樺太アイヌ強制移住(江別市対雁)2014年10月04日

  
 樺太千島交換条約により樺太がロシア領になると、樺太アイヌはロシア国籍をとるか、日本国籍をとって日本に移住するかの選択を迫られた。日本政府は、樺太に近い宗谷に移住させることを約束し、これに応じたアイヌ841名が、日本国籍を取得した。しかし、日本政府は、彼等を労働力に使うことを考え、札幌近郊の対雁へ移住させた。対雁の生活は劣悪で、コレラや天然痘で大量の死者を出した。
 日露戦争に勝利した結果、南樺太が日本の領土になると、彼等の多くは、樺太に帰った。
  
 北海道江別市対雁14番1の江別市営・やすらぎ苑の一角に、樺太アイヌを慰霊する墓が立てられている。分かりやすい場所に有るが、場所を示す表示など、何もない。やすらぎ苑の入口に、墓地区画を示す案内看板があったので、そこに、樺太アイヌの墓の位置を書き入れた。甲区の一番奥に当たる。
  
 樺太移住旧土人先祖之墓。左側の石塔の裏面には由来が刻まれている。 
 
     
 さらに左側には、アイヌの慰霊具「イナウ」。
  
 樺太アイヌが移住していたのは、霊園の隣の北海道電力の敷地内だったとか。本当は、ここに、樺太アイヌの骨が埋められているのだが、そのまま電力用地にしているとのうわさもある。
  
  
 霊園の少し西には、榎本武揚を顕彰する目的で作られた、榎本公園がある。この入口の看板にも、樺太アイヌに触れられている。
 この公園は、国道337号に面しておらず、わかりにくい。ホクトヤンマー本社の西側に当たる。


樺太アイヌ供養・顕彰塔(松前)2014年10月05日

 
 松前町字松城303 浄土宗高徳山光善寺には、樺太アイヌ供養・顕彰塔が建てられているそうだが、寺には、どこにも表示がなくて、見つけられなかった。写真は光善寺の山門。
 
 幕末、サハリン南部には、日本の漁業基地が置かれ、アイヌと日本人が生活していたが、アイヌは日本人の経済的支配下におかれていた。1853年ネヴェリスコイ海軍大佐はサハリンにおける日本の漁業拠点であるクシュンコタンに60人の部下とともに上陸し、アイヌの協力もあって、日本と戦火を交えること無しに、ムラヴィヨフ哨所を築いた。このときの様子は、以下の本に詳しい。  
 N.V.ブッセ/著、秋月俊幸/訳 『サハリン島占領日記1853-54 ロシア人の見た日本人とアイヌ』東洋文庫(2003/4)
 
 光善寺の塔は、この事件のときに、日本人に協力した樺太アイヌを供養・顕彰するもののようだ。現物を見つけられなかったので、違っているかもしれない。

北海道松前町2014年10月06日

  
先日、北海道松前町を旅行した。松前城を見学する人は多いけれど、城の裏にあるシャクシャイン耳塚を見学する人は少ない。
  
シャクシャイン耳塚:
 松前城の裏側(松前神社向かいの広場の奥)に、シャクシャイン耳塚が築かれている。
 説明の立て札には、「松前藩は・・・シャクシャインたちをだまし討ちにして戦いは終わりました」と、松前藩が卑怯な策を使ったことが明記されている。松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出、和睦の酒宴で謀殺した。
  
  
ゴローニン事件:
 1811年、国後島沖に停泊して交渉を求めたGolovninを、日本は背徳的裏切りで捕らえた。このため、ロシアでは、国後島最南の湾を「Залив ИЗМЕНЫ(裏切り湾)」という。翌年、ゴローニンの部下、リコルドが、日本人漂流民との身柄交換を求めるが、日本はゴローニンを処刑したと嘘をついて、交渉を拒絶した。
 捕らえられたゴローニンは、松前藩に連行された。松前町郷土資料館の手前に、徳山大神宮があるが、ここに、「ロシア人 ゴローニン外 幽閉地」の碑が建てられている。実際の幽閉地は、ここから200mほど沢を入った所だった。碑文の横にある看板には、日本が嘘をついて捕らえたことは記されていない。


函館市北方民族資料館2014年10月08日

 
函館市北方民族資料館では、11月3日まで、以下の展示会が開催されている。
「ドクトル馬場 千島をゆく -馬場脩が観た北方考古学・民族学の世界-」
馬場脩は昭和初期に、千島最北端の占守島の考古学調査をした。
 
写真は、占守島で見つけた十字架。

占守島の寛永通宝2014年10月09日

 
 函館市北方民族資料館の展示 「ドクトル馬場 千島をゆく」 では、占守島・幌筵島で採取した寛永通宝4枚が展示されている。写真は、そのうちの3枚。
 千島アイヌと道東のアイヌはウルップ島で交易していたので、このような交易の中で、寛永通宝が占守島まで渡ったのだろうか。写真の一番右のものは、穴が丸みを帯びているが、紐を通して首飾りにでも使ったのかな。

アイヌ遺跡の出土渡来銭2014年10月10日

 
 「根室市歴史と自然の資料館」を、7年ぶりぐらいに見学した。前回見学のときは、資料が、雑然と置かれている感じだったが、今は、だいぶ整理されていて、見やすい。しかし、展示品の数が減ったような気がする。
 
 写真は、コタンケシ遺跡出土の渡来銭。「開元通宝」「皇宋通宝」「洪武通宝」で、それぞれ、唐・宋・明の代表的な銭貨。中国の貨幣があったからと言って、中国人がこの地を支配していたという訳ではない。交易の中で、この地に渡来したのだろう。日本経由の渡来か、北方経由の渡来か、それは分からない。もっとも、これらの銭貨には、日本で私鋳された、いわゆる鐚銭があるので、写真の物も、そうかもしれない。

根室2014年10月11日

  
トーチカ:
 花咲港から納沙布岬に行く途中に、旧日本軍のトーチかがあった。 
 
  
  
ノッカマップチャシ:
 数年前に訪れたとき、道が草に覆われて、ノッカマップチャシには行けなかったが、今は、雑草が駆り払われて、歩いて行ける。
 ここには、1号・2号の2つのチャシがある。
  
  
北方領土返還運動:
 納沙布岬手前に立つ「北方領土返還運動原点之地」碑。立派な碑です。  
  
 納沙布岬に、右翼が立てた碑。日の丸が半旗になっていた。  
 
  
 返還運動の看板は、色あせて、さびが出ている。やる気なさそう。
  


根室 (2)2014年10月12日

貝殻島:
 北方領土のうちで、日本に一番近いのは「貝殻島」だと、日本政府はいうけれど、実際は海の中。潮の関
係で時々陸地が顔を出すそうだが、今回も、陸地は見えなかった。
 夜、暗くなってから見たら、灯台は点灯されていました。漁船よりもずっと暗いけれど、納沙布岬から十
分に見えます。
  
鈴木食堂(日本最東端の食堂):
 日本で一番東にある食堂は、納沙布岬の鈴木食堂。ここの名物は、サンマ丼。生のサンマが、癖がなくて
うまい。
  
東根室駅(日本最東端の駅):
 めったに電車は来ないけれど、車で来て写真を撮る観光客は多い。
  
珸瑤瑁郵便局(日本最東端の郵便局):
 日本最東端の郵便局は珸瑤瑁郵便局だと思っていってみたら、更地になっていた。
 替わりに、移動郵便局の車があった。
  
  
 日本最東端の学校だった珸瑤瑁小学校も今では閉校。根室は、寂れるばかりだ。それに対して、北方領土
では、クリル開発プロジェクトが進行し、発展中。


網走(オホーツク文化)2014年10月18日

  
モヨロ貝塚の展示施設が新装オープンしていた。
  
  
隣のモヨロ貝塚は、オホーツク文化の遺跡。オホーツク文化は、アイヌ文化以前に、オホーツク沿岸地域に存在した、北方文化で、アムール川流域地帯との関が深い。
  
    
オホーツク文化の人たちには、製鉄術がなかったので、鉄器は交易により入手していた。北方渡来と日本渡来の両方があるようだ。
    
  
網走市立郷土博物館にも、オホーツク文化の発掘品が数多く展示されている。
  
  
網走市立郷土博物館のオホーツク文化遺産の多くは、モヨロ貝塚の発掘品。下の写真は骨で作った「クマ」。
  
  
土器。
  
網走市立郷土博物館のすぐそばに「桂ヶ岡チャシ」がある。チャシはアイヌ文化のものだろう。
  


網走(少数民族慰霊碑)2014年10月19日

 太平洋戦争末期、日本軍は、対ソ戦に備えるために、サハリン在住の少数民族を徴兵して、スパイ活動に当たらせた。戦後、シベリア抑留となり、そこで命を落としたものや、日本に帰国したものも多い。しかし、日本政府は、正式な軍命令による徴兵でないとの理屈で、彼等に対して、保障をしなかった。
 シベリア抑留から引揚た北川ゲンダーヌは、網走に住んでいたので、少数民族ウィルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑が建立されている。場所は、網走市大曲39-17「オーベルジュ・北の暖炉」入口の向かいあたりで、民宿・眺湖台の手前。
 
 
  
  
  
  
 能取湖は、最大のサンゴソウ群落として名高い。平成22年度に色付きの不良を改善するため行なった園地整備により、群生地が大幅に縮小した。土を入れて、かさ上げしたらしいが、これが、乾燥化を招いて、サンゴソウの枯死に繋がったようだ。最近は、入れた土を取り除くなどの効果があって、群落も徐々に拡大しているような。

  


* * * * * *

<< 2014/10 >>
01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

RSS