本の紹介-千島概史2014年06月24日


高倉新一郎/著 『千島概史』(昭和35年)南方同法援護会

   古い本なので、読む機会はほとんどないと思う。
 内容は、「千島へのロシアの進出」、「日本の進出」、「日露の出会いと衝突」、「日露和親条約による国境画定」、「樺太千島交換条約」、「戦前の北千島経営」、「太平洋戦争期の千島」、「ソ連の千島占領」と時代を追って、千島の歴史を説明している。ただし、ページ数は170ページで、字が大きいので、あまり詳しくはない。このため、千島の歴史を、ざっと理解しようとする人には好適かもしれない。

 場所請負とアイヌの人口について以下の記述がある。
 国後場所は、文化十(一八一二)年二千三百五十五両で松前の米屋藤兵衛なる者が請負うことになったが、競争入札のため高価に失したか経営が続かず、毎年請負が変り、しかも収支償はず、文政三(一八二〇)年千両に落したが、それでも天保八(一八三七)年から十三年(四二)年まで不漁が続き、請負人の損失金合計四万円に及んだといい、嘉永六(一八五三)年には更に五百両に落さざるを得なくなった。
 蝦夷の人口も文政五(一八二二)年の三百四十七人から九十九人に減少し、同じ柏屋嘉兵衛が請負っていた根室場所及び斜里場所から年年多くの蝦夷を出稼させねばならなかった。
 択捉島も、最初高田屋嘉兵衛に請負はせた時は年二千両の約束であったが、年々凶漁が続き、文政元(一八一八)年には千両に落さざるを得なかった。殊に高田屋が天保二(一八三一)年に没落した後は経営がうまく行かず、有力者に半強制的に請負はせて漸く維持し、天保十三(一八四二)年から伊達林右衛門と栖原仲蔵が請負うことになった。
 蝦夷の人口は開島当時百九十軒、人別千百十八人あったものが、安政三(一八五六)年には八十九軒四百九十八人に減少していた。
(P103,P104)

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