本の紹介 知られざる日露の二百年 ― 2013年06月30日

『知られざる日露の二百年』アレクセイ・A・キリチェンコ/著, 川村秀/編, 名越陽子/訳 (2013/3/6) 現代思潮新社
著者は元KGB第二総局員で日本担当。第二総局はソ連国内で防諜・公安を担当する部署で、東西冷戦時代に日本大使館やソ連進出日本企業のスパイ活動や、犯罪行為を防止する役割が与えられていた。日本大使館などが重要なスパイ活動を行っていたり、重要な機密情報を扱っていたことは少ないので、KGB内における著者の役割は、大きなものではなかっただろう。なお、ソ連国外で活動する部署は第一総局であり、こちらには、きわめて有能な人材が充てられていた。
著者は旧ソ連の資料に接する機会がある程度あったようで、そのような視点から書かれていると思える記述もあり、日ソ関係の歴史を解明する上で、一応の参考になる本だろう。しかし、資料に基づく記述なのか、単なる思い込みのよるものなのか判然とせず、本書の記述をそのまま事実と受け止めることは出来ない。
ソ連崩壊後、多くのソ連人は生活に窮し、国外で職を得る人たちも多かった。ソ連の大学教授が日本の大学教授ポストを得て、年収が100倍以上になったケースも珍しくない。日本で仕事をしたい人は、日本での就職に都合の良いような就職活動を行うわけで、本書の著者もそのような視点で、日ソ関係史を書いているのではないかとも思える記述が多い。それから、もともと歴史研究者ではなく、特に日本の歴史にもソ連の歴史にも詳しいわけではないので、本書が正確な歴史を記述しているとは思えない。
このような歴史研究上の他にも、常識で考えれば分かりそうな、いい加減な記述も、散見される。
P74には、次の記述がある。ちょっと長いが、全文を掲載する。
朝鮮人の二度目の強制移住 内務人民委員部管理部長の三等人民委員G・S・リュシコフはとてつもない空想話を作り上げた。 彼はロシア秘密警察の重要人物N・I・エジョブにたいして、沿海州とアムール川流域における日本の活動基盤をなくさせるために、満洲と国境を接するソ連領土からすべての朝鮮人を中央アジアとカザフスタンへ即刻移住させるという天才的アイデアを持ち込んだのだ。これほどばかげた提案はないだろう。なぜなら朝鮮人は一九一〇年に日本に祖国を併合されたため、いうまでもなく日本を敵としていたからだ。しかしクレムリンは作り話を実話に変えることには抜きんでていた。日本人に侮辱された朝鮮人を遠ざけておけば安心だろうと考えたスターリンは、寛大にもこの提案を許可した。確かに、著者の言うとおり、朝鮮は日本に併合されたので、日本を敵と思い、日本に敵対した朝鮮人がいたことは間違いないが、日本に好意的で、日本の方針に協力することで自分の利益を図った朝鮮人がいたこともまた事実である。日本に協力的な朝鮮人を排除しようとするのは戦略として当然のことだ。
P152の記述は、どうしたことだろう。著者は、ソ連・ロシアの標準的な歴史教科書を学んでいないのだろうか。それとも、知っていながら、日本人はどうせバカだろうからいい加減なことを書いても分からないだろうと思って、書いたのだろうか。
戦争末期にソ連が日ソ中立条約を破棄して宣戦布告・参戦したことに、次のように書かれている。
ソ連(ロシア)の研究者たちは、この条約破棄を国際法的に合法であると証明しようとしている。しかし条約規定によりこの条約は一九四六年四月二十五日まであと一年間は有効であるという事実を彼らは完全に無視している。対日参戦時には、日ソ中立条約の残存期間だった。このため、ソ連は抜かりなく、米国から、参戦は国際法上合法であるとの公文書を得た後に参戦を決定している。また、国際法廷である極東国際軍事裁判所の判決でも、ソ連の参戦が国際法上合法であるとの判断が確定しているので、いまさら日本に都合の良いいい加減な主張をしても、日本で就職が有利になる以外に、何の効果もないだろう。日本では、米国公文書や裁判所の判決に注意する人はほとんどおらず、条約を日本に都合良い一方的解釈をすることが多いが、ソ連・ロシアでは、この問題については、連合国見解や国際司法判断など権威ある解釈を引用することが多いので、著者がこのことを知らないはずはないと思うのだが。よほど、勉強不足なのだろうか。
P157~P166に、「広島の子供たち」と「イワノフのコップ」の項がある。アルコールで放射能予防が出来るとの説明をしているが、このような考えは、今のところ都市伝説であり、考慮する意味は乏しく、歴史書には必要のない記述だろう。
著者は、日本人シベリア抑留俘虜問題にかかわっていた経歴がある。このため、日本人捕虜問題の知識が多少あるのだろうかと思いきや、「第七章 ロシアにおける日本人捕虜」でいきなり、知識の浅薄さを白状するような記述があってがっかりした。
日本の降伏文書調印(一九四五年九月二日)以前にスターリンは一九四五年六月二十六日付ポーツマス宣言第九項を著しく違反した。第九項では「日本軍は武装解除後、平和な労働生活をおくれるよう帰国を許可される」と述べられている。すべての戦勝国はこの項目を守り、武装解除後の日本軍捕虜を、戦争中に罪を犯した者を除き帰国させた。ソ連だけがポーツマス宣言第九項を無視した。五十二万人以上の旧日本軍人が欺隔的な方法〔トウキョウ・ダモイ(東京へ帰る)と偽った〕で一九四五年九月-十月に強制的にソ連領内に移送され、主にシベリアと極東に置かれたソ連内務省の軍事捕虜及び抑留者用管理総本部の収容所に入れられた。ずさんな知識だ。南方戦線で、イギリス軍は投降日本軍人を「被武装解除軍人」として、強制労働に使役している。戦争俘虜ではないので、ジュネーブ条約に定められた俘虜の権利も認められなかったため、旧日本軍人は、屈辱的な仕事(糞尿の処理)や屈辱的扱い(口をあけて英軍人の小便を飲む)をされたものもあった。ソ連は、日本軍人を俘虜として扱ったので、国際法に認められた労働をさせていたが、屈辱的扱いはされず、無料で郵便を出す権利や病気治療の権利などが認められていた。
それにしても、著者は、イギリス占領地の「被武装解除軍人」を知らないのだろうか。
著者は、日本人シベリア俘虜問題にかかわってきており、KGB資料の公表などに一定の役割を果たしてきた。このような著者の業績は評価すべきであるが、著者の記述を単純に事実と考えるわけにはいかないだろう。
北方領土問題では興味ある記述がある(P208)。
北方領土返還に最も強く反対しているのは、矛盾しているようだが、日本の漁師たちだ。現在極東ロシア海域は四つもの(!)機関(国境警備隊、漁業委員会、漁業管理局、農業省)が管轄している。一方でロシアの密漁者たちは国境警備機関に「料金を支払って黙認」してもらい、勝手に海産物を捨て値で日本に供給している。他方日本の漁師たちのために千島の経済水域ではロシアの機関がだれも夢想だにしなかったような最恵国待遇をつくりあげた。そのため日本の漁師はこう考える。 「もしロシアが突然北方領土を返したらどうなるのか?目ざとい日本の機関が早速監督しだすだろう。税金だって取るだろうし、わいろは取り締まるだろう。日本の民族の誇りなどどうでもいいさ。領土などいらない。大事なのは魚とコンブがあればいいんだ」。こういう漁師がいることは否定できないが、多くの漁師は返還されて日本の海になったほうが漁業がしやすくなるので、返還を望んでいる。2島でも良いからすぐに返還して欲しいとの考えと、4島でなければだめだとの主張があるかもしれないが、返還に本気で反対している漁師は少ないだろう。
著者自身が漁師の真意を調査したとは考えられないので、日本の誰かから、いい加減な入れ知恵を、精査することなく、単純に信じ込んでしまったのだろうか。
本書の記述には、いろいろと問題点もあるが、日露関係史を研究する参考書のひとつとしての意義は多いにあるだろう。