ラブロフ・前原会談2011年02月14日

 連休中、ロシア訪問していた前原外相とラブロフ外相の会談がありました。
 北方領土問題では、互いの主張をしただけで、議論は平行線だったようです。現在、北方領土問題では、ロシアは日本に対して、極めて強硬な態度である一方、実効支配は急速に進んでおり、返還の可能性は全くと言ってよいほどなくなっています。ロシアの実効支配が強化されている中で、議論が平行線と言うことは、要するに日本外交の完敗です。

 北方領土問題では、日本とロシアとでは、歴史認識に大きな隔たりがあります。領土の領有は、必ず歴史的に決まると言うものではないので、歴史認識がさほど重要であるとも思えませんが、不毛な議論を避けるためには、歴史認識を共有化は必要なことでしょう。
 ラブロフ外相は、歴史研究者による共同委員会の設立を提案しましたが、前原大臣は消極的です。もし、日本の主張が正しいのならば、歴史専門家により、日本の主張が正しいことが認定されれば、日本に有利になることは、だれが考えても自明でしょう。それなのに、なぜ、前原は消極的か?

 要するに、日本の歴史的主張の中身とは、「北方領土は日本の固有の領土なので、日本は手放さないゾ」と、一方的主張を繰り広げているにすぎません。中国から見れば「台湾は中国固有の領土なのに、日本にとられた」と言いたいだろうなー。韓国から見れば「朝鮮半島は韓国固有の領土なのに、日本が植民地にした」と言いたいだろうなー。
 日本は、領有の正当性を、歴史的経緯で説明しようとするならば、北方領土・竹島・尖閣に対して、もう少しまともな理論研究をすべきです。

コメント

_ 通りすがり ― 2011年02月17日 07時57分01秒

元々北方領土に住んでる日本人を追い出したのは
ソ連でしょう?

_ cccpcamera ― 2011年02月17日 08時30分22秒

南千島は、古くはオホーツク文化がさかえていたので、この時代はオホーツク文化の担い手が住んでいました。その後、アイヌモシリになりました。江戸末期から和人の入植が行われ、敗戦までの数十年間は、日本が実効支配していました。この時代、アイヌは旧土人と称されていました。その後ソ連・ロシアが数十年間実効支配しています。

『元々住んでいる』と言う言葉の意味が、数十年住んでいると言うことならば、ロシア人はもともと南千島に住んでいます。もっと昔からと言うならば、日本人は入植者なので、元々住んでいた人ではありません。

_ 通りすがり ― 2011年02月17日 23時44分12秒

前々から住んでいたというのが重要じゃなく

正式に結ばれた樺太・千島交換条約や不可侵条約を
ソ連が破った事が問題なのですよ。まがりなりにも
ソ連は千島が日本領というのは認めていた筈なので
それを破って侵攻してきた事は国際法上認められていません。

日本はサンフランシスコ講和条約で千島列島は放棄しましたが、まずソ連はこの条約に署名しておりませんし
この条約では千島の帰属先は決まっておりません。

ちなみに千島をソ連領とするヤルタ協定はアメリカがその後無効だと反論してます。

結論としては早くロシアは日本が求めてる国際司法裁判所に出てくる事を認める事だと思います。

_ cccpcamera ― 2011年02月18日 08時34分57秒

まず、樺太・千島交換条約により、樺太はロシア領になったけれど、ポーツマス条約で日本領になりました。このため、樺太・千島交換条約を領有の最終的帰属の根拠とすることはできません。日本政府が、現在「北方領土の日」と定めている日は、下田条約を根拠としています。

次に、不可侵条約ですが、国際法上ソ連の参戦を不法とする個人的見解と、合法とする個人的見解があります。しかし、日本の戦争を裁いた国際裁判である東京裁判の判決では、ソ連の参戦を合法であると認定しています。なお、参戦した以上、日本の領土に進攻することは、当然のことです。

ヤルタ協定は、元々、国連(連合国)首脳間の合意事項であって、領土の最終帰属を定めたものではありません。領土の最終帰属は、講和条約により決定されます。サンフランシスコ条約で、日本は千島列島を放棄しました。平和条約を審議した国会では、日本が放棄した千島列島には、国後、択捉が含まれるとの政府説明がなされ、これを前提に国会承認されています。ただし、歯舞・色丹は日本が放棄した千島列島に含まれないとの説明でした。ソ連とは、1956年の条約により、戦争状態が正式に終結しました。この条約では、今後平和条約を結ぶことと、平和条約締結後に、歯舞・色丹を日本に引き渡すことが決められています。

条約では、元々日本人が住んでいたかどうかということは、重要視されていません。

 国際司法裁判所提訴についてですが、日本が正式に北方領土問題を国際司法裁判所に提訴することをソ連・ロシアに求めたことは「一度もない」とする説と、「ある」とする説があって、良く分かりません。会談・晩餐会の席上、何となく話を持ちかけたことがあるけれど、あまり乗り気ではなかったので、それ以降やめた、と言うことが、真相のようです。
 日本国民の国会への請願では、何度か、国際司法裁判所提訴が求められたことがありますが、日本政府・国会は、すべて却下しています。

 今回、ラブロフは歴史問題にたいして「歴史研究者による共同委員会の設立」を提案しましたが、日本は乗り気ではないようです。もし、国際法上、日本の主張が正当ならば、「国際法研究者による共同委員会」を設立して議論すればいいのに、そういう提案を日本はしたことがありません。歴史問題も、国際法問題も、専門家が共同研究すると、日本の主張が、かなり怪しいことが浮き彫りにされるはずです。

_ 通りすがり ― 2011年02月18日 09時42分21秒

東京裁判でのソ連の参戦を合法と認められたのは
ソ連が裁判に参加してたからですよ。これには後で
批判がありましたし、この東京裁判の結果等を受諾した
サンフランシスコ条約にはソ連は署名してません。
つまり国際的にも北方領土がロシアの物とも認められてないのです。

>>参戦した以上、日本の領土に進攻することは、当然のことです。

これが既に違反してます。大義がありません。

>>まず、樺太・千島交換条約により、樺太はロシア領になったけれど、ポーツマス条約で日本領になりました。このため、樺太・千島交換条約を領有の最終的帰属の根拠とすることはできません。日本政府が、現在「北方領土の日」と定めている日は、下田条約を根拠としています。

いえいえいくつかの候補があってたまたま2月7日の日にしただけですよ。

あと国際司法裁判所は両国間が出るといわない限り
開かれない裁判です。ロシアが出ないといってる以上
現実的ではないですしそれなら二国間で話し合った方が良いのですよ。

>>今回、ラブロフは歴史問題にたいして「歴史研究者による共同委員会の設立」を提案しましたが、日本は乗り気ではないようです

これは当たり前です。双方の主張が180℃違うのですから水掛け論になるだけです。

>>国際法問題も、専門家が共同研究すると、日本の主張が、かなり怪しいことが浮き彫りにされるはずです

何も武器をもたない住民を追い出す行為自体が国際法に違反してます。

_ cccpcamera ― 2011年02月20日 14時48分03秒

取り急ぎ一点だけご指摘します。

 東京裁判の判決は、ソ連裁判官の個別意見ではなくて、裁判所の判決です。
 東京裁判にソ連の判事が入ってことが、判決にどのように影響したのか、その合意形成を研究することは、学術的には興味あることかもしれません。しかし、裁判所の判決の効力には全く関係ないことです。裁判官の国籍がどうだこうだと、うだうだ、ごねても、国際法上も国際政治上も、全く無意味なことです。

 東京裁判の判決は、ネットで閲覧できるので、詳しくはそちらをご覧ください。言語は英語ですが、膨大な量で、公開されている文書は文字が一部にじんでいて、あまり読みやすいものではありません。

_ cccpcamera ― 2011年02月20日 18時29分19秒

それから、大きな誤解があるようなので、もう一言。

 樺太・千島に居住していた日本人は、本人の希望に従って帰国しています。これは、日本政府の要請に基づいて、米ソの合意にしたがったものです。
 多くの日本人は、本人の希望で帰国をしたのですが、残留を希望した者もいます。北方領土に居住していた日本人の中で、日本に帰国しなかった人はどれだけいるのか、統計データがないので良く分からないのですが、厚生省援護局の調査によると、サハリンに残留した日本人は、居住者の数パーセント、千数百人とのことです。

 時々、ニュースなどで、サハリンに残留した日本人の様子が報道されることがあるので、ご存知の人も多いと思います。。。

_ クラブナビ ― 2011年02月23日 18時11分43秒

精神論として話がそれてしまいますが,千島の島民に関する「帰国の意思」にだけ一言コメントさせてください
「帰国の希望」と申しますが,それはあくまでも消極的な選択です.余儀のないことだった.
情報が乏しいですから,暴力的に侵攻してくる“ロスケ”に対して愚直に恐怖を抱いていました.
ですから多くの日本人は「死」を避けるために「帰国を希望」することになった.

たしかに内地(北海道本土,特に根室に対する呼称)は経済的にも行政サービスの充実としても豊かな拠点でした.その内地へ憧れる・・・まして敗戦の傷心状態でしたから・・・帰りたいと願う気持ちは無かったわけではないと思います.

さらに話がそれますが,悲しいことに島からの引揚者は市の郊外に集団で居住するケースが多く,市民に差別意識はありませんが潜在的な序列が生じていました.
敗戦の貧困期に島での生業をそのまま内地でも継続させて生き延びたものです.

_ cccpcamera ― 2011年02月25日 08時48分16秒

 樺太・千島からの引き揚げは、すぐには認められず、最初のうちは、ご指摘のような恐怖を持っていましたが、実際に引き上げが認められるのは、だいぶ年月がたった後です。
 北方領土旧居住者の中には、いかに悲惨な引き揚げだったのかを涙ながらに語ることが好きな人がいらっしゃいますが、満州蒙古からの引き揚げを知る人からすると、「何を言っているのだ」とも感じるようです。

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