タチフウロ2015年09月01日

 
タチフウロはハクサンフウロよりも色が薄い。霧ヶ峰・八島湿原で撮影したもの。

コオニユリ2015年09月02日

  
 霧ヶ峰・八島湿原で。オニユリとそっくり。クルマユリとは、花はそっくりだけど、葉の付き方がちょっと違う。

フシグロセンノウ2015年09月03日

 
 オレンジ色の花は少ないので、一見すると外来種の雰囲気だけど、レッキとした日本固有種。霧ヶ峰・八島湿原で。

祝:抗日戦争勝利70周年2015年09月03日

 
2015年9月2日あるいは3日は抗日戦争(大祖国戦争対日戦線)勝利70周年記念日。
写真はソ連で授与された記章。

エゾカワラナデシコ2015年09月04日

 
花も終わりに近づいているようです。美ヶ原で。フシグロセンノウもナデシコ科。

ウメバチソウ2015年09月05日

 
 美ヶ原で撮影しました。この花、いろいろなところで見かける。

トリカブト2015年09月06日

  
 独特の花の形なので、花を見たら間違えることはないのだけれど、葉の形はニリンソウに似ているので、誤って食べる人がいるとか。美ヶ原で。

本の紹介-新版北海道の歴史 上2015年09月07日

 
長沼孝、榎森進、田端宏、他/著『新版北海道の歴史 上』北海道新聞社(2011/12)
 
 北海道の歴史は本州の歴史と大きく異なった独自のものがある。本書は北海道の通史であるが、同種の他書に比べて分量も多く詳しい。本書の扱う範囲は縄文時代から幕末の箱館開港までの時期で、時代順に書かれている。巻末の年表も詳しい。
 このうち、第一章は考古学から見た北海道で、縄文時代から続縄文・擦文・アイヌ文化期の北海道の歴史が示される。この部分は全体の1/4におよび、内容豊富。ただし、オホーツク文化の記述は多くないので、オホーツク文化について他の本を読んだほうがよいかもしれない。
 第2章は鎌倉期以降松前藩以前の期間で、サハリンでの元・明との関係にも触れられている。この章はコシャマインの乱と安藤・蠣崎氏の説明も詳しい。第3章は松前藩成立からクナシリ・メナシの乱までのアイヌと和人の歴史。この時期、和人によるアイヌ支配が確立してゆく。
 第4章は対外関係で、特にロシアの南下に対する幕府の対応の説明。第6章は箱館開港から明治までで、対外的には国境画定・外国との交易がなされ、国内的には蝦夷地の近代化がなされた。
 第5章は他の章とはちょっと変わって、アイヌの文化と和人の文化について。
 
 
興味を持った記述2点を書きとめておく。
蠣崎氏が姦計を用いて、アイヌを平定して行った状況について、以下の記述がある。
 
 一五一五(永正十二)年、アイヌ民族の首長層のショヤコウジ兄弟に率いられたアイヌ民族が蠣崎光広の拠る松前の大館を攻撃した。このアイヌ民族の攻撃を受けた光広は、「計略を以て」ショヤコウジ兄弟とその配下のアイヌを「客殿」に招き入れ、彼らの前に「宝物」を並べて酒をふるまい、あたかも彼らと「和睦」するような儀式を行いつつも、この間、家臣たちを「客殿」の陰に隠れて待機させ、「客殿」に招かれたショヤコウジ兄弟をはじめ、その部下たちが酒に酔い伏すや、家臣たちをにわかに「客殿」に乱入させ、光広がショヤコウジ兄弟を斬殺した(『新羅之記録』)。なお、アイヌ民族は、他集団との紛争が起きた際、その紛争の解決方法として、非があったとされた集団が相手の集団に対し、「償い」として「宝物」(アイヌ語でイコロという。多くは日本社会との交易で入手した刀剣類)を差し出すのを常としたが、『新羅之記録』ま、光広がアイヌ民族と戦うことを避け、「計略を以て」ショヤコウジ兄弟をいち早く、「客殿」に招き、光広側から「宝物」を差し出した旨を記しているので、形式的には光広側が率先してその非を認め、「和睦」するふりをしたことが窺える。
 次いでノ五二九(享禄二)年、アイヌ民族の首長タナサカシに率いられたアイヌ民族が上ノ国の勝山館を攻撃した。このアイヌ民族の攻撃に対して、蠣崎義広は、「陰謀」をもって「和睦」し、彼らに「償い物」を与えたが、この時も、タナサカシが「償い物」を受け取ろうとした際に、義広はタナサカシを射殺した。
 さらに、一五三六(天文五)年、今度は、タナサカシの婿である西部のアイヌ民族の首長タリコナが反蠣崎氏の戦いに立ち上がった。しかし、蠣崎義広は、このアイヌ民族の攻撃に対して真っ正面から戦うことなく、いち早く偽って「和睦」し、酒宴の場を設けて、タリコナたちが酒に酔ったところをみはからって、義広自らがタリコナを太刀で斬り殺したのである(『新羅之記録』)。
 このように、蠣崎氏が松前の大館に移転した後、アイヌ民族の攻撃の対象は蠣崎氏それ自体に向けられるようになったが、こうしたアイヌ民族の攻撃に対する蠣崎氏の対応策で特徴的なことは、右のようなだまし討ち作戦に出たことである。蠣崎氏が、アイヌ民族の攻撃に対して、このようなだまし討ち作戦で臨んだのは、当時の蠣崎氏は、下国安藤氏から夷島の「代官」という政治的地位を認知されていたものの、蠣崎政権の政治的軍事的基盤は未だ弱かったこと、そのため、もしアイヌ民族と全面的に戦ったならば、当時の蠣崎政権の軍事力とアイヌ民族側の勢力を比較すれば、アイヌ民族側の勢力の方が遥かに優勢であったことから、蠣崎政権が敗北することは明らかであったために、アイヌ民族と全面的に戦うことを極力避け、そのうえでアイヌ民族側の主勢力を繊滅させることによって、一時的とはいえ、アイヌ民族の攻撃から難を逃れるための有効な方法であったことによるものと推察される。(p222,223)
 
ロシアの進出と湊覚之進の報告について、以下の記述がある。
 
 子年(一七五六11宝暦六年)、牧田伴内という藩士がアッケシに来ていた時に、同所の沖の島に「唐人船」=外国船が一艘、碇舶していた。百人ほども乗り込んでいるように見えた。「アッケシ蝦夷」が様子を見てきたところでは「商人船」の様子であったという。「蝦夷の婦人三人」を「理不尽」に連れ去っていった。三日ほど滞留して「出船」していった。「出船」の時に大砲を放っていったが、昼過ぎには見えなくなった。牧田伴内は、このことを「深くかくし」ていたので、アッケシに来てはじめて聞いたことであった。この報告では、外国の商船らしい船として触れているが、この年代に、この海域を航行する外国船は、ロシア船と考えて間違いないと思われている。
 湊覚之進の報告には、さらに次のようなことが触れられていて、ロシアが北千島にかなりの拠点を構築していた様子を伝えている。
 湊覚之進がアッケシに滞在中、エトロフ乙名のカツコロとクナシリ乙名のサヌシテカが渡来し、一昨年(一七五七目宝暦七年)、「クルムセコタン」に行って来たというカツコロが、その時の様子を話した。「あかき衣類」を着た「唐人」が大勢いて、「カムイトノコタン」=松前侯の城下町=と同じような様子に見え、「番所」も設けていた。とがめられないようにと思って山の上から町を見おろしてみると、かなりたくさんの家数があった。カツコロ自身も「狸々緋衣」を着ており、立派な細工を施した[鑓」や斧を持っており、島々の名前もいろいろ聞かせてくれた。
 松前藩は、クルムセにおける[唐人」(この場合もロシア人と考えられる)の動向、そこに置かれた拠点の様子をある程度把握していることになるのだが、この情服は、藩内でも「深くかくしておかれたらしいのである。クルミセ島とその辺の島々をラッコ島という(「正徳五年松前志摩守差出候書付」)とか、千島の極東にラッコ島、一名クルムセという大きな島がある(三国通覧図説)、ウルップとは鱒のような魚を指し、周りでこの魚がとれるのでウルップ島というが、ラッコという海獣もとれるので、ウルップ島はラッコ島ともいわれる(最上徳内『蝦夷草紙』)など、クルムセ、ラッコ島についての説明がいくつかあるが、千島列島のうちでも遠隔の島々、ラッコをとることのできる島々、なかでもウルップ島が、クルムセ、クルミセにあたる代表的な島ということになるようで、エトロフ乙名カツコロが見てきたという城下町のように整った「唐人」の基地もウルップ島にあったのだと思われる。『三国通覧図説』も、この島に「莫斯寄未亜」人が多く居住するようだ、と伝えるようになるのである。
 のちに松前藩は、幕府の問い合わせに答えて、「エトロフ蝦夷人」と交易、「介抱」のために船を派遣してはいないが、「クナシリ嶋蝦夷人」とともにアッケシ辺に来て「介抱品」との交易をしている、クナシリ辺には「交易撫育」のための船を派遣しているが、それは、宝暦四(一七五四)年からはじめたものである(『休明光記附録』一件物巻三)、と述べている。十八世紀半ば、湊覚之進の報告があった頃には、エトロフ、クナシリからはアツケシに渡来し、松前藩の役人らとも接触して交易を行うアイヌの人々がいるのは常態となってきていたと思われ、クナシリへは藩の船が直接、渡航しているというのであるから、ロシア人の動向を伝聞する機会はさまざまに増えてきていたはずなのである。
 エトロフ乙名(地域の首長)のカツコロが「狸々緋衣」を身につけていた、と書かれているのは、エトロフアイヌのロシア人との交流、交易の一端を示したものである。ロシア人は、皆、赤い服を着ているので、アイヌは「ホリ、シイ、シヤモ」(赤いよい人)と呼んでいる(『一二国通覧図説』)と伝えられる。赤い服が「狸々緋衣」である。ロシア人との関係で入手したものであろう。カツコロは、ロシア人をおそれ、警戒しているように話していたようであるが、実際はどうだったであろうか。湊覚之進の報告に書かれていたとされる以上に詳しい情報も伝えられていたかもしれないのである。なお、湊覚之進の報告については、河野常吉「安永以前松前藩と露人との関係」(『史学雑誌』二十七編六号)によっている。河野論文では、この報告は「蝦夷地一件」に収められているとされているのであるが、現在、伝えられている「蝦夷地一件」には、これを含む部分が欠けているようである。(P314~P316)

本の紹介-右傾化する日本政治2015年09月08日


中野晃一/著『右傾化する日本政治』岩波新書(2015/7)

   保守合同以降のいわゆる55体制下の自民党と異なり、安倍政権に代表される自民党には戦前回帰の右翼的傾向が大きい。 本書は、1955年の保守合同以降の日本政治史を解明することにより、現在の日本政治が右傾化している現状を説明するもの。現在の日本政治が、戦後日本の中で、非常に右傾化している事実と、そのようにいたった経緯が明らかにされている。

   2015.4.28の朝日新聞の記事『特派員外務省が記事を攻撃 独紙記者の告白、話題に』によると、在米日本大使館幹部は2014年12月、特派員に対し、中野氏について「よく分からない人物だ」「日本国内では、彼のことをよく知っている人はだれもいない」とのようなメールをしたそうだ。この、中野氏とは本書著者のこと。本書以外にも、岩波書店から『戦後日本の国家保守主義(2013.3)』を出版するなど、日本国内では有名な政治学者だ。それにしても、日本の官僚の右傾化も甚だしいものだ。日本の有名な学者の学説が、安倍政権と異なるからと言って、虚偽宣伝までして誹謗中傷するなど、先進国にありうるのだろうか。

   再び、本書の内容に戻ろう。本書は、次の5つの章からなる。
  序章
  第一章 五五年体制とは何だったのか
  第二章 冷戦の終わり
  第三章 「自由」と「民主」の危機
  終章
 
 序章はイントロ。第一章では五五年体制の日本政治史の簡単な説明が為された後、この体制は経済成長によって得られた金によって保守支配を継続するものだったため、経済成長の鈍化と共に破綻したことを説明する。
 第二章は東西冷戦が終結したころからの日本政治の変節の歴史を説明する。日本の右傾化はこの時代に起こっているが、単調に起こったのではなく、何度かの揺り戻しを経つつ、保守本流(旧吉田・池田系)の退潮や革新勢力の退潮を伴いつつ進行した。
 第三章では小泉改革以降、本格的な右傾化の時代を説明する。
 終章では現在の政治状況の説明と共に、対抗する方法が示されるが、内容・分量共に少ない。
 本書は一般人向け解説書だが、著者は学者なので、解決の処方箋ではなくて歴史と現状を正確に認識することに主眼が置かれている。
 
 この本に書かれていることは良く分かるのだが、どうも釈然としないことがある。
 自民党の旧吉田派・旧池田派が消滅して、右翼勢力が伸長したのはなぜなのだろう。中曽根は個人的指向として旧時代的であったことは確かだろう。また、竹下・小渕と旧勢力の人たちが死亡したり、加藤の乱の失敗で加藤紘一が排除されたのは分かるが、それらが、右翼の躍進につながるわけでもないだろう。また、民主党政権には前原のような右翼志向の人がいたし、最後には野田政権になってリベラルが勢力を減らした事実はあるとしても、それは結果的に、そうなったのか、それとも国民の中にそうさせるエネルギーがあったのか。
 日本政府の右傾化の事実と右傾化に至った歴史的経緯は本書で分かるとしても、それは、たまたまそういう方向にブレたのか、それとも、そういうエネルギーが国内外にあったのか、そのあたりが分からない。

本の紹介-昭和天皇は戦争を選んだ!2015年09月09日


増田都子/著『昭和天皇は戦争を選んだ!』社会批評社(2015/6)

 昭和天皇が深く戦争に深くかかわってきたことと、戦後になっても国政に口出しをしていたことを、資料を元に明らかにしている。出典も明示されているため、この分野に関心のある人の今後の学習・研究に便利。

   戦前・戦中の昭和天皇は国家元首であり全軍の統帥だった。昭和天皇が守るのは国家であり、国体であり、天皇制であり、三種の神器だった。明治天皇の時代、沖縄を領有化し、日清・日露の戦勝で台湾・朝鮮を日本領とし、さらに、満州・蒙古への足がかり築いた。昭和天皇は、明治天皇が獲得したものを守り、再び戦争に打って出て、日本の領土拡張と植民地支配を推し進めた。
 ところが、戦後になって、反戦思想が国民の間に蔓延するようになると、あたかも昭和天皇が戦争に反対であったかのような言説が起こった。昭和天皇は、戦果がおもわしくないときなど、一時的に意志が弱くなったこともあるが、だからと言って、全軍の統帥が反戦であったなどあり得ないことだ。

 本書は、多数の資料を綿密に読み解くことにより、昭和天皇が戦争を選んだ事実を明らかにする。そして、育鵬社の中学校日本史教科書に見られる、昭和天皇があたかも戦争を嫌っていたかのごとき記述を批判する。  さらに、戦後になっても、昭和天皇は国政に口出して、日本の共産化を防ぎ、天皇制の永続を図った事実を明らかにしている。昭和天皇が、天皇制維持のために、沖縄をアメリカ占領下に置くようにアメリカに依頼していたことは、沖縄では良く知られたことだが、本書でも、このことは詳しく説明されている。

 昭和天皇が戦争の道を選んだことや、戦後国政に口出ししたことに対して、嫌いだと思う人と好きだと思う人があるだろう。本書の著者は、嫌いなようであり、文章の書き方に、それが表れているように感じる。このため、昭和天皇を崇敬している人が読むと、文章の表現が気に入らないと感じるかもしれない。しかし、本書の内容は史実を記載したものであるので、歴史を正しく理解しようとする全ての人にとって有益な本だ。

昭和天皇は戦後平和主義者と言われることがあった。どのような意味で「平和主義者」だったのか、次のように記載されている。
 満州事変の時や、この記述(張鼓峰事件に関連した板垣征四郎の記述)から分かることは、天皇は「ゴリゴリの軍国主義者で好戦的な人物であり、露骨に領土拡大の侵略を命じた」ということはなかったが、しかし「結果オーライの人物」であることだ。昭和天皇は領土・勢力圏の拡大または保守ができれば、命令違反をしても「できたことは仕方がない」と判断する、統治権の総覧者たる元首にして軍隊の最高司令官である大元帥であったのが事実である。(P35)

(日米開戦に関連して)
 日本によって侵略されても、中国が抵抗しなければ、昭和天皇のいう「平和」になったはず、なのである。天皇はこういう「平和主義者」だった。(P79)

日ソ中立条約に関連した以下の記述には興味が持てる。
 同日、七月二日の御前会議の内容が天皇に上奏される。南部仏印への日本軍進駐を要求し「我が要求に応ぜざる場合には、武力を持って我が目的を貫徹」する、日ソ中立条約を破ることになるが、独ソ戦でソ連が負けそうになったら「武力を行使して北方問題を解決」という方針を、天皇は難なく裁可する。その時の天皇の言葉は「国際信義上どうかと思うが、まあよい。(特に語尾は強く調子を高められたり)」である。上記、朝日新聞記事の高松宮の言、「御兄君、天皇陛下」は「曲がったことがお嫌い」で、「国際法なんかに対しては非常に御尊重になる気持ちがおあり」とあるのは真っ赤な嘘である。(P49)

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