本の紹介-竹島史考2013年02月20日

   
 大熊良一/著 『竹島史考』 原書房; 普及版 (2012/11)

 1968年に出版された『竹島史稿―竹島(独島)と欝陵島の文献史的考察』の普及版として出版された。
 著者の大熊良一は自由民主党調査役などを歴任し、自民党の領土問題の理論を確立した。このため、竹島問題以外に、北方領土、尖閣、小笠原、琉球の領有問題に関する論文がある。本書の説明によると、現在、著者の行方が分からず、出版社は連絡が取れない状態のようだ。

 本書は、出版が古いため、現在では不十分な内容もあるが、竹島問題を詳細に説明している点で、一定の参考にはなるだろう。本書の初出以前に書かれた本としては、外務官僚だった川島健三の著書があるが、本書は、川上の本と類似した内容になっている。川上の本は、外務官僚による、日本の立場を説明するものであり、決して客観的な学術書とは言えないものであるが、本書では、朝鮮の古文献である世宗実録地理誌等に対する、川上の本の論考を「政治的な考えや意識的な観念論をはなれて傾聴すべき論拠に立つ(P72)」としており、この一文を見ただけでも、本書は日本の立場を主張するものであることが分かる。

 ところで、好天時には、鬱陵島の標高200m以上から竹島を見ることは可能なことが、計算でも容易に分かることであるが、川上は鬱陵島から竹島を見ることはできないと、誤った見解を示した。本書でも、同じ誤りを犯している(P175)。川上や大熊の説が誤りであることは、中学校で習う三平方の定理を使えば容易に分かるが、日本では、長い間、誤りであることが理解できない人も多かった。2007年に、韓国の新聞に鬱陵島から撮影した竹島の写真が掲載されるにおよび、川上や大熊の説が誤りであることが理解されるようになった。
  
 1693年、鬱陵島に出漁していた安龍福は日本人漁民に捉えられ、鳥取藩の取り調べを受けた後、対馬経由で帰国した。この事件をきっかけに、鬱陵島は朝鮮の領土であって、日本の領土でないことが確定する。安龍福は1696年にも日本にやってくる。この時、帰国後、鬱陵島・竹島は朝鮮の領土であると日本人に言ったと説明しているため、現在、韓国では、安龍福を竹島を守った英雄として評価している。安龍福供述は、どこまでが事実で、どこがホラ話なのか、怪しいものであるが、安龍福の供述には、日本側資料でも事実であることが確認されるものも多い。
 安龍福は、鬱陵島で出会った日本人が『倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所』と言ったと供述している。この文章を日本語に訳すと『日本人は次のように言った。私たちは元々松島に住していて、たまたま漁に来たが、これから帰るところだ。(松島は現在の竹島のこと)』
 大熊良一は、「かれが松島にまで渡航してこの岩島に日本人が居をかまえていて・・・という陳述のごときは、粉飾し誇張した表現であると考えられる(P179)」とし、安龍福証言は信用できないと書いている。
 しかし、原文には『住』とあり、『居を構えると』は書かれていない。『住』と『居を構える』が同じ意味ならば、この記述で問題ないが、『住』とはどのような意味だろう。
 現在の日本語の口語では、『住』と書くと、居住のように、少なくても数ヶ月間はその場所に滞在するイメージがあるかもしれないが、広辞苑の説明では『とどまる』の意味が記載されているので、正しい日本語では、長期間居住する意味だけに使う言葉ではない。それに、李白の有名な詩に『両岸猿声啼不住』とあるが、この『住』は『止む』と読み、一時的に止まることを意味している。日本のホテルの中国語案内で、『入住手続』とあると、チェックインのことで、『住』とは、宿泊することを意味しいる。このように、文語調の現代日本語でも、中世中国語でも、現代中国語でも『住』は短期滞在にも使われる。特に、現代中国語では『雨住了、風停了(雨がやんだ、風がやんだ)』のように、『住』は『停』と同様にSTOPの意味で使われる。
 このため、『住』を『居を構える』と、短絡的に考えることは出来ない。もし、当時の朝鮮での用例を詳細に検討した結果、このような訳をしたのであるならば、そのように説明すべきだ。
 本書の著者は、鬱稜島から竹島が見えないなどと、とんでもない誤りを犯しているので、この部分も、単に原文の曲解による捏造のような気がするが、実際はどうだろう。

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