本の紹介-アイヌ民族と日本人2014年04月01日


菊池勇夫/著 『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』 (朝日選書) (1994/09)


アイヌ民族の歴史を日本との係わり合いで解説している。
「アイヌと日本人との交流史」と言った感じです。
もちろん、日本人に都合の良い立場で書かれているわけではない。例として、2箇所。

境界権力のゆくえ
 ところで、蠣崎氏は秀吉・家康の統一権力に寄り添うことによって近世大名化を遂げていったが、これは前章で述べてきた境界権力という系譜のなかでどのように位置づけられるのだろうか。元和四(一六一八)年、松前に入った宣教師アンジェリスに対して藩主公広は、「パードレの松前へ見えることはダイジモナイ、何故なら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではない」(『北方探検記』)と語ったという。日の本将軍ないし安日の後喬を自任し、自立的権力への可能性を秘めていた安東氏の実質的な後継者であったればこそ、蠣崎・松前氏が松前地を日本ではないと断言しえたのだといえよう。松前氏は近世を通して蔑みの感覚で「エゾ大王」視されることがあったが、近世初頭においては自ら「狭の島主」であることを誇りとし、秀吉や家康に対してもその点をアピールし、またその扱いを受けてもいた。もしも蠣崎氏が統一権力への服属を迫られなかったならば、かなり別な方向、蝦夷国家への道を歩んでいたことも想像できないわけではない。(P73,P74)
松浦武四郎の見たもの
 文政四(一八二一)年の松前藩復領、また安政二(一八五五)年の全蝦夷地の収公と、変転していく幕末期の蝦夷地は、それ以前に増して場所請負制がアイヌ社会に猛威をふるった時代であった。アイヌ人口が、文政五(一八二二)年二万三五六三人、安政元(一八五四)年一万七八一〇人(前掲『アイヌの歴史』)、あるいは文政五年二万三七二〇人余、安政元年一万八八〇五人(海保嶺夫『近世の北海道』)と、二〇~二五%もの人口がわずかの期間に減っていることでも、それは明らかだろう。
 こうした幕末期のアイヌ社会の破壊的状況は松浦武四郎の精魂傾けた蝦夷地踏査記録に克明に記されている。武四郎は何度となく蝦夷地を歩き回りアイヌの生活にじかに接し、場所請負制のひどい実態を暴き出したが、なかでも石狩場所はアイヌ一人ひとりの消息を徹底して調べあげた所である。いうまでもなく、石狩場所は石狩川本支流域に展開した広大かつ資源豊富な場所で、かつては一三もの場所が存在していたが、文政期以来阿部屋伝次郎(村山伝兵衛)の一手請負となっていた。石狩場所のアイヌ人口は、武四郎によると、文化七(一八一〇)年三八〇〇人余、文政四(一八二一)年一一五八人、安政三(一八五六)年六七〇人を数えている。ただし、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』には文化四年二二八五人とあり、文化七年のデータと食い違うが、一八世紀前期のうちに少なくとも三分の一以下に人口が激減し、数ある場所のなかでも最も破壊の進んだ場所ということができよう。武四郎はしかも安政三年のデータが実態を反映していない作為的な数値であることを見抜き、これを「不人別帳」と批判していた。
 その数字には、死亡・逃亡した者など実在しない約一四〇人余もの人々が含まれていたうえ、一三場所に配当された人口数は、すでに居住者がいないにもかかわらず住んでいるかのように糊塗するための操作としかいえないものであった。しかも元来のコタンに現住する者は、最上流の上川筋を除けば、老人・子供・病人・身障者といった弱者がほとんどであり、生活力あふれた元来のコタンはほとんど壊滅状態であった。働ける者たちは、「浜下げ」といって運上屋に根こそぎ駆りだされ、「雇蝦夷小屋」に収容されるか、運上屋の周辺に居住した。武四郎は約二六〇人余について「浜下げ」の事実を確認しているが、運上屋に集められた人々が苛酷な労働や庖瘡の流行によって次々死亡し、急激な人口減を招いた。庖瘡は雇小屋に集住させられていただけにいっそう猛威を振るった。そして、働けなくなった者は容赦なく放り出され、山野の恵みで自活する他なかったのである。
 番人たちによるアイヌ女性に対する強姦や妻妾化も凄まじいものがあった。武四郎が石狩場所で挙げているだけでも、番人妻妾が三二例にも達していた。夫婦である者を無理やり引き裂き妾にするなど、前述したクナシリ・メナシの蜂起の原因となった番人たちの横暴は、その後抑えられたどころか常態化していった様を知ることができる。
 浜下げによるコタンの破壊、人口減少は石狩場所に限られたことではなかった。栖原屋が請け負った最北の北蝦夷地(樺太)でも、田島佳也が明らかにしたように、鰊漁にアイヌが漁夫として強制的に駆り集められ、番人に叱咤されながら働いていた。日々の食さえ満足に与えられず、一家は離散し、アイヌコタンは廃村と化した。鰊漁後は鰊だけを食わせるとか、アイヌを三、四人くらい殺してもかまわないといった番人の恣意・暴言が罷り通っていた。藤野喜兵衛(柏屋)の請負場所では、モンベツ場所のアイヌをソウヤへ、アバシリ・シャリ場所のアイヌをクナシリへと強制的に他場所へ移して働かせることもしていた。いずれにせよ、場所請負人たちはこうしたアイヌ民族の犠牲のうえに巨万の富を築いていたことになる。
 武四郎はこうしたアイヌの窮状打開を、箱館開港に伴い蝦夷地を直轄した幕府の開明的な政策に期待するところが大であった。じっさい、幕府は安政五(一八五八)年石狩場所の改革に取り組み、「土人撫育」を怠ったとして阿部屋の私利私欲ぶりを糾弾し、その請負を止めさせ、幕府の直捌場所としている。しかし、幕府のアイヌ政策は風俗改めなど同化政策に走り、従来の「下され物」支給以上に、肝心の生活基盤の安定を図る方策が何らとられることはなく、武四郎の期待をことごとく裏切ることになっていく。明治維新によって、武四郎は開拓判官として官に仕え、北海道の命名者ともなったが、これまた失意のうちに野に下る。寛政一一年の蝦夷地直轄以来、幕藩制国家、さらに明治新政府はアイヌの「介抱」や「撫育」をスローガンに蝦夷地に介入してきたが、それがいかにアイヌ民族の期待や願いから乖離したものであったかを知らねばならない。(P144~P146)

本の紹介-列島史の南と北2014年04月02日


『列島史の南と北』菊池勇夫・真栄平房昭/編 吉川弘文館(2006/11)

10人の執筆者が、中世における「沖縄」「沖縄と北海道の交易」「北海道」の3つのテーマで執筆。10の章は、特に関連性はないので、興味のあるところだけを読むこともできる。

各章のタイトルは以下の通り
・近世日本の境界領域―琉球の視点を中心として
・中国に対する琉日関係の隠蔽政策と「道之島」
・近世琉球における綿子の生産―久米島への供給体制を中心に
・近世琉球と「日本の国境」―唐人証文の分析
・大坂市場と琉球・松前物
・天保期における抜荷問題と新潟・蝦夷地
・十八~十九世紀の北太平洋世界における樺太先住民交易とアイヌ
・アイヌの霊送り儀礼と場所請負制
・海峡を越える地域間交流
・「蝦夷征伐」と地域史認識―津軽地方の田村麻呂伝説を中心に

理研2014年04月03日

 
 小保方さん問題で、理研は改竄を認定していたようだけど、今後どうなるのやら。
 そういうこととか関係なしに、今、桜が満開です。写真は、理研和光の桜。

牽強付会2014年04月07日

日曜日の朝日新聞の社説では、 「牽強付会」の言葉を使って、集団的自衛権に関連した砂川判決の政府解釈を批判している。
 「牽強付会」って、「我田引水」と同じような意味だ。
 
 来年4月から使われる小学校教科書では、竹島・尖閣の記述が大幅に増えたそうだ。領有権争いがある領土の解釈では、お互いに「牽強付会」が行われるのは、珍しいことではない。

宮古島人の大航海2014年04月10日

 1972年、京都大学の井上清氏により、尖閣は中国の領土であるとの主張が為された。井上氏は、中世において、尖閣は中国・琉球間の航路上の島であり、航海の標識島として、中国の船員により利用されていたと主張した。これに対して、国士舘大学の奥原敏雄氏は、琉球も航海していたと反論した。たとえば、「明代および清代における尖閣列島の法的地位(季刊 沖縄 63)」には、次のように書かれ、琉球が中国と冊封関係になる以前から、琉球人が大航海していたとしている。  
 
 『元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。 』
 
 当時、琉球にはサバニと呼ばれる、小型船舶しかなかったはずで、こんなもので、数千区キロも離れたシンガポールまで航海できると考えるのは、いくらなんでも、強引な曲解ではないかと思う。
 藤田豊八がどのような理由で、シンガポールに航海していたと考えたのか。幸い、国立国会図書館で、藤田の本が公開されている。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917926) このP407以下が、関連論文だ。温州に漂着した人が、自分たちを密牙古人で、撒里即地面に行こうとしていたと言ったことが記されており、藤田豊八は、「密牙古」を宮古島とし、『撒里即は殆どsalatの対音、馬来語海峡の義、新嘉埠海峡を言うなり』と、「撒里即地面」をシンガポールであるとしている。しかし、マレーシア語辞典を調べると、「海峡」はselatであって、salatではない。このため、撒里即が殆どsalatの対音であるならば、決して、海峡を意味するselatの対音ではないはずだ。もっとも、撒里即は中国語ではsalijiのように発音され、salatとそれ程、似ているわけでもないので、salatでもselatでも、どちらでも同じことかもしれない。
 いずれにしても、それほど似ているわけでもない単語を、強引に結び付けて、シンガポールに行っていたかのような論を展開したに過ぎないように感じる。もし、100歩譲って、撒里即がシンガポールの意味であったとしても、漂着した人がそのように言っていたと聞いたのであって、シンガポールに行っていた事実を確認したと記載されているわけではない。
 
 宮古島市史である「みやこの歴史」には不思議な記述がある。P55に、温州府志の該当文章を掲載しているが、「撒里即地面」ではなく「撤里即地面」となっているようだ。
 この本を持っていないので、詳しいことが分からなかったので、宮古島市役所教育委員会生涯学習振興課に、「撒里」か「撤里」かを問い合わせたところ、「撤里」となっているとのことだ。元代、雲南省昆明の奥地に、徹里軍民総管府が置かれていたが、こんなところに、宮古人が船で行くはずはない。単に、誤植なのか尋ねたが、担当が違うとのことで、よくわからなかった。担当の電話番号も聞いたのだけれど、留守のようだった。
 
なお、「温州府志」が早稲田大学図書館で公開されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01571/index.html
しかし、早稲田大学のは「乾隆温州府志」あるいは「同治温州府志」であって、藤田豊八等が参照しているのは「万暦温州府志」。

本の紹介-アジアの中の琉球王国2014年04月13日


アジアの中の琉球王国 高良倉吉/著 吉川弘文館 (1998/09)

 14世紀末に、琉球は中国と冊封関係を結び、形式的な属国になった。琉球は中国に朝貢することになるが、そのための船は、中国から支給され、船員も中国人が担った。このときの中国人は、那覇市久米に住み着いたため、久米36姓という。
 中国から支給された船や、中国人船員により、東南アジアとの貿易も活発に行われることになった。琉球では、東南アジアと貿易して得た商品を、中国に送る、あるいはその逆の、中継貿易により栄えることになる。東南アジア貿易では、現地華人社会と、那覇市久米の華人との人的な繋がりが利用された。

 本書はこの時代の琉球と東南アジア貿易の実態について、かなり詳しく書かれている。

 冊封以前にも、琉球人は、サバニと呼ばれる小船で、数千キロの航海をして、東南アジア貿易をしていたなどと、非常識な説明をする人もいるが、本書では、このような主張を否定している。

 沖縄各地で、むかしはこの海岸から貿易船が中国に渡り、富を満載して帰ってきた、この浜はかつて中国貿易の基地として繁栄した時代があった、などという信じるに足りない「作り話」がささやかれている。市町村のなかにはその「歴史」を地域活性化のテーマに結び付けるところもある。冬場の強い北風や夏場の台風から船を守る条件をそれらの海岸、浜は備えているのか、といった冷徹な視点に立つと、その話の欺瞞性は明らかである。港の問題は後で那覇港を例にとって考えるので、ここではその程度の指摘にとどめておきたい。
 船の問題にこだわったのは、東アジアから東南アジアにおよんだ琉球の海外貿易活動において、優秀な船舶を持つことは事業の成否を左右する決定的な条件だったことを確認したかったからである。
 貿易船の建造、修理、操縦もまた、中国、とくに福建省の技術、技能に大きく依存したものだった。(P90,91)

 冒険航海で一度はチャレンジする意味はあるかもしれないが、安全かつ安定した事業をめざす経営者がもしこの船(サバニ)を利用した場合、それは自殺行為でしかない。
 冷静に考察すればすぐにわかる話なのだが、どうしたわけか沖縄の歴史書には英雄美談のかたちで右の物語が書かれることが多い。知識人のなかにも筏船で東南アジア貿易を行った話を真実だと思い込んでいる人たちもいる。(P92)

本の紹介-元外務省主任分析官・佐田勇の告白2014年04月14日


『元外務省主任分析官・佐田勇の告白: 小説・北方領土交渉』 佐藤優/著 徳間書店 (2014/1)

 本の内容は、フィクションということになるのだろうけれど、登場人物の名前も実名が容易に推定できるようになっているし、人間関係を含めて、基本的には、事実をそのまま書いているように感じられる。事実を書くために、あえて、フィクションという形をとったとも思える。
 当然のことであるが、内容は、著者の立場から見た事実であって、その意味では、一面的ではあるが、日ロ交渉を中心とした、日本外交の雰囲気が分かる。

本-われわれ日本人が尖閣を守る2014年04月15日


『われわれ日本人が尖閣を守る』 加藤英明/監修 高木書房(2014.1)

 特に読むことを、勧めない。

 本のページ数は100ページ弱で、写真も多いため文章が少なく、詳しい説明は期待できない。
 本は3部構成。第1部・第3部は、合わせて20人程度の人が、それぞれ2ページ程度執筆しているが、ページ数が少ないのに写真や箇条書きがあって、内容が乏しい。読書が苦手な人が、マンガ本を読むつもりで、ざっと理解した気になるためには便利な本かもしれない。ただし、内容は、尖閣問題を冷静に解説するものではなく、「日本の領土を中国が奪いに来てるぞ」「日本政府が弱腰だからこんなことになるのだぞ」と一方的に言っているような内容で、読んでも、実りは少ないかもしれない。

 第2部は尖閣灯台の話で、一人の執筆。
 尖閣には、広域暴力団・住吉会系の右翼団体が、日中平和条約締結の時(1978年8月)、尖閣諸島魚釣島に灯台を建設した。
 30ページ程度に渡り、尖閣灯台建設・保守・国家への移転の経緯が書かれている。写真が多いので見やすいけれど、その代わり、ページ数の割には情報量が少ない。
 尖閣灯台は、最初、魚釣島に建てられ、その後、北小島にも建てられたが、北小島灯台は比較的早い時期に失われた。北小島の灯台再建は、海保の命令で禁止された。この点に対して、次のように書かれている。
  北小島に灯台を再建したいとして、日本青年社は、灯台の機材を石垣島に送るとともに、平成九年十一月二日隊員五名を石垣島に派遣した。ところが、翌三日、海上保安本部の巡視船が機材を運ぶ船の左右に横付けしてきて「荷物の積み込みを禁止する。この船は法に従って拘束する」と通告してきたのである。その理由を問い質すと「日本政府全体の考えで船を拘束する」「北小島に灯台を建てることは他人の不動産侵害の疑いもある」ということであった。
・・・
 地権者には当初から了解を求め同意を得ていたが、内閣情報調査室から「日本青年社との話し合いに応じないで欲しい」と言われていたことが後でわかった。(P56)

 「地権者」とは、当時、尖閣を所有していた埼玉県の地主、栗原氏のことに違いない。「同意を得ていた」とあるので、栗原氏は、暴力団系右翼団体が灯台を建設することに同意していたということだろう。栗原氏は広域暴力団と、どのような関係があるのだろう。

 また、次の記述もあるが、栗原氏は、灯台の他にも、墓や神社を建てることも、許可したのだろうか。広域暴力団と、栗原家には、深い関係があるのだろうか。
 尖閣諸島に灯台を建て、保守点検をする中で、二人の隊員が亡くなっている。そして尖閣諸島魚釣島に墓がある。隊員は上陸すると必ずお参りをする。また古賀一族が残したであろう水子地蔵もあり、ここにも必ずお参りをする。そうした中、町や村の中心に神社があるように、尖閣にも神社をと、平成十二(二〇〇〇)年四月二十日、尖閣諸島魚釣島に隊員五名が上陸し、灯台の保守点検と合わせて尖閣神社を建立した。(P57)

ヒキノカサ2014年04月16日

 
 さいたま市さくらそう公園では、サクラソウが見ごろです。
 ヒキノカサが咲いています。でも、ウマノアシガタとの違いが分からない。キンポウゲ科の花は、見分け方が難しいのが多い。

サクラソウ2014年04月17日

 
今年もサクラソウを見ました。

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