特にお勧めしない本 ― 2013年12月01日

2時間でわかる 日本と世界の領土問題 ニュースなるほど塾/編 河出書房新社 (2013/7)
本のタイトル通り、日本の領土問題に対して、平易に書かれている。予備知識無しに読める点は評価できるが、執筆者の知識が乏しいのだろうか、おかしな記述が多い。日本の領土問題を正しく理解したい人は、別な本を読んだほうがよい。本を雑に読んで、なんとなく分かった気になりたい人は、この本でも良いかもしれないが、あえて、この本を選ぶ理由は、ないだろう。
項目のタイトルからして、間違っている。
P48には、『日本が唯一北方4島を訪問できる「ビザなし交流」とは』とのタイトルで、ビザなし交流の説明があるが、Wikipediaの「北方四島交流事業」の項にも、「北方墓参」「自由訪問」が記載されているので、ビザなし交流が唯一の方法でないことは、容易に分かるはずだ。この本の著者には、せめて、Wikipedia程度の知識は持って欲しかった。
内容も、おかしなことが多い。いろいろな記述を切り張りして、一冊の本に仕立て上げたのだろうか。
一例を挙げよう。P40の北方領土の歴史解説がある。
『いっぽうロシアは、18世紀初めにようやく千島列島の北部に到来した。
このとき江戸幕府は、間宮林蔵らを国後島、択捉島に派遣して実地調査を行ない・・・』
これを読むと、間宮らの国後派遣は、18世紀初めになってしまう。しかし、実際は100年後のことだ。18世紀終わりごろの話を割愛したために、このような誤った記述になったのだろうが、多少の歴史知識のある人が、執筆者・校閲者に加われば、誤りには容易に気づいただろうに。
竹島の記述もいただけない。あるていどの知識のある人が、執筆陣に加わらないから、このような本になってしまうのだろう。
P56には、次の記述がある。
『文献のなかには1650年代に伯耆藩(鳥取県)米子の大谷家と村川家が、幕府から許可を得て松島を管轄していたという記録が残っており・・・』
かつて、日本の外務大臣にも、このように言った人があったが、日本史上「伯耆藩」など存在していない。いまだに、このような誤りを繰り返すのは、情けないことだ。
竹島問題の解説、P58の記述もいただけない。
『小さな岩山でしかない竹島だが、日本も韓国も自国の領土であるとの主張を曲げない。当然そこには理由がある。最大の理由は、竹島を領有することで、自国のEEZを拡大できるからだ。』
確かに、日本は欲深いので、竹島を領有してEEZを拡大しようとしているようだが、韓国ではEEZの基点に鬱稜島と定め、竹島でEEZを拡大しようとはしていなかった。最近は、日本の主張に対抗する形で、竹島をEEZの基点にしているようだが。韓国の竹島主張の最大の理由が、EEZ拡大のためと考えることは出来ない。
いろいろと、おかしな記述が多い本なので、もし、この本を読んでしまった人は、別に、まともな本を読み直して、正しい知識を得る必要があるだろう。
サイクロトロン ― 2013年12月03日

サイクロトロンとは荷電粒子を加速して高エネルギー状態とし、それによって、いろいろな核物理関連などの実験を行う装置のこと。今は、重イオンビームによる癌治療も行われている。
理化学研究所では、1937年に第一号サイクロトロンが建造され、1943年には第二号サイクロトロンが完成した。原爆開発では、山崎文男が中心となった検出班が、サイクロトロンを使って、ウランの濃縮が成功したかどうかの判定をした。最初の検出は 1944年11月におこなわれたが、濃縮は失敗と判定され、翌年5月の測定でも、同様の結果となったため、陸軍は二号研究の中止を決定した。
このように、当時、サイクロトロンは、原爆開発に必要な機器であったため、戦後GHQは理化学研究所のサイクロトロンを破壊した。
主権回復後の1953年には第三号サイクロトロンが完成し、さらに1966年には第四号が完成している。写真は、理化学研究所屋外に展示されている、今は使われなくなった、第四号サイクロトロン。原爆開発に使われたことはないはず。
沖縄観光旅行 ― 2013年12月15日
沖縄旅行(1) ― 2013年12月16日
宜野湾市の嘉数高台公園から見た、普天間基地。住宅地の真ん中にあるので、万一事故が起きたら、大惨事に繋がるかもしれない。12月16日、神奈川・三浦には、米軍ヘリが墜落。
道の駅カデナ。ここの展望台から、カデナ基地がよく見える。普天間もそうだが、沖縄では基地がよく見えるような展望台がある。米軍機の離着陸を記録して公開したら、機密保護法違反で逮捕されるのだろうか。
米軍機が轟音をとどろかせて飛び立っているのが見える。
見学者が多い。
トリイ通信基地の入口。何でトリイがあるのだろう。
ゾウの檻は返還され、すでに撤去され、広大な空き地になっている。
沖縄旅行(2) 戦跡 ― 2013年12月17日
<読谷村>
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷村渡具知海岸から、北谷海岸一帯に上陸した。上陸地点での反撃はなかった。
渡具知海岸の高台には『米軍上陸の地碑』が作られている。車で行く場合は、渡具知海岸の駐車場に置いて歩くか、電信屋の碑(ここに公衆トイレがある)あたりに、路上駐車して歩くが、いずれにしても分かりにくい。渡具知海岸の駐車場から歩く場合、泊城の看板がある方ではなくて、すべり台がある方を登る。
渡具知海岸の高台には『米軍上陸の地碑』が作られている。車で行く場合は、渡具知海岸の駐車場に置いて歩くか、電信屋の碑(ここに公衆トイレがある)あたりに、路上駐車して歩くが、いずれにしても分かりにくい。渡具知海岸の駐車場から歩く場合、泊城の看板がある方ではなくて、すべり台がある方を登る。
県道6号を北上して、大当の交差点を左手に直進して、少し走ると、公衆トイレがある。トイレの向かいが、チビチリガマ上部で、案内看板もあり、少し奥に、脇に降りる階段がある。ここは、米軍上陸の翌日に避難していた住民が、米軍捕虜となることを恐れて、互いに殺しあった場所。

チビチリガマと並んで語られるシムクガマも近い。こちらは、旧楚辺通信所(ゾウの檻)の北東にあるが、天気が悪かったので行かなかった。
チビチリガマをさらに北上して、案内板に従って、細い道を右折後、うねうね行くと、サトウキビ畑の歌碑がある。
「ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ♪」
この歌、最初に森山良子が歌ったようだけれど、1975年にNHKみんなのうたで、ちあきなおみが歌っていた。凄味があった。
戦争末期、日本軍は読谷村に、急遽、飛行場を建設した。しかし、爆撃で壊滅的打撃を受けた。飛行場の場所は、読谷村役場の東側すぐ。役場の西側には、木製の粗末な「義烈空挺隊玉砕之地碑」が建てられている。戦死した軍人を英霊として顕彰する目的で建てられたのだろうけれど、ちょっと粗末。
<宜野湾市>
嘉数高台公園は、普天間基地を展望できる。ここは激戦地だったため、いくつもの戦跡が残されている。
下の写真は『弾痕の塀』。
下の写真は『弾痕の塀』。
公園内には、京都の塔などの碑が建てられている。反戦と英霊顕彰が混ざり合っているような。
トーチカ跡
『陣地壕出入口』
<那覇>
那覇市郊外の旭ヶ岡公園にたつ記念碑。戦意高揚の顕彰碑かな。ここには、護国寺があるので、そのためかな。
あとから来る君たちへ
いま 私たちの平穏な営みは 多くの先人の犠牲の上にある
先人から受け継いだこの国を あとから来る君たちに託し ここに伝えたい
忘れないで欲しい 多くの尊いいのちのことを 祖国を守るために 地上戦となったこの沖縄の地で 道半ばの戦いに散っていった人たちのことを
忘れないで欲しい 先人たちが何より守りたかうたのは いまの私たちの誇りと笑顔だということを
だから泣かないでここでは笑顔を見せよう そして払たちは後から来る君たちの誇りと笑顔を守っていこう
伝えて欲しい 君たちにこの国が託されたとき 次の世代に この国がいつまでも 笑顔の絶えない国であるために ここ沖縄 那覇の地に 集いし 我々青年の覚悟を宣す
(以下省略)
同じ公園内(あるいは護国寺内)には、津島丸の慰霊碑が建てられている。
沖縄旅行(3) 南部の戦跡 ― 2013年12月18日
平和祈念公園の平和の礎。沖縄戦で死亡した人の名前が刻まれている。
平和の礎の隣、摩文仁の丘には、いくつもの碑が建立されているが、写真はそのうちの、義烈空挺隊の碑。
「・・・我が挺進第一連隊より選出せられたる義烈空挺隊 および第三独立飛行隊の壮挙にして両将兵百十三名全員ここに悠久の大義に殉ぜり 後に続く者を信じ日本民族守護の礎石となりし将兵の霊に 我等何をもって応えんとするや」
さらに先に進むと、第32軍と、牛島司令官を顕彰する、でっかい碑が建てられている。「黎明之塔」という。
6月11日に米軍から無条件降伏勧告が出されても、牛島司令官は、これを無視し、さらに、沖縄戦敗北確実の情勢に及び、23日には責任を放棄して、勝手に自殺したため、その後、沖縄住民は悲惨を強いられた。
糸満市宇江城に建つ「山雨之塔」。場所は、分かりにくい。こちらの碑文も「黎明之塔」とニュアンスが似ている。

米須交差点を県道7号で北上すると、すぐに、米須小学校がある。その反対側に建つのが、この「忠霊之塔」。米軍に攻められたときに、付近の住民と日本軍人が、ここにあった洞窟に逃げ込んだ。米軍の投降勧告に対して、日本軍人は洞窟から出ることを禁止したため、ほとんど全員が、米軍火炎放射器の犠牲になったところ。塔の下には、犠牲となった住民の名前が刻まれているが、軍人は書かれていない。
どのような理由で、『忠霊』と刻まれているのだろう。
旧海軍司令部壕に建つ記念碑。住民の犠牲を顕彰している。
「ひめゆりの塔」には多くの人がいた。犠牲者は従軍看護婦であるため、A級戦犯らと同様、靖国神社に合祀されている。
「白梅之塔」は、ひめゆりの塔と同じように、軍看護婦となった後、集団自殺した女学生の慰霊碑。軍属であるため、靖国神社に合祀されている。
南風原町の陸軍病院壕跡は、一部が公開されています。ここでは、傷痍兵を青酸カリを使って毒殺した。
沖縄旅行(4) グスク ― 2013年12月19日
沖縄旅行(5) 尖閣問題を考える ― 2013年12月20日
那覇市の国道58号線あたりは、かつては海中で、那覇市久米・松山は、陸地と離れた浮島になっていた。明国から冊封使が来ると、浮島に上陸し、浅い海を渡って首里へと向かっていたが、1451年に、浮嶋と首里を結ぶ道路が建設された。その後、江戸時代、戦前・戦後にかけて、埋め立てが進み、現在の形となっている。
首里城は海からだいぶ遠い内陸にあるが、もともとは、そういうわけではなかった。
戦災で焼失した首里城は、1992年に再建された。
首里城は海からだいぶ遠い内陸にあるが、もともとは、そういうわけではなかった。
戦災で焼失した首里城は、1992年に再建された。
14世紀末、明の永楽帝が派遣した冊封使により、琉球王は冊封を受け、形式的に明の属国となる。これ以降、第一尚氏・第二尚氏時代と、明・清の冊封を受けている。冊封は、王が変わるたびに受ける。
首里城の守礼門。「守礼」とは、中国に対して、臣下としての礼を守っているとの意味。守礼門は1958年に再建されている。
首里城内に、当時の冊封の様子がジオラマで再現されている。琉球王は中国の役人に対して、ずいぶん、へりくだった態度だ。
琉球は中国に、毎年・あるいは数年に一度、朝貢、すなわち貢物をしているが、それ以上に礼物をもらうので、これは、君主・臣下の関係を利用した貿易だった。中国は、琉球に対して、朝貢に必要な貿易船を琉球に贈与しているが、それだけではなく、航海などをつかさどる技術者・学者を派遣した。この人たちは、那覇市久米村に居住したため、久米36姓と言われた。実際に、36の姓があったわけではなくて、36が縁起の良い数だったため、このように言われたのだろう。これらの人たちは、おもに、福州の出身だった。
那覇市久米には、福州との歴史的関係を記念して造られた、福州園がある。中国式の庭園です。
福州園の道路を挟んで反対側の松山公園には、久米村発祥の地碑が建てられている。ラーメン丼のようにもみえるが、琉球・中国間の航海船を模ったとのことだ。
蔡・毛・王・林・金・鄭・梁・陳・程・阮・魏・孫・紅・曾・楊・周・李の17姓が書かれている。
朝貢船の航海や、冊封使のもてなしは、久米村の人たちが担っていた。下の写真は、那覇市東町郵便局隣の医師会ビル前にある、天使館跡の看板。冊封使が来琉すると、この場所に宿泊した。
朝貢船の航海や、冊封使のもてなしは、久米村の人たちが担っていた。下の写真は、那覇市東町郵便局隣の医師会ビル前にある、天使館跡の看板。冊封使が来琉すると、この場所に宿泊した。
尖閣問題に関連して、日本では、次のように言われることがある。
『朝貢船の方が、冊封船よりも圧倒的に回数が多く、琉球の出した船の方が多いので、琉球の方が、尖閣付近の航路を良く知っていた。』
この見解が、100%誤りとは言えないが、限りなく嘘に近い。
琉球発の航海を主導したのは、久米36姓の人たちなので、琉球人が航路を知っていたと言う訳ではない。久米36姓の人たちは、琉球人なのか、中国人なのか。彼らは、中国各地や東南アジアの華僑の人々と同様に、渡来人の心の拠り所として中国・山東省済寧市曲阜から孔子の絵像を持ち帰り、1610年から釈奠の儀礼など行うようになり、今でも、久米36姓の末裔が孔子廟を守り祭礼を行っている。
現在は、彼等は、すべて日本国籍であり、日清戦争以降は、日本に同化している。
1879年、明治政府は松田道之に武装警官らを随行させ、武力的威圧により、廃藩置県を強行し、琉球王統は終了した。明治政府の琉球処分に反対して、清国に琉球救済のために、軍隊派遣などを求め、清国に亡命した人たちがいた。これを脱清人という。脱清人の多くは久米36姓の人たちである。
1880年、日本政府は、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案し、清も一度は応じ仮調印した。久米村出身の林世功は、清国の態度に、抗議の自殺をした。脱清人の抗議活動のため、清国は沖縄分割案に対して、本調印をしないまま、日清戦争に突入となった。下関条約で、台湾が日本に割譲されるに及び、琉球全島や尖閣は日本の領土となった。
1879年、明治政府は松田道之に武装警官らを随行させ、武力的威圧により、廃藩置県を強行し、琉球王統は終了した。明治政府の琉球処分に反対して、清国に琉球救済のために、軍隊派遣などを求め、清国に亡命した人たちがいた。これを脱清人という。脱清人の多くは久米36姓の人たちである。
1880年、日本政府は、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案し、清も一度は応じ仮調印した。久米村出身の林世功は、清国の態度に、抗議の自殺をした。脱清人の抗議活動のため、清国は沖縄分割案に対して、本調印をしないまま、日清戦争に突入となった。下関条約で、台湾が日本に割譲されるに及び、琉球全島や尖閣は日本の領土となった。
沖縄旅行(6) ― 2013年12月22日
本の紹介 どうなるの? 日本の領土 ― 2013年12月23日

尖閣・竹島・北方領土 どうなるの? 日本の領土 ゆかちゃんの学習ノート
武内胡桃/著、かなき詩織/イラスト (2013/9) ハート出版
子供向きに、日本の領土問題を分かりやすく書いた本、のはず。
でも、勉強が出来る子には、物足りない、説明だろう。最初に、国家の要素として、「領土」「国民」「主権」があげられ、領土を守ることは、国の誇りであると解説している。勉強が、できない子なら、この説明で満足するだろうが、賢い子なら、「少しでも領土を失うことが国家の誇りを失うならば、少しでも国民が外国に帰化することは国家の誇りを失うことなのか」との疑問が生じるだろう。賢い子が読んでも、矛盾ないように、もう少し、論理を推敲して欲しかった。
国民主権と政府の関係の説明もおかしい。著者は、国民主権を家族に譬え、政府を両親に譬えている。家族の中で、権限があるのは、両親なのだから、両親こそが主権者だ。著者の説明では、まるで、政府に主権があるようになってしまう。
竹島問題、尖閣問題は、日本に都合の良い、一方的宣伝をそのまま、書いただけのもの。成績の良い子が、この本で、学ぶ価値はない。ただし、学校の勉強についてゆけない子に、親が教える目的ならば、多少は使えるかもしれない。
北方領土問題では、日本の主張のほかに、歴史的事実に踏み込んでいる。この部分は、子供の学習のためには、有用だ。
北方領土の章並みに、他の章も書けばよかったと思うが、残念だ。