本の紹介―シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像2017年04月09日


富田武/著『シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』 (中公新書) 中央公論新社 (2016/12) 


 シベリア抑留関連本の多くは、抑留が大変だった等の旧・日本兵体験談が主流だったが、本書の著者は『シベリア抑留者たちの戦後: 冷戦下の世論と運動 1945-56年 (2013/12)人文書院 』を出版して、抑留体験者が日本に帰国した後に、日本においてどのような状況になったかを明らかにした。
 本書は、シベリア抑留を「ソ連の矯正収容所」「ドイツ兵のシベリア抑留」「日本兵のシベリア抑留」「満州・北朝鮮・サハリン等の外地居留日本人の状況」と広い視点で描いている。 

シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は何だったのか。以下の記述が参考になるだろう。
 1945、46年冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者約六万のうち約80%がこの時期だったという。この時期に限定された死者データは存在せず、1947年2月20日時点までのソ連及びモンゴルの収容所での死者3万728人に、満洲野戦収容所での死者1万5986人を加えると全死者6万1855人の75.5五%になる。
 栄養不足=慢性的飢餓状態と過酷な長時聞労働、そして酷寒、不衛生(風と南京虫)により、多くの捕虜が病気に罹った。誰もが栄養失調になったが、その他に赤痢、発疹チフス、回帰熱などの患者が大量に生じ、体力と抵抗力が落ちているため、また満足な治療が受けられないため、衰弱して死亡する者が多数にのぼった。凍傷や作業中の事故による外傷も少なくなかった。  コムソモリスク収容所には、1945年9月に約3000人の栄養失調症に罹った捕虜が入所したが、酷寒到来とともにチフスなどの伝染病が発生した。このため、ある3000人収容の分所は閉鎖され、そこに病院が建てられた。そればかりか、伝染病の一般住民への蔓延を恐れて、市党委員会書記は地方党委員会に、内務人民委員部が日本人捕虜の栄養失調者3000人を市外に即峙退去させるよう、12月中旬に要請している。
 内務人民委員部ハバロフスク地方本部長の同地方党委員会書記宛1946年1月1日付報告メモによれば、同地方全体で収容所開設から11月末までに1119人、12月末までに1446人、合計2565人が収容所、特別病院(重症患者のための、収容所から独立した病院)で死亡した。コムソモリスク収容所の死亡者は1165人、同地方全体の41・5%を占めた。収容所の医院、特別病院の入院患者は、12月1日に7244人、1月1日には1万9人となった。
 治療と衛生・予防の施策がとられたにもかかわらず、特別病院の設立や病院の配置の遅れと不足、収容所の医院や分所の隔離室の設備の悪さ、そして医療スタッフの不足が治療と衛生の効果を低めた。地方の収容所の医院(ラザレート)は、設備不足のため、ホール、コムソモリスク、ラィチハでは大きく遅れて開業し、ハバロフスク市、ブラゴヴェシチェンスク、ニコラエフスク、オハではまったく営業されなかった。
 病院や診療所はむろん、医師、看護婦などの医療スタッフや医薬品、治療設備及び器具が不足していたことは抑留回想記で知られていたが、ハバロフスク地方党委員会書記の先の報告メモでも対策が訴えられた。そこでは、医師不足のため日本人軍医を使わざるを得なかったと指摘している。(P108-P110)
 コムソモリスク収容所は、人員1万5000人を超える有数の収容所だった(分所は14)。開設当初は病弱者が多く、作業出勤率は40%、労働生産性(ノルマ達成率)は55%にすぎなかった。1946年2月、第10分所の契約先トラスト「アムール・スターリ建設」の仕事で、日本人捕虜331人(385人中)が森林伐採に出た。収容されていた高橋大造はこう回想している(ロシア人クズミナの著作で引川されている)。
 「この仕事の経験のない日本人には、非常にきつい労働だった。もう10月半ばには、気温はマイナス20度を下回っていた。体の動きが鈍くなり、食糧不足が栄養失調症を急速に蔓延させた。食事は悪く、一日にパンはわずか300グラムだった。日本人将校の横取りのため、兵卒のパンが200グラムになることもあった。このため捕虜が毎日のように死んでいった」P153
シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は次のことがあげられる。
①寒さに慣れていないなか、労働がきつかった
②捕虜を受け入れたソ連の産業が疲弊していて、食料・衣料・医療が不足した
③日本人将校が食料を横取りした

 また、サハリン・千島でソ連支配下で生活した人数について、以下の記述がある。
 1946年2月2日、南樺太及び千島列島はソ連最高ソヴィエト幹部会令で、占領地からソ連の南サハリン州となった。7月1日時点で州の人口は30万5800人、内訳は日本人27万7649、朝鮮人2万7098、アイヌ民族406などであった(千島列島のみに限ると人口は1万9119)。1945年1月時点の人口が39万2007だったので、南樺太からの脱出10万人分だけ減少したことになる。P187

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