本-尖閣諸島 冊封琉球使録を読む ― 2014年02月02日

原田禹雄/著 『尖閣諸島 冊封琉球使録を読む』
この本について、以前、このBlogで取り上げた。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2012/10/22/6608795
尖閣問題では、日本史学者の井上清による尖閣中国領論が有名であるが、本書は、井上の琉球冊封使関連の歴史理解に対して反論している。文章のニュアンスは、反論というよりも、罵倒のように感じる。本の最初の1/5程度が、尖閣問題の解説と、井上説の批判。残りの4/5は冊封使関連文書の抄訳。ただし、この中にも注釈として、井上説批判が多数書かれている。井上の尖閣中国領論は歴史的状況を多面的に論じているのに対して、本書は冊封使録の著者の解釈のみで、井上説を否定しているが、冷静さを欠く記述にうんざりした。
ここでは「陳侃・使琉球録」について、原田禹雄説を検討する。
本書には『陳侃・使琉球録(1534年)』の一部の翻訳が掲載され、注意書きの中で、井上清の説を批判している。
原田禹雄/著 『尖閣諸島 冊封琉球使録を読む』P29~31
(嘉靖一二年、一五三三、一一月)この月、琉球国の進貢船が福州に到着したが、私たちはそれをきき、うれしく思った。福建の人々は、(那覇への)航路をそらんじていないので、ちょうど、そのことをしきりに気にやんでいたのであった。到着をよろこび、航路の詳細をたずねることができた。翌日、また琉球の船が到着したとの知らせがあった。それは、世子が長史の蔡廷美を迎えによこしたのである。私たちは更にうれしかった。航路のくわしいことを、必ずしも朝貢の使者にたずねなくとも、案内をしてくれるものができたからである。長史の謁見の折、世子の口上を申し述べ、また、こんなことを言った。
「世子はまた、福建の人が、船の操縦が十分ではないことを心配いたしまして、看針通事一人に琉球の船員で、航海によく馴れた者三〇人を引率させて派遣し、福建の船員の代わりに航海の仕事をさせることにいたしました。」
これまた、うれしいことであった。必ずしも案内する船をたよりにせずとも、舟に共に乗って、助けあえるものができたのである。
(途中省略)
井上清は、《琉球人のこの(尖閣)列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった》と書いている。しかし、ここの陳侃の言葉は、始めて琉球へゆく冊封使が、尖閣諸島の知識を、熟練した琉球の船員から得たことを示しており、井上は完全に逆のことを書いていることがわかる。封舟の十倍以上、明代の進貢船は那覇-福州を往還している。尖閣諸島の知識は、封舟以上に必要であり、集積されていた。その上、封舟の針路を指導したのも琉球の夥長であった。きちんと冊封使録を読んでおれば、井上のこのような根拠のない発想は起こるはずはない。
翻訳には訳者の考えがどうしても入るので、原文のニュアンスを必ずしも正確に伝えるものではない。研究者による解釈が違うような場合は、原文に立ち戻る必要がある。
陳侃・使琉球録の写本が、琉球大学付属図書館 デジタルギャラリー 貴重書デジタルアーカイブの伊波普猷文庫 で公開されている。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/iha/
この中にある、『16.陳侃使録 1冊 筆写者及び年代不詳』をクリックすると『陳侃使録』の画像が表示されるので、この12ページに、該当文章がある。
また、筑波大学図書館のページには『沖縄の歴史情報 CD-ROM版』が公開されている。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/okinawa/cdrom-index.html
この中の、第8巻に 陳侃『使琉球録』 がある。画像、テキストの両方があって便利。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/8-5.htm
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/index_ch.htm
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch.txt
この文章は、使事紀畧の0005に画像がある。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/05/00000005.gif
[原文(原文には空白や改行はないが、読みやすいように付けた)][私の日本語訳]
是月 琉球国進貢船至 予等聞之喜 閩人不諳海道 方切憂之 喜其来 得詢其詳
翌日 又報琉球国船至 乃世子遺長史蔡廷美来迓予等 則又喜其不必詢諸貢者 而有為之前駆者矣
長史進見 道世子遣問外 又道世子亦慮閩人不善操舟 遣看針通事一員 卒夷梢善駕舟者三十人代為之役 則又喜其不必藉諸前駆 而有同舟共済者矣
大蹇朋来 憂用以釈 即此而観 世子其賢矣乎 敬使所以敬君也 敬君所以保国也 懐徳畏威 邦其永孚于休
この月、琉球国の進貢船がやってきたので、私たちは、これを聞いて喜んだ。閩人は航路を暗記していないことを憂慮していたので、来航により、詳細を尋ねられ、喜んだのだ。
翌日、また、琉球国船が来たとの知らせがあった。世子(王の世継)が、私たちを迎えに、長史(役職名)蔡廷美を派遣したのだ。水先案内人がいれば、進貢の者に尋ねる必要がないので、喜んだ。
長史は進み出て、世子の挨拶を伝えた。また、世子は、閩人が操船を良くできないことに配慮して、看針通事(中国語のできる航海士)一人と、彼が率いる、操船が上手な夷梢の船員30人を、代役させるために、派遣したとのことだ。同じ舟で助け合う者がいれば、水先案内人を借りる必要はないので、さらにまた嬉しかった。
(以下、ほめ言葉)
[注]
閩:五代十国時代、中国福建省あたりに存在した国の名前。閩人とは、福建省あたりの人のことを言う。
長史蔡廷美:琉球大学図書館写本では長司蔡廷美となっているが、誤写と思われる。
夷梢:「夷稍」とも読めるが、『沖縄の歴史情報 CD-ROM版』のテキストデータにしたがって、夷梢とした。どちらでも、意味は、ほとんど同じ。『夷』は中国文化の恩恵をこうむらない民族のことで、特に、東方の人たちを言う。
原田禹雄は、「福建の船員の代わりに航海の仕事をさせる」と訳しているが、「閩人不善操舟」を理由に、「夷梢善駕舟者三十人代為之役」としているので、「代わりに航海の仕事をさせる」のではなくて、「代わりに操船の仕事をさせる」との意味である。航海の仕事をさせるのは、看針通事と琉球の船員だ。
また、原田禹雄は、閩人を福建の人、夷梢を琉球人と訳している。閩人と福建の人は、ほぼ同義だから、この訳は特に問題ないと思う。
陳侃は閩人が航路不案内のことを憂慮していたので、蔡廷美が迎えに来たことを喜び、さらに看針通事等を連れていたことを喜んだ。陳侃の喜びは、「善駕舟者」に限定されるわけではなく、むしろ、蔡廷美や看針通事が来たことを喜んでいる。ところで、原文を見ると、陳侃は蔡廷美や看針通事のことを、夷梢とは書いていないことが分かる。
原田は本文で、夷梢を琉球人と訳しておきながら、「尖閣諸島の知識を、熟練した琉球の船員から得たことを示しており」と書いているが、これでは、陳侃が看針通事を「夷梢」と書いているようになってしまい、不適切な訳文である。
陳侃は、蔡廷美や看針通事のことを、「夷梢」とも「琉球人」とも書いていないが、それでは、いったい彼らは何者だったのだろうか。この疑問に対して、閩人三十六姓を知る必要がある。
閩人三十六姓と蔡廷美、林盛
琉球が、まだ3つの王国に分かれていた時代の1372年、明国・洪武帝は察度を「琉球国中山王」として冊封した。そして、琉球は明国より朝貢に使用する船舶を下賜された。このとき、洪武帝の命により、朝貢に要する航海・通訳などの、多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。彼らの多くは、福建省あたりの出身だったため、閩人三十六姓と呼ばれた。36の姓があったわけではなく、縁起が良い数字なので、36と言われたと説明されることが多い[1]。もっとも、閩人は、この時以前にも、交易目的で琉球に居住していたので、冊封に伴って来琉した閩人と合わせて、閩人三十六姓が作られたものと考えられる。 琉球の大航海時代を支えたのは、明朝との朝貢関係が開始された初期段階において明朝から大量に下賜された海船であり、その運用に携わった多数の船乗り集団だった[2]。
朝貢業務に不可欠な漢文外交文書の作成も久米村の華人たちが担っており、現場で活躍する通訳(通事)なども華人であり、進貢船を動かす船長(火長)はほぼ例外なく華人であり、水夫(梢水)も当初は大半が華人であったと考えられる[3]。
現在、那覇市中心部にモノレールが通っているが、かつて、このあたりは海の中で、那覇市久米・松山などは、浮島だった。閩人三十六姓は浮島に住み着き、久米村を開いた。このため、閩人三十六姓のことを久米三十六姓とも言う。
彼らは、中国語を話し、中国風の生活をしていたが、明が清に変わると、清の習俗を取り入れることをせずに、琉球化していった。しかし、彼等は自らを中国人として自負し、王府からもまた中国人とみなされた[4]。
琉球の朝貢は、閩人三十六姓によって担われていたが、明末になり、朝貢貿易が退潮すると、久米村も衰退し、一時は五姓にまで減ったとも言われている。
久米村衰退に伴い、中国への航海術も低下した。1594年、琉球国の進貢使・菊寿らは、航路を誤って浙江に漂着した。福建の役人・金学曾が朝廷へ報告したため、阮国を遣わして一行を護送して琉球に送り届けた。また、1600年、琉球の長史・蔡奎は、世子・尚寧の冊封を願い出たが、帰路を誤り、福建の役所に援助を願い出た。このため、阮国と毛国鼎(福建省瀧溪県の人)が、蔡奎等を琉球に送り届けた。
こうした中、琉球王は、新たな閩人三十六姓を賜ることを明に願い出るも、受け入れられず、代わりに、阮国、毛国鼎、二姓の久米村入籍が許可された。その後、さらに、福建人の来琉があって、航海術も復活した。
閩人三十六姓の名門、蔡氏は、1300年代に中国福建省から琉球に渡り、久米に移り住んだ蔡崇を祖とする。蔡氏大宗家譜によると、蔡廷美は蔡崇から数えて6代目に当たり、計五度進貢通事等として渡唐した人物である。
陳侃等謹題為出使海外事では、『看針通事』の名前を、『林盛』としている。(以下に画像がある。)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/10/00000002.gif
陳侃使録の杜氏通典には、以下の記述がある。
若大夫金良 長史蔡瀚 蔡廷美 都通事鄭賦 梁梓 林盛等凡有姓者 皆出自欽賜三十六姓者之後裔焉[口語訳]若大夫・金良、長史・蔡瀚、蔡廷美、都通事・鄭賦、梁梓、林盛など、おおよそ名字のあるものは、すべて、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫である。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/06-05/00000001.gif
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/06-05/00000002.gif
このため、林盛も、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫、すなわち、閩人三十六姓であることは間違いない。都通事とは、通訳の階級で、若秀才→秀才→通事→副通事→都通事→中議大夫→正議大夫→紫金大夫と進む。
井上清説と原田禹雄説
原田禹雄は「封舟の針路を指導したのも琉球の夥長であった」と書いているが、多くの場合、夥長も閩人三十六姓が担っていたので、陳侃使録の夷梢を琉球人と訳すのならば、「琉球の夥長」と書くことは誤訳か、そうでなくても、へたくそで誤解を与える訳と言えるだろう。
冊封船の航海は閩人が担い、進貢・朝貢船の航海は閩人三十六姓が担っていた。どちらが、航路を熟知していたのかは、時代や、個々のケースによって異なるので、一概には言えない。
陳侃使録によれば、冊封船に乗る閩人は航路をよく知らず、琉球に住む閩人三十六姓が航路を熟知していたことが分かる。冊封使は、毎回冊封の時に、冊封船を建造し、船員を雇い入れていたので、場合によっては、優秀な船員を雇えないこともあった。陳侃の雇い入れた船員が、航路を知らなかったとしても、閩人すべてが、航路の知識がなかったと考えることは、論理の飛躍である。
航路を知っていたのは、閩人か閩人三十六姓のどちらかであるため、井上清は、これを中国人としたのだろう。(井上の本には、詳しいことが書かれていないので、確たることは言えないが)。これに対して、原田禹雄は閩人三十六姓は琉球人と考えているのだろう。
注と出典:
[1]那覇市松山公園内にある久米村発祥の地碑には「蔡・毛・王・林・金・鄭・梁・陳・程・阮・魏・孫・紅・曾・楊・周・李」の17姓が刻まれている。
中国福建省福州市台江区にある柔遠駅(琉球館)の移居琉球的閩人姓氏によれば「蔡・鄭・金・林・陳・毛・王・梁・阮・孫・曾・魏・程・紅・周・李・高・呉・瀋・田・馬・銭・宗・葉・范・楊・郭・翁・于・韓・賈・兪・宋・陶・伍・江」の36姓が書かれている。
[2]岡本弘道「古琉球期の琉球王国における「海船」をめぐる諸相」 東アジア文化交渉研究 2008-03 p.221-248
[3]上里隆史「海の王国・琉球」 洋泉社 (2012/2)、出典箇所 p90
注)著者は閩人三十六姓のことを、華人と書いている。
[4]都築晶子「蔡温の「国」の思想」 人文學報 (2002), 86: p167-190
参考
『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社
久米三十六姓 :14世紀後半ごろ進貢貿易を遂行するために、福建から数次にわたって派遣された通訳・船頭などの職能集団。ただちに琉球に土着したわけではなく、中琉間を往復するうちに定住する。三十六姓は漠然とした数字。16世紀後半から東南アジアの貿易構造の変化などによって久米村の人口は減少し、蔡・鄭・林・梁・金姓が残存するのみとなるが、近世琉球では、首里王府による久米村籍への移入政策などによって新入唐栄人が急増する。
本の紹介-港町と海域世界 ― 2014年02月08日

港町と海域世界 村井章介・歴史学研究会/編 青木書店 (2006/01)
中世、港町を中心とした、海域交流の実態を描く。本書は、地域ごとの三部構成。
第一部:環日本海と環シナ海
第二部:イスラームとインドの海
第三部:地中海から北海へ
第一部、第一章は佐々木史郎氏の『東北アジアの河川、海上交通とその拠点』
内容は、間宮林蔵が訪れたデレンの場所を特定する作業と、サンタン交易の説明。あまり明らかになっていない、日本の北方交易についての珍しい話で、興味が持てる。
第一部、第五章は壇上寛氏の『明代「海禁」の実態』
薩摩藩侵攻以前の琉球は、海外貿易拠点としてにぎわったが、その背景には、明の海禁政策があった。琉球の歴史を考える上でも重要な内用です
本-すぐわかる日本の国境問題 ― 2014年02月11日

すぐわかる日本の国境問題 山田吉彦/著 海竜社(2013.12)
日本の領土問題について、要領よくまとめられている。基本的には、日本政府の主張と同様な主張で、政府が無料で配布している資料の範囲を超えた内容は多くない。また、著者は、テレビの解説等にも出演しているため、新味のある内容はほとんどないように感じる。本は300ページを超える分量ではあるが、字が大きく、本の厚さの割には、内容が薄い。このため、すでに、日本の領土問題に対して、ある程度、知識のある人は、特に読む必要はないかもしれない。
ざっと読むと、上記のようなのだけれど、注意して読むと、おかしな記述が多々ある。読者をだます悪意で書かれた本とは思いたくないが、真相はどうなのだろう。
P102に 「尖閣諸島は明の時代から中国領だった」はウソ の項がある。
しかし「釣魚島」などは単に目印、通過地とされているだけで、明に属すると書いてあるわけではありません。むしろ、琉球の人々は、尖閣諸島を「ユクン・クバジマ(魚が獲れビロウが茂る島という意味)」と呼び、サバニという小型船を操り漁に出ていました。琉球の人々の海だったのです。これを、普通に読むと、明の時代には、琉球漁民が尖閣にサバニで出漁していた、と思うだろう。しかし、琉球の中で、尖閣に一番近い、先島でも、距離は170kmあるので、製氷設備がなければ、魚をとっても、腐敗せずに、持ち帰ることは不可能だ。19世紀中期以前に、琉球漁民が尖閣に出漁していた事を示す資料は無かったはずだが、著者は何を書いているのだろう。
しかし、本をよく読むと、琉球の人々の話は、いつの時代とは書いていない。だから、明治以降の琉球の話でも、ウソではないが、こんな記述をしないと、著者の論は信憑性がないのだとしたら、お粗末というしかない。
P95の次の記述も、意味不明だ。
どこの国の支配も及んでない無人島(無主地)を発見した国が、どの国よりも先んじて領有の意思を表明し、実効的支配体制を確立することによって領土に編入することです。明治政府が10年かけて、清の支配が及んでいないと確認した、とするならば、10年間、何をして確認したのか。役人は何もしないときに「善処する」と言うし、10年間ほったらかしておいた場合、「慎重に確認した」と言うものだ。どのようにして確認したのかが分からなければ、役人のデタラメ作文と違いがなくなってしまう。
尖閣諸島に当てはめると、無主地は、明治政府が1884年の古賀氏による探検から10年かけて、無人島であり、清も含めてどこの国の支配も及んでいないと確認しました。
さすが、海洋政策の専門家と思える記述もある。
P154~P157には、中国が尖閣の領有を主張する理由として、石油資源・漁業資源・軍事上の問題、の3点が書かれていて、巷間に言われる、石油資源だけではないことが説明されている。領土問題は、国家主権に関係する重要な問題なので、単一の理由で割り切れるほど単純でないが、石油資源が唯一の理由であるような、いい加減な解説本が多い中、本書は、まともな解説になっている。
しかし、P99には、「ねらいは東シナ海の海底地下資源にあったといわれています」と書いているのは、どうしたことだろうか。確かに、いい加減な評論家や、いい加減な解説本では「海底地下資源にあったといわれていいる」が、著者はまともな研究者なのだから、自分の見解を示すべきだった。
竹島問題に関して、不思議な記述がある。
P222~P224に「韓国併合と竹島は関係あるの?」との項があり、このなかで、「朝鮮半島支配ではなく、むしろ日露戦争だった可能性があります」と書いているが、本当に著者本人が書いたのだろうか。
手元にある中学生用歴史教科書を調べてみたら、日露戦争と韓国支配の関係が説明されているので、普通に日本の中学校で学んだものならば、日露戦争と関係が有るならば、朝鮮半島支配と関係があることは、容易に分かるはず。
本の紹介-尖閣問題Q&A ― 2014年02月12日

「尖閣問題Q&A―事実を知って、考えよう」 岸本和博/著 第三書館 (2013/11)
尖閣問題を冷静に考えてみたい人にはお薦めの本です。
尖閣問題に対して、日本政府の主張に批判的な立場での記述。Q&A形式で書かれている。本の前半が、尖閣諸島領有問題で、後半が、排他的経済水域の話。
領土問題に関して、多くの本は、日本の正当性を主張する立場で書かれているが、本書は、それとは逆の立場なので、著者の考えに、賛同しない人も多いだろう。一つの事実に対して、どのような解釈をするのか、あるいは、どのような心情を持つのか、それは、人それぞれだ。
しかし、尖閣問題で、日本の立場を主張する多くの本は、日本に都合の悪い事実を無視して、さらに、事実と異なる虚偽や、故意に誤解を与える記述をすることがある。本書は、日本に都合の悪い事実を積極的に取り上げており、尖閣問題を総合的に判断するためには、欠かせない材料になる。
ただし、尖閣問題について、日本の主張をまったく知らない人が読んでも、得るものは多くないかもしれない。日本政府の主張を知っている人が、この問題に対して、さらに理解を深め、問題を自分なりに考えるためには、好適な参考書だ。
ところで、「山田吉彦/著 すぐわかる日本の国境問題 (2013.12)海竜社」は、尖閣諸島は明の時代から中国領だったとの中国の主張はウソであるとした後に、琉球の人々は、尖閣諸島へ、小型船・サバニで出漁していたと説明している(P102)。
この件について、本書では、それは有り得ないと、具体的理由をあげて説明している(P21,P22)。山田吉彦の説と、岸本和博の説のどちらが正しいのか、あるいは、両説は矛盾しないのか、落ち着いて考えてみることは有益だ。
領土問題では、とかく、自国の主張のみが正しいと、短絡的立場に陥りがちである。本書を読んで、冷静になると良いと思う。
本の紹介-海路としての<尖閣諸島> ― 2014年02月21日

山田慶兒/著『海路としての<尖閣諸島> 航海技術史上の洋上風景』 (2013.11) 編集グループSURE
尖閣問題のうち歴史的経緯を理解する上で、欠かせない内容。
中世、尖閣諸島は、中国・琉球の冊封使船や朝貢船の航海上の目印として利用されていた。当時の航海は、どのように針路を決めていたのか、本書では、その技術的内容が説明されている。15世紀初頭、鄭和による大航海があったが、中国・琉球の航海にも、この時の航海技術が受け継がれているとされる。
中国中世の航海書『順風相送』の成立年代に対する検討もなされている。また、程順則による『指南広義』への言及も多い。
ただし「琉球国の船員」「中国の船員」と固定的に考えているようで、この点には賛成しかねる。たとえば、P100には、次の記述がある。
『琉球国の船乗りたちは、中国の船乗りたちの針簿によって、航海技術を学んだが、つねに生徒だったわけではない。』
中国・琉球航海の最初のころは、琉球の船員の多くは中国から移住した人たちだった。さらに、時代が下がっても、琉球船の船長や、航海士の多くは、中国人の末裔や移住者だった。また、琉球に居住した中国人の末裔たちの中には、中国に帰った人もあったようだ。
P120には、「琉球はれっきとした独立国です」と書いているが、政治活動の宣伝ならともかく、研究者・技術者の書く文章としてはいただけない。中世の琉球は中国と冊封関係にあったため、形式的には中国の服属国だった。また、薩摩藩の侵攻以降、実質的には、薩摩の支配下にあったので、名実共に、完全な独立国といえる状況にはなかった。著者が、何を持って「れっきとした独立国」というのかを明確にしない限り、自分の言葉に酔った記述になってしまうだろう。
本書には、このような問題点があるので、領土問題を考える上では、十分な記述とは思えないが、当時の航海の実情を理解し、尖閣問題を考える上で、好適な参考書と言えるだろう。