尖閣、台湾、満州、全中国』と日本に侵略される最初のきっかけの島なので、民族存亡の本質的問題と写るのでしょう。中国国民が尖閣問題で日本に対してヒステリックになるのはある程度仕方ないことだと思います。

 先日、靖国神社に行きました。遊就館では、「天に代わりて不義を討つ」と、支那懲罰の歌が流れていました。このような場所に、国会議員が大挙して訪れる状況を見ると、『支那の暴戻』でなくても、
日本に警戒感を感じるのもうなずけます。

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