自分で考えよう―北方領土問題2017年04月03日

  
先ずは児童書の紹介。
ペーテル・エクベリ/著、枇谷玲子/訳『自分で考えよう: 世界を知るための哲学入門』晶文社 (2016/10)
  
 小学校高学年程度の人を対象とした哲学の入門書。哲学の入門書と書くと、とっつきにくく面白くない本に感じるが、この本はそういうものではなくて、自分で考えることの重要性と、哲学の意義を平易に説明している。絵が豊富で、絵本のような雰囲気なので、とっつきやすいけれど、文章の内容の割にはページ数が多くて高価な気がする。でも、絵がきれいで、なかなかかわいい本で、読んでみると楽しくなるので、大人でも読んで損はないように思います。
  
 最近、The Huffington Postに、この本の翻訳者と思われる人の北方領土問題学習に関する投稿が掲載されていた。
http://m.huffpost.com/jp/entry/15584794?
http://reikohidani.net/2998/
  
 小学生の子供が、北方領土問題の調べ学習に関連して、「本かネットか」ということと「何が真実か」ということを論じている。
  
 「本かネットか」という視点については、何を問題としているのか、どうもよくわからない。
 本の場合は紙媒体であると同時に、普通100ページ以上あるので細かい議論が展開される。これに対して、ネットの情報は電子媒体であると同時に、書いてある内容が少なく、結論のまとめであることが多い。
 このため、「本かネットか」の問題は、以下の2点を含む。
 ①媒体は紙か、電子か
 ②細かい議論の展開があるか、結論のまとめだけか
①②の問題は、本来全く別のことなので、何を問題としているのかをはっきりさせないと、議論が混乱する。
  
 「何が真実か」。この問題に対する枇谷玲子氏の議論は、先に紹介したページを参照いただくとして、私には、それよりも「真実とは何か」に関心がある。枇谷玲子氏は私が書いた以下のインターネットページを参照している。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm
 このページを作成した最大の目的は「真実とは何か、自分で考えよう」、こういう問いかけを子供たちにしたかったためである。
  
 さて、「真実とは何か」について、大きく分けると、以下の2つの考えがあるだろう。
 a)新興宗教の教祖様や幹部の言説が真実である。
 b)いろいろな考えを理解したうえで判断した、自分の考えが真実である。
  
 a)の変形には、「国家の説明が真実である」というのもあるだろう。戦前の日本は明治に作られた国家神道を信仰することが義務だったので、教育勅語や軍人勅諭が真実の価値基準の中心に置かれた。戦後になると、a)からb)への動きがみられたが、近年では逆戻しの動きがみられるようだ。
  
 子供たちにとって「真実」とは何だろうか。現実的な利益を考えるならば「入試で役に立つ知識」が「真実」だ。
 中学校の国語入試問題では、主人公は道徳的行動をするものとして解答すると、たいてい正解になる。ここでいう道徳とは、小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことである。このため、小学生にとってはa)の考えが正しいとも考えられる。しかし、大学入試の国語の問題では、主人公は小学校の道徳教科書のような行動をとるとは限らない。このため、b)が正しい「真実」である。
 世界史入試問題でも、東大や一橋は事項の暗記だけではとても歯が立たない。いろいろな史実を理解し、歴史の流れの中で判断できないと点を取るのは難しい。もっとも、下位大学の入試では暗記だけで十分なので、偏差値が低い大学にしか行けない子供にとって、真実とはa)だろう。数学の問題も同じで、上位大学では論理の構成を問われるのに対して、下位大学では教科書知識を問われる。
 このように考えると、上位大学を目指す子にとって真実とはb)であるが、偏差値が低い子にとってはa)が真実である。
  
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm
このページを作成した最大の目的は「真実とは何か、自分で考えよう」、こういう問いかけを子供たちにしたかったためである、と書いた。このページは、以下のページがもとになっている。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/indexHoppou.htm
ただし、どちらもその後、大きく書き加えているので、関連性がないところもある。
  
 北方領土問題とは何であるのか、まとめようとした時、最初に近所の図書館で、関連する本を10冊ほど借りてきた。いろいろな知見があって、頭が混乱したので、さらに10冊ほど読むと、だんだん論点が整理できた。ホームページに書いたのはそのころである。北方領土問題は、いろいろな事実を含み、いろいろな解釈があるので、最低でも10冊ぐらいは読まないと、それなりの知見は得られないだろう。今まで読んだ本の一覧をまとめてあるので、関心のある人は参考にしてほしい。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Ryoudo/HoppouBook/index.shtml
   
 さて、日本政府の説明とわたくしの説明とでは大きく違っているように見える人があるかもしれない。事実の一部を取り出して論を立てるのだから、書き方が違ってくるのは当然のことだ。しかし、私のページも、しょせん国内の文献が中心なので、日本側解釈の一例に過ぎない。悲しいことに、外国語が苦手なので、私の理解はこれ以上進まない。
  
 「別海町役場総合政策課」のページには「北方領土は、私たちの祖先が心血を注いで開拓した、わが国固有の領土」と書かれているそうだ。これを、諸外国の人に理解させようとして、英語で訳すとどうなるのだろう。「心血を注ぐ」をそのまま訳したら、戦って奪い取るとの意味になるのではないだろうか。日本政府の言う「固有の領土」をリトアニアの人が正確に理解するには、英語でどう言えばいいのだろう。



本の紹介―シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像2017年04月09日


富田武/著『シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』 (中公新書) 中央公論新社 (2016/12) 


 シベリア抑留関連本の多くは、抑留が大変だった等の旧・日本兵体験談が主流だったが、本書の著者は『シベリア抑留者たちの戦後: 冷戦下の世論と運動 1945-56年 (2013/12)人文書院 』を出版して、抑留体験者が日本に帰国した後に、日本においてどのような状況になったかを明らかにした。
 本書は、シベリア抑留を「ソ連の矯正収容所」「ドイツ兵のシベリア抑留」「日本兵のシベリア抑留」「満州・北朝鮮・サハリン等の外地居留日本人の状況」と広い視点で描いている。 

シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は何だったのか。以下の記述が参考になるだろう。
 1945、46年冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者約六万のうち約80%がこの時期だったという。この時期に限定された死者データは存在せず、1947年2月20日時点までのソ連及びモンゴルの収容所での死者3万728人に、満洲野戦収容所での死者1万5986人を加えると全死者6万1855人の75.5五%になる。
 栄養不足=慢性的飢餓状態と過酷な長時聞労働、そして酷寒、不衛生(風と南京虫)により、多くの捕虜が病気に罹った。誰もが栄養失調になったが、その他に赤痢、発疹チフス、回帰熱などの患者が大量に生じ、体力と抵抗力が落ちているため、また満足な治療が受けられないため、衰弱して死亡する者が多数にのぼった。凍傷や作業中の事故による外傷も少なくなかった。  コムソモリスク収容所には、1945年9月に約3000人の栄養失調症に罹った捕虜が入所したが、酷寒到来とともにチフスなどの伝染病が発生した。このため、ある3000人収容の分所は閉鎖され、そこに病院が建てられた。そればかりか、伝染病の一般住民への蔓延を恐れて、市党委員会書記は地方党委員会に、内務人民委員部が日本人捕虜の栄養失調者3000人を市外に即峙退去させるよう、12月中旬に要請している。
 内務人民委員部ハバロフスク地方本部長の同地方党委員会書記宛1946年1月1日付報告メモによれば、同地方全体で収容所開設から11月末までに1119人、12月末までに1446人、合計2565人が収容所、特別病院(重症患者のための、収容所から独立した病院)で死亡した。コムソモリスク収容所の死亡者は1165人、同地方全体の41・5%を占めた。収容所の医院、特別病院の入院患者は、12月1日に7244人、1月1日には1万9人となった。
 治療と衛生・予防の施策がとられたにもかかわらず、特別病院の設立や病院の配置の遅れと不足、収容所の医院や分所の隔離室の設備の悪さ、そして医療スタッフの不足が治療と衛生の効果を低めた。地方の収容所の医院(ラザレート)は、設備不足のため、ホール、コムソモリスク、ラィチハでは大きく遅れて開業し、ハバロフスク市、ブラゴヴェシチェンスク、ニコラエフスク、オハではまったく営業されなかった。
 病院や診療所はむろん、医師、看護婦などの医療スタッフや医薬品、治療設備及び器具が不足していたことは抑留回想記で知られていたが、ハバロフスク地方党委員会書記の先の報告メモでも対策が訴えられた。そこでは、医師不足のため日本人軍医を使わざるを得なかったと指摘している。(P108-P110)
 コムソモリスク収容所は、人員1万5000人を超える有数の収容所だった(分所は14)。開設当初は病弱者が多く、作業出勤率は40%、労働生産性(ノルマ達成率)は55%にすぎなかった。1946年2月、第10分所の契約先トラスト「アムール・スターリ建設」の仕事で、日本人捕虜331人(385人中)が森林伐採に出た。収容されていた高橋大造はこう回想している(ロシア人クズミナの著作で引川されている)。
 「この仕事の経験のない日本人には、非常にきつい労働だった。もう10月半ばには、気温はマイナス20度を下回っていた。体の動きが鈍くなり、食糧不足が栄養失調症を急速に蔓延させた。食事は悪く、一日にパンはわずか300グラムだった。日本人将校の横取りのため、兵卒のパンが200グラムになることもあった。このため捕虜が毎日のように死んでいった」P153
シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は次のことがあげられる。
①寒さに慣れていないなか、労働がきつかった
②捕虜を受け入れたソ連の産業が疲弊していて、食料・衣料・医療が不足した
③日本人将校が食料を横取りした

 また、サハリン・千島でソ連支配下で生活した人数について、以下の記述がある。
 1946年2月2日、南樺太及び千島列島はソ連最高ソヴィエト幹部会令で、占領地からソ連の南サハリン州となった。7月1日時点で州の人口は30万5800人、内訳は日本人27万7649、朝鮮人2万7098、アイヌ民族406などであった(千島列島のみに限ると人口は1万9119)。1945年1月時点の人口が39万2007だったので、南樺太からの脱出10万人分だけ減少したことになる。P187

本-返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」2017年04月12日

 
東郷和彦/著『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』 PHP研究所 (2017/3)
 
 あまり、興味を持てなかったのですが、読んだことを忘れないように書き留めておきます。
 本の2/3は沖縄返還交渉。東郷文彦と若泉敬との2元外交によって、沖縄返還交渉が行われていた。
 残りの1/3は北方領土返還交渉の歴史。
 2016年12月、山口で、安倍・プーチン会談が行われ、北方領土関連地域での日ロ経済協力が合意された。著者はこの合意に肯定的な評価をしている。

サクラソウ祭り2017年04月16日

(画像をクリックすると拡大します)
    
埼玉県さいたま市田島が原のサクラソウ公園ではサクラソウ祭りが開かれています。自然保護区の隣の運動場には食べ物屋などがいっぱい。サクラソウや珍しい植物を見に来る人は少ないのだろうなー。
    
    
サクラソウが見頃です。
      
ヒキノカサが増えてきました
   
ノウルシが増えてきて、サクラソウが見えにくくなりつつあります
    
カントウタンポポが咲いています
    
トダスゲは、ここでは一度絶滅したはずなので、近年移植したのかな
    
アリアケスミレがありました。特に珍しくないけれど。



本の紹介-アイヌ・モシリ アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉2017年04月17日

    
アイヌモシリを取り戻す会/編『アイヌ・モシリ アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉』 御茶の水書房 (1992/11)
  
 アイヌ民族の立場から、日本の北方領土要求を批判している。
 現在、日本で北方領土と呼ばれている南千島地域は、もともと、アイヌ民族の住む地であり「日本固有の領土」ではない。
  
 本書は3部構成になっている。第1部前半は、アイヌの人たちを中心とした座談会で、主に、千島や北海道は本来アイヌの大地であったことを主張している。第1部後半はアイヌの昔話や思い出話。
 第2部は、ピースボートでえとろふとう・色丹島を訪問して、現地の人たちと交流したアイヌの話。ロシアは多民族国家なので、先住民の権利意識が高く、先住民としてのアイヌに対しては好意的である。
 第3部は、先住民としてのアイヌに関する新聞・雑誌報道のまとめ。
  
 本書の内容は、アイヌの権利を主張するもので一貫しているが、座談会・旅行の報告・新聞報道と多岐にわたっているため、主題がぼやけた感じがする。解説本にしたほうがわかりやすかったのではないだろうか。
  
 ところで、本書は、アイヌの団体の中でも日本政府に批判的な、アイヌ解放同盟の人たちの考えを中心に執筆されているものと思われる。アイヌの代表的な考えかというと、ちょっと違うかもしれない。
    
    
なるほどと思った記述を参考に記載します。
    
山本一昭
 私たちアイヌ民族は、これまでも結束して、両政府に対し、アイヌモシリの復権とアイヌ民族の領有権を掲げて様々な運動を展開してきた。私の同志、故結城庄司氏(アイヌ解放同盟初代委員長)を中心に十数年前AS協会を結成し、ソ連総領事館(現ロシア札幌総領事館)で副総領事と話し合いをもった。その席で、私たちは日本政府や和人が主張する「北方領返還運動」には絶対反対であり、北方諸島の領有権は元々アイヌ民族にあることを強く主張したところ、副総領事も北方諸島はアイヌ民族の大地であることを認識し自由な往来や漁業権を認めた経緯がある。
 今年五月、「アイヌモシリの自治区を取り戻す会」のメンバーとロシア総領事館を訪問し、アブドゥラザコフ総領事に対し、エリツィン大統領とフョードロフ・サハリン州知事に「アイヌモシリを取り戻す会」からのメッセージ並びに趣意書、さらに小冊子「アイヌモシリ」と「アイヌ民族に関する人権啓発写真集」を送っていただくようお願いした。その話し合いの中でも、アイヌ民族の北方諸島への居住や自由往来、漁業を認めている。北方諸島がアイヌ民族の大地であることは巌然たる事実であり、これらの対応は当然ではあるが、日本政府や北海道庁は依然理不尽極まりない姿勢に終始している。(Pⅱ,ⅲ)
    
チカップ美恵子(アイヌ文様刺しゅう家)
 最近、マスコミの使う言葉で気になるのは、「返還」というのもそうなのですが、日本固有の領土である「北方諸島」を現島民は「不法占拠」をしているという言い方です。しかし、不法占拠をしていると言うなら、和人は、現在、もともと私達の島々であるこのアイヌモシリを不法占拠しているのです。そのことを一体どうするのだ、と私は問い掛けたいのです。この「返還」や「不法占拠」という言葉について、私はアイヌ民族として、良心ある多くの和人に真剣に考えていただきたいと思います。
 また、この頃、ニュースを聞いていますと、旧島民が、登記に関する相談を始めています。冗談じゃないですよね。ずっと不法占拠しっ放しでね、代が変わったから登記の名義変更だなんて。こんなとんでもないことが現在着々と進められています。(P28)
  
石井由治
 さて、旧島民のみなさんは、千島が「日本固有の領土」というキャンペーンを展開していますが、もし本当にそれが「日本固有の領土」なら、何も「返還」してもらうことなどありません。みなさんがそこへ行って住めばよいのです。私達アイヌ民族は、北海道、千島、サハリンから成るアイヌ・モシリを日本政府に売った覚えも、貸した覚えもないのだ、ということは阿寒に住んでいる山本エカシや、静内の葛野エカシ、そして二風谷にいる菅野茂さんなどがいつも主張しています。みなさんが本当に、この北海道が日本の土地だと言うならば、国会へ行って調べてみた方が良いです。アイヌ・モシリは、売った覚えも貸した覚えも無いということを、もう一度主張しておきたいと思います。(P138)

本の紹介―幕末維新の異文化交流 外圧をよみとく2017年04月18日

    
洞富雄/著『幕末維新の異文化交流 外圧をよみとく』(有隣堂、1995年)
    
 歴史学者・洞富雄、最晩年の著作。実際には、それまでに書いた論文や著書の内容を再編集したものが多いようだ。出版が古く、入手も困難なので、あえて読む必要がある本とは思えない。
    
内容は以下の3章からなる。
    
 第1章では、最初の節で北方探検時期の国際環境を記載し、「間宮林蔵」「最上徳内」「高橋景保」「伊能忠敬」「シーボルト」をとりあげて、日本の北方探検・北方認識史を記述する。各個人の北方関連伝記であるが、個人を通して日本の北方認識の歴史がわかるようになっている。最後に、北方における日ロの進出を記載する。最上徳内や間宮林蔵のところでロシア人との関連にも触れられているなど、日ロ関係の記述もあるが、多くない。
    
 第2章は伊豆下田におけるプチャーチンとの日ロ交渉、ペリーとの日米交渉が書かれている。それなりにページを割いており、詳しい内容になっている。
    
 第3章は、幕末維新と横浜。

本の紹介―沖縄戦とアイヌ兵士2017年04月21日

     
橋本進/編 『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士』 草の根出版会 (1994/4)
   
 沖縄県糸満市真栄平の「南北之塔」建立のいきさつを説明。
 太平洋戦争末期、沖縄には米軍が上陸して地上戦が行われた。糸満市では死闘が繰り広げられ、多くの軍民が死亡した。
日本軍の主力部隊は、第24師団(通称、山師団)で、これは北海道出身者が多く、アイヌ兵も在籍していた。多くは戦死したが、アイヌ兵弟子豊治は無事生還を果たした。なお、北海道アイヌ協会によれば、沖縄戦で戦死したアイヌは43人が判明している。
 本書は、戦前のアイヌ差別などを説明した後、弟子豊治の沖縄戦の話と、「南北之塔」建立のいきさつを説明する。
   
 真栄平は戦場となり、住民900名のうち670名以上が死亡し、多くの日本兵も戦死したため1000体を超える死体があったため、遺骨をガマ(洞窟)に葬ったた。1966年、真栄平地区では、住民が金を出し合って納骨堂を建てることとなった。このとき、弟子豊治は納骨堂の上に建てる塔の費用を寄付した。遺骨は、住民・日本兵・米兵のものが混在しており、慰霊は全ての犠牲者を弔っている。塔の正面には「南北之塔」、側面には「キムンウタリ」「真栄平地区住民」と彫られている。「キムンウタリ」は「山の同胞」の意味で、山師団の戦死者を表している。
   
 なお、北海道アイヌ協会では、数年おきに慰霊祭(イチャルパ)を行っているが、北海道新聞(2009年2月20日 夕刊)によれば、真栄平の住民の中には、アイヌの慰霊祭を嫌悪するものもいるそうだ。真栄平の一部住民で組織する「南北の塔を考える会」代表の大城藤六氏の『南北之塔がアイヌの墓と言われるのが許せない、北海道出身の沖縄戦戦没者の慰霊碑はほかにある、遺族はそちらに行けばよい』との話は、アイヌ民族に対するレイシズムとしか解せない。

本の紹介―南北の塔2017年04月22日

    
橋本進/著、穂積肇/絵『南北の塔 アイヌ兵士と沖縄戦の物語』草土文化 (1981/8)
   
 本書は、『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士(1994/4)草の根出版会』 と、ほとんど同じ本。ただし、『南北の塔』の方が絵がカラーで大きいので見ていて楽しい。
   
 2つの本には、南北の塔建立のいきさつについて、若干の記述に違いがある。また、このほかにも、沖縄各地に立つ碑の意味に対する考察にも若干の違いがあるようだ。『南北の塔』の記述の不十分な点を
『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士』で改定されているようだ。

本の紹介―戦跡が語る悲惨2017年04月23日

  
真鍋禎男/著『戦跡が語る悲惨』沖縄文化社 (2016/4)
     
 本書の内容は沖縄戦の歴史。
 沖縄戦の歴史をかなり詳しく記し、随所に関連する戦跡の写真を掲げ、わかりやすい内容になっている。沖縄戦を詳しく知ろうとする人には、好適な参考書といえるだろう。参考文献も豊富。
  
 沖縄戦の記述には、反戦の立場と、英霊賛美の立場があるが、本書は反戦の立場で一貫している。このため、戦没者を英霊として顕彰したい人や、沖縄戦の犠牲者を戦意高揚に利用したい人には、言葉遣いが気に入らないと思う。
  
 沖縄最南端の喜屋武岬に建てられた平和之塔には、「米軍に対して最後の迎撃を続けしも善戦空しく」「戦闘に協力散華せる住民」と書かれている。実際にこの地に日本軍が追い詰められたときは、すでに敗戦必死の状態で善戦もしていなければ、住民も逃げ惑うだけだったので、碑文は事実ではない。平和之塔を見学した時、戦争賛美のあまりに事実を捻じ曲げる態度に嫌気がさした。本書においても、「観光名所に便乗して戦争賛美を煽る」と平和之塔の記述に対して厳しい評価をしている。
  
 南北の塔に関連して、「住民殺傷の壕追い出し」の項に以下の記述がある。これは、南北の塔の下にあるガマのことだろう。
 真栄平ではいきなり軍刀で母親を斬首のうえ、幼い子供4人を刺殺した。壕に手榴弾を投げ込まれ、その壕に駆けつけようとする父親を切り殺された家族もいる。(P146)
  
 本書の最終章では、平和祈念公園に建てられている各県の塔を取り上げている。ほとんどすべての塔の文言は、沖縄住民の死亡について触れられておらず、将兵の戦死を英霊顕彰としている。本書では、この点について批判的であるが、故人の葬儀の弔辞は、たとえ悪人であっても、なるべく良いことを言うものなので、戦死した将兵を顕彰する記述になるのはある程度仕方ないだろう。
 同じ並びに立つ、空挺隊の碑文や、波の上神社の日本青年会議所の碑文は、英霊顕彰にとどまらず、若い人に対して戦争を鼓舞しているようで、感じが悪い。しかし、本書ではこれらの碑には触れられていない。

本ー沖縄決戦 高級参謀の手記2017年04月25日

    
八原博通/著『沖縄決戦 高級参謀の手記』中央公論新社 (2015/5)
  
 1972年に出版された本の文庫版復刻。
  
 司令部付将校からみた沖縄戦の記録。こういう本は、自分に都合よく、事実の一部しか書かれず、また、誇張もなされるので、読むときには注意が必要だ。しかし、数少ない司令部の生き残りのの記録なので、沖縄戦を知るうえで重要な文献であることに違いはない。
  
 首里城地下壕に陣取った司令部高級将校は、10数名の芸者など30名ほどの慰安婦を抱えていた。このことは本書ではP201に触れられている。

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