宮古島人の大航海 ― 2014年04月10日
1972年、京都大学の井上清氏により、尖閣は中国の領土であるとの主張が為された。井上氏は、中世において、尖閣は中国・琉球間の航路上の島であり、航海の標識島として、中国の船員により利用されていたと主張した。これに対して、国士舘大学の奥原敏雄氏は、琉球も航海していたと反論した。たとえば、「明代および清代における尖閣列島の法的地位(季刊 沖縄 63)」には、次のように書かれ、琉球が中国と冊封関係になる以前から、琉球人が大航海していたとしている。
『元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。 』
当時、琉球にはサバニと呼ばれる、小型船舶しかなかったはずで、こんなもので、数千区キロも離れたシンガポールまで航海できると考えるのは、いくらなんでも、強引な曲解ではないかと思う。
藤田豊八がどのような理由で、シンガポールに航海していたと考えたのか。幸い、国立国会図書館で、藤田の本が公開されている。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917926) このP407以下が、関連論文だ。温州に漂着した人が、自分たちを密牙古人で、撒里即地面に行こうとしていたと言ったことが記されており、藤田豊八は、「密牙古」を宮古島とし、『撒里即は殆どsalatの対音、馬来語海峡の義、新嘉埠海峡を言うなり』と、「撒里即地面」をシンガポールであるとしている。しかし、マレーシア語辞典を調べると、「海峡」はselatであって、salatではない。このため、撒里即が殆どsalatの対音であるならば、決して、海峡を意味するselatの対音ではないはずだ。もっとも、撒里即は中国語ではsalijiのように発音され、salatとそれ程、似ているわけでもないので、salatでもselatでも、どちらでも同じことかもしれない。
いずれにしても、それほど似ているわけでもない単語を、強引に結び付けて、シンガポールに行っていたかのような論を展開したに過ぎないように感じる。もし、100歩譲って、撒里即がシンガポールの意味であったとしても、漂着した人がそのように言っていたと聞いたのであって、シンガポールに行っていた事実を確認したと記載されているわけではない。
宮古島市史である「みやこの歴史」には不思議な記述がある。P55に、温州府志の該当文章を掲載しているが、「撒里即地面」ではなく「撤里即地面」となっているようだ。
この本を持っていないので、詳しいことが分からなかったので、宮古島市役所教育委員会生涯学習振興課に、「撒里」か「撤里」かを問い合わせたところ、「撤里」となっているとのことだ。元代、雲南省昆明の奥地に、徹里軍民総管府が置かれていたが、こんなところに、宮古人が船で行くはずはない。単に、誤植なのか尋ねたが、担当が違うとのことで、よくわからなかった。担当の電話番号も聞いたのだけれど、留守のようだった。
なお、「温州府志」が早稲田大学図書館で公開されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01571/index.html
しかし、早稲田大学のは「乾隆温州府志」あるいは「同治温州府志」であって、藤田豊八等が参照しているのは「万暦温州府志」。
『元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。 』
当時、琉球にはサバニと呼ばれる、小型船舶しかなかったはずで、こんなもので、数千区キロも離れたシンガポールまで航海できると考えるのは、いくらなんでも、強引な曲解ではないかと思う。
藤田豊八がどのような理由で、シンガポールに航海していたと考えたのか。幸い、国立国会図書館で、藤田の本が公開されている。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917926) このP407以下が、関連論文だ。温州に漂着した人が、自分たちを密牙古人で、撒里即地面に行こうとしていたと言ったことが記されており、藤田豊八は、「密牙古」を宮古島とし、『撒里即は殆どsalatの対音、馬来語海峡の義、新嘉埠海峡を言うなり』と、「撒里即地面」をシンガポールであるとしている。しかし、マレーシア語辞典を調べると、「海峡」はselatであって、salatではない。このため、撒里即が殆どsalatの対音であるならば、決して、海峡を意味するselatの対音ではないはずだ。もっとも、撒里即は中国語ではsalijiのように発音され、salatとそれ程、似ているわけでもないので、salatでもselatでも、どちらでも同じことかもしれない。
いずれにしても、それほど似ているわけでもない単語を、強引に結び付けて、シンガポールに行っていたかのような論を展開したに過ぎないように感じる。もし、100歩譲って、撒里即がシンガポールの意味であったとしても、漂着した人がそのように言っていたと聞いたのであって、シンガポールに行っていた事実を確認したと記載されているわけではない。
宮古島市史である「みやこの歴史」には不思議な記述がある。P55に、温州府志の該当文章を掲載しているが、「撒里即地面」ではなく「撤里即地面」となっているようだ。
この本を持っていないので、詳しいことが分からなかったので、宮古島市役所教育委員会生涯学習振興課に、「撒里」か「撤里」かを問い合わせたところ、「撤里」となっているとのことだ。元代、雲南省昆明の奥地に、徹里軍民総管府が置かれていたが、こんなところに、宮古人が船で行くはずはない。単に、誤植なのか尋ねたが、担当が違うとのことで、よくわからなかった。担当の電話番号も聞いたのだけれど、留守のようだった。
なお、「温州府志」が早稲田大学図書館で公開されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01571/index.html
しかし、早稲田大学のは「乾隆温州府志」あるいは「同治温州府志」であって、藤田豊八等が参照しているのは「万暦温州府志」。