コーヒーの碑 ― 2013年10月01日
10月2日は「杜仲の日」 ― 2013年10月02日

語呂合わせで、10月2日は「杜仲の日」なんだそうな。「杜仲」は植物で、この樹脂がグッタペルカで、かつて、カメラの外装に盛んにつかわれていた。
レンジファインダー機FEDの外装は固いので、表面を荒らした金属そのものであるかのような誤解をする人がいた。本当かなと思って、ナイフで削ると、金属ではない。煮ると樹脂がはがれてきた。これ、硬化したゴムか、グッタペルカだと思います。ナイフで表面を削れば、金属かどうかはすぐにわかるのに、カメラ評論家さんは、確認もしないで、いい加減なことをいうものだ。
ところで、FED工場は、今でも健在で、航空機関連を製造している。 http://www.fed.com.ua/ru/ マカレンコはもう忘れられてるよね。
写真は、戦後、ウクライナ・ハリコフ のFED工場で作られたFED-1。
本の紹介-原子力大国ロシア ― 2013年10月03日

『原子力大国ロシア 藤井晴雄、西条泰博/著 明石書店(ユーラシアブックレット)』
60ページ余りの薄い本。ロシアの原発事情を客観的に書いているのだけど。著者は、原子力村関係者なのだろうか、チェルノブイリも福島もどこ吹く風と言う感じで、どうもしっくりこない。それが、ロシアの原発事情なのだと言われれば、それまでだけど。
本―北海道の捕虜収容所 ― 2013年10月07日

『北海道の捕虜収容所 もう一つの戦争責任』白戸仁康/著 北海道新聞社(道新選書) (2008/08)
太平洋戦争中、連合軍捕虜を収容するため、函館に捕虜収容所が作られた。本所は函館だが、北海道各地に分所が作られ、さらに、炭鉱労働などに使役された捕虜は、民間会社の管理となったこともある。
本書は、函館捕虜収容所(本所・分所等)の詳細を明らかにしたもの。日本軍管理俘虜収容所の実態に関する類書が少ないので、本書は、これらの問題理解に大いに参考になる。
日本軍は俘虜を認めず、自殺することを命じていたため、連合軍俘虜に対して、国際法に反した残虐行為を平気で行っていた。函館捕虜収容所においても、凄惨な俘虜取り扱いが行われていたが、このような犯罪行為は所長によって随分と違っていたようだ。本書では、このような実態が詳しく記されている。
日本は、なぜ、俘虜の残虐な取り扱いをしたのか、不思議でならない。食料を少なくするとか、労働をきつくするとか、そういうことならば、利益を上げるためであると説明がつく。しかし、理不尽に殴りつけて、その結果作業が滞るなど、不合理なリンチが頻発している。何の目的で? 江戸時代、階級分化が固定化していたため、下位の貧農層を中心に残虐性向が生じたのでしょうか?
本―尖閣諸島灯台物語 ― 2013年10月08日

『尖閣諸島灯台物語』 殿岡昭郎/著 高木書房 (2010/06)
あまりお勧めする本ではない。
尖閣には、指定広域暴力団住吉会系右翼団体の灯台が建てられている。尖閣は埼玉県大宮市在住の栗原氏の所有だったので、栗原氏が、どのようないきさつで、指定広域暴力団住吉会に灯台建設を許可したのか、あるいは、やくざが無断で建てたのか、それが知りたくて本書を読んでみた。
この点に関して、明確な記述はないが、栗原氏は北小島の灯台建設を政府圧力で許可しなくなったような記述があるので、魚釣島の灯台は、栗原氏が建設許可をしているのだろう。この灯台は、その後、政府に移管されたのだから、土地所有者に無断で建てられたものとは考えにくい。しかし、栗原氏と指定広域暴力団住吉会との関係は、本書には全く記されていない。
尖閣に灯台を建設したのは、住吉会小林組会長・小林楠扶(楠男)が作った右翼団体の日本青年社。小林は、力道山刺殺(傷害致死)犯人の村田勝志・元受刑囚の親分。小林が縄張りの風俗店で用心棒をしていた村田は、客の力道山と口論となって、ナイフで刺したが、これがもとで、力道山は死亡した。村田は傷害致死で懲役7年となり、刑期を満了したようだ。
本書は、尖閣灯台建設の話題のほかに、小林の生い立ちにも触れられている。この部分に限らず、本書では、暴力団の犯罪に寛大な記述となっている。特に、日本青年社会長の松尾和也が恐喝で逮捕された事件では、最高裁で有罪が確定しているにもかかわらず、犯罪者を擁護し、裁判に批判的な記述だ。著者は、公正な司法よりも、暴力団のほうが好きなのだろうか。松尾を始めとした日本青年社幹部が恐喝などの犯罪で逮捕・有罪判決は珍しいことではない。尖閣灯台建設に対しても、やくざ達の苦労話が主体で、興味が持てなかった。
やくざの出世物語や、苦労話が好きな人には、本書にも興味が持てるかもしれないが、そうでない人には、特に参考になる記述はないように感じる。本書は、文字が大きいので、ページ数の割には、内容が少ない。
本 - シベリア抑留全史 ― 2013年10月17日

本-昭和天皇・マッカーサー会見 ― 2013年10月18日

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) 豊下楢彦/著 岩波書店 (2008/7)
昭和天皇がマッカーサーと会見したとき、どのような発言がなされたのか、いろいろな俗説がある。本書では、近年公開された資料を含め、事実は何であったのかを解明している。
また、占領統治下から平和条約・日米安保条約に至る期間に、昭和天皇自らどのような外交活動を展開したのか、この点を明らかにしている。
本書は、戦後外交史が専門の学者による執筆なので、内容は事実を明らかにすることに眼目が置かれている。
本 - 明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ ― 2013年10月19日

明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ (岩波現代全書) 井上勝生/著 岩波書店 (2013/8)
Amazonの内容紹介:
著者が勤める北海道大学で「東学党首魁」と書かれた遺骨が見つかった。誰がなぜどのように運んだのだろうか? 遺骨の軌跡をたどって北海道、朝鮮半島、四国へと旅を重ね、日清戦争のもう一つの側面、ジェノサイドの真実が浮かび上がる。アイヌ、東学、植民学をめぐる近代日本の植民地支配の闇の奥が、いま明らかに。
北大で見つかった遺骨には、東学党の乱の首謀者のものとの、添え書きがった。本書では、これがどのような状況で、だれによって持ち帰られたかを調査して解明した過程を記す。そうした中で、日本の植民地支配による虐殺を解明している。事実を記録したものなので、史実に思いを寄せ、考えさせられる内容ではあるが、著者らの苦労話には、ちょっと飽きた。
台湾光復節 ― 2013年10月25日
10月25日は台湾光復節。
1945年、日本の敗戦に伴って日本の領土だった台湾は中国領となることになっていたが、敗戦後も、日本の統治が続いていた。10月25日に、統治権が中国に移管された。このため、台湾では10月25日が独立記念日(光復節)とされている。
郵便事業の接収は遅れて、11月3日に、完全に接収されている。
敗戦後、これまでの郵便切手が不足しても、始めのうちはゴム印で代用していたが、10月21日、台北の本局で3銭・5銭の2種の数字切手を発売、10月31日には10銭切手も発行した。島内の10数局も、本局についで数字切手を発売したが、11月3日に中国に完全接収され、これらの切手の使用は停止した。写真はこの時の切手。使用期間が短かかったため、実際に郵便使用されたものは少ない。
本 - 日本の島々、昔と今。 有吉佐和子/著 ― 2013年10月27日

日本の島々、昔と今。 有吉佐和子/著
この本は、1980年に雑誌「すばる」で連載された後、1981年に集英社から単行本で出版された。その後、1984年に集英文庫、1993年には中公文庫から出版され、2009年に岩波文庫から出版されている。今回読んだのは、岩波文庫版。
第1回の「焼尻島、天売島」から始まって、第12回の「尖閣列島」まで、12回の各島々のルポ。
このうち、「9・竹島」「11・択捉、国後、色丹、歯舞」「12・尖閣列島」が日本の領土問題関連になる。
作家だけあって、文章は読みやすいが、内容は必ずしも正確とは言い難い。
北方領土問題は番外編として触れられている。この文章は、北方領土の歴史解説と、納沙布取材である。歴史解説は、そつなく纏められているようにも感じるけれど、正しく知りたい人は別の歴史書を読んだほうがよいだろう。取材記の中で、著者は貝殻島は「橋をかければ車で五分もかから無い距離(P411)」と紹介しているが、貝殻島は満潮時には水没する岩礁なので、橋をかけることはできないだろう。単なる娯楽本だとしても、せめて、地図ぐらい調べてから書いて欲しかった。
地元民の取材で、誤解により苦しめられている例として、「北方の島々から日本人は逃げて、自ら居住地域を捨てたのだという誤解。・・・大部分の日本人は昭和23年に強制送還という手段でソ連政府に追い出されたということを、どうも本土の人々は知っていない。(P420)」と書いている。1980年に最初に雑誌に掲載されたころには、すでに樺太残留日本人婦人の問題は知られていたので、千島についても、もう少し調べて書いてほしかった。1991年に北海道根室高等学校地理研究部により執筆された『北方領土 高校生が聞いた202話』には、留別村の内保で日本に帰らなかった女性の話が記載されているが、このくらいのことも調べずに、思い込みと独断で書いているのだろうか。著者は「強制送還された」などと、いい加減なことを書いているが、ソ連から、現地に滞在してほしいと懇願されたにもかかわらず、帰還した日本人も珍しくない。
尖閣には、上空から見学しただけで、上陸はしていないとのことだ。地主の許可を取る気がしなかったことが原因のようであるが(P468)、他人の土地に入り込むには所有者の了解が必要なのは当たり前のことなのに、どうして、許可を取る努力をしなかったのか、このあたり、何も書かれていない。
P483の以下の記述にはちょっと興味を持った。
昭和五十四年五月二日、読売新聞沖縄版では「尖閣諸島、ドーンと売って」という見出し付きで、高額所得者番付で百傑の仲間入りをした古賀花子さん(82歳)のことを大きく報じている。二億六千七十七万円である。古賀辰四朗の息子の善次氏の未亡人である花子さんには子供が生まれなかった。家族も身寄りもないところへ、数年前から「島を売らないか」という交渉に入ったのが現在の地主さんである。昭和十七年生まれの青年は、沖縄の本土復帰と同時くらいから古賀さん夫婦に接近していた。昭和四十九年から南小島・北小島を買い取り、古賀善次氏の亡くなった昭和五十三年に主島の魚釣島を手に入れたのだった。