本-琉球の王権とグスク ― 2017年05月12日

安里進/著 『琉球の王権とグスク』 (日本史リブレット)山川出版社 (2006/12)
統一国家誕生以前の琉球では、各地にグスクと言われる城が作られた。
本書は、琉球王権に関係の深い浦添グスク、首里グスク、今帰仁グスクなどを取り上げ、グスクを話題の中心として琉球王権成立の歴史を解説する。本書には、関連する写真もある程度掲載されていて、視覚的にもわかりやすい。
しかし、グスクの解説ガイドとしてみると、取り上げたグスクの数が少なく、いまひとつ物足りない。琉球の統一王権成立の歴史書としてみると、グスクなどの現地解説に力点が置かれすぎているように感じる。薄い本なので、解説が薄くなっているのでしかたないのかもしれない。ただし、逆に言えば、琉球王権とグスクの関連が簡便に理解できる本である。
本の紹介-東北アジアの民族と歴史 ― 2017年05月13日
三上次男・神田信夫/編 『東北アジアの民族と歴史 民族の世界史3』 山川出版社 (1989/10)
本書が対象としている地域は、シベリア・中国東北部・朝鮮。
3部構成。第1部はこのちいきの「自然」「民族文化」「言語」。第2部は3地域の歴史。このうち、シベリアの歴史はこの地域へのロシアの進出による先住民族の変容が主題になっている。第3部は主に中国の近代史で、本書の対象地域とは若干外れるように感じる。
シベリアや中国東北部の民族は複雑で、今でも少数民族が多い。言語はチュルク語系やツングース系、あるいは抱合語系など、変化に富んでいる。この地域の民族文化を理解するためには標準的な参考書になる。また、各省は執筆者が違い、特に関連性がないので、興味のある賞だけを読むことも可能。
旧ソ連地域のシベリア先住民族の人口変化の表が、P134,135に記載されている。ヤクート人が増えたなど、民族によって増減に差があるが、ざっと見れば大きな変化はない。ただし、民族語を母語とする人たちの割合は時代とともに大幅に減少している。
これに対して、P81-P83に記載されているアイヌ特に樺太アイヌは、日本統治下の民族政策が原因で、絶滅寸前にまで追い詰められていったことがわかる。
アイヌ 生態学的にみて東北アジアの沿岸部とほぼ同様の条件にある日本の北方にはアイヌ独自の文化が形成された。日本の古代・中世におけるエミシ、エゾの文化については部分的に明らかにされているにすぎない。近世にはアイヌの住地は北海道、樺太(サハリン)、千島にあった。アイヌとは人の意であるが、樺太アイヌはエンチゥ、エンジュウという自称をもっていた。北海道アイヌの人口は十九世紀初めには約二万七〇〇〇人、その後半世紀の間に主として疫病のために人口は激減し、安政元年(1854)には約一万九〇〇〇人であったという。そして.明治期以降は政府の政策や本州からの入植者の増大による生活環境、社会的・経済的条件の変化によって、アイヌ社会は急激に崩壊し混血が進み、今日では日常語としてアイヌ語は通用しないまでにいたっている。千島アイヌとは北千島のシュムシュ島とポロモシリ島にいたアイヌのことで、彼らは、この両島とラショワ島に定住的な集落を設け、周辺の島々で漁携や狩猟をしていた。千島アイヌはロシア人やヨーロッパ人からクリール人(クリールとはロシア語で千島列島をさす)とよぼれ、その足跡は南カムチャツカにも残されている。明治八年(一八七五)の千島・樺太交換条約により、北千島と中部千島が日本領となったときには人口は一〇〇余人であったが、その後シコタン島をへて北海道へ移住を余儀なくされるにしたがい、疫病や環境の変化が原因で減少、さらに混血により第二次大戦後には千島アイヌの足跡をたどることはむずかしくなった。
樺太アイヌの人口は古い記録では文化四年(一八〇七)に二一〇〇人、同じころ調査をおこなった間宮林蔵の報告(「北蝦夷図説」)では二八四七人ほどであった。その後明治八年に千島・樺太交換条約が成立したときには西海岸のアイヌ八五四人が宗谷に移住し、その後江別に移った。そのうち、半数ほどが庖瘡とコレラのために死滅した。新しい環境で生計を立てることができなかったアイヌたちは、日露戦争の前後にふたたび樺太の故郷へ還り(一九〇五年以後の帰還者の数は三九五人)、日本の支配下におかれたが、状況は過酷なものがあった。そして、北辺における日露間の政治的潮流に巻きこまれながら第二次大戦を迎えた。戦後、一部のアイヌは北海道へ引き揚げ、道内の各地に居住した。
このようにして、アイヌの生活や文化は明治期以降、根底からくつがえされ、変容を強いられたといっても過言ではない。近年まで人びとの生活や記憶に保持されてきた伝統的要素と記録や史料とによって、往時のアイヌ文化はある程度まで再構成されている。が、未知のままにとり残されている領域も少なくはない。しかし、概していえば、アイヌ文化の全体像は、北方地域にその類例を見出すことができる。そして、事実北方の近隣諸族とさまざまな交渉をもっていたことが歴史的にも、民族誌的にも明らかである。しかしながら、一方では北方の諸民族とは異なった文化要素も散見され、アイヌ文化の探求はなお今後の問題としてある。(P81-P83)
本の紹介-沖縄戦戦没者を祀る慰霊の塔 ― 2017年05月14日

大田昌秀/著『沖縄戦戦没者を祀る慰霊の塔 』 那覇出版社 (1985/6)
沖縄県知事を務めた大田昌秀が琉球大学教授時代に執筆した著書。古い本で有名出版社ではないので、読む機会は少ないと思う。
沖縄には、数百の慰霊塔が建てられているが、本書は、そのうちの主なもの百数十を取り上げて、各慰霊塔の写真を掲載し解説をしている。慰霊塔の解説は建立のいきさつなどを簡潔に書くにとどまる。ただし、いくつかの慰霊塔については、関連する話題を数ページにわたって解説するものもある。たとえば、久米島の痛恨の碑では、久米島虐殺事件の説明が書かれている。
沖縄の慰霊塔を実際に見学すると、碑文が書かれたものも多い。碑文の文面には、戦争を賛美し国家に殉じることの意義を示すものも多い。本書の最初の20ページほどには、戦争賛美の碑文が書かれたいきさつなどにも触れられているが、個々の慰霊塔の碑文についてコメントはほとんどない。
欲を言えば、各慰霊塔の碑文を掲載してほしかったし、碑文に対するコメントもほしかった。とは言え、慰霊碑の碑文に戦争賛美が多いのは、戦死を意味のある死と思いたい、遺族の心情もあるのだから、たとえ戦争賛美・戦意高揚を目的とするような碑文でも、直接的には批判はしずらいだろう。
本の紹介―東学農民戦争と日本 ― 2017年05月17日

中塚明, 井上勝生,朴孟洙/著 『東学農民戦争と日本』高文研 (2013/6)
日清戦争のきっかけとなった朝鮮の反政府運動のことを、以前は「東学党の乱」と言ったが、最近は「甲午農民戦争」と言うことが多い。
日本で書かれる多くの日本史では、日本の良いことを強調し、悪いことはなるべく書かないようになっているようだ。日清戦争は日本が朝鮮半島を植民地化する過程で起こった戦争だが、その点に触れると日本賛美につながらないため、日清戦争における朝鮮半島の話は日本史教科書ではあまり触れられない。以前の日本史教科書では、こんな感じで書かれていた。
①東学党の乱を抑えきれない朝鮮王府は清国に軍隊派遣を求める
②申告の派兵に対抗するため日本も朝鮮に派兵
③朝鮮半島の対処に関して、日清両国が対立
④日清戦争が起こる
⑤下関条約成立
最近の日本史教科書には、日本軍が朝鮮王府を占拠したことや、日清両国の対立とは、朝鮮から撤兵することを主張した清国に対し、撤兵を拒否した日本との対立だったことが明記された日本史教科書もある。しかし、朝鮮農民軍と日本軍との戦争について触れられている日本史教科書は少ない。
日本が派兵して朝鮮王府を占拠すると、これに反発した朝鮮農民軍と日本軍とが交戦し、農民軍に多数の犠牲者が出た戦争に対する記述が、本書では詳しい。日本軍の虐殺実態についても触れられる。
日清戦争で最大の犠牲者を出した国は、日本でも清国でもなくて朝鮮だった。朝鮮農民軍戦死者数について、数万から数十万人説までさまざまな説があるが、本書では3万を下らないとしている。日清戦争の主戦場は朝鮮なのだから、朝鮮の視点がなくては日清戦争を理解することはできないので、本書によって、日本ではあまり語られてこなかった日清戦争の重要な点を理解することは、正しい日本史理解にとって有益だ。
本書には、甲午農民戦争の記念碑についても書かれており、こういったものに興味がある人が、韓国旅行するときには便利だ。
本の紹介―死者たちは、いまだ眠れず ― 2017年05月27日

大田昌秀/著『死者たちは、いまだ眠れず』新泉社 (2006/08)P244
沖縄には、数百の慰霊塔が建てられているが、その中には、戦争・戦死を賛美する碑文が付けられているものも多い。
本書は、このような状況を批判的に説明する。
わたしは、このような沖縄守備軍首脳の慰霊のありようによって、付近一帯に林立する慰霊の塔の本来の意味が半ぽ喪失せしめられている気がしてなりません。とりわけ、この塔の建立に尽力したのが東京と地元の一部の権力者と指導者たちと聞いて唖然としました。
とりわけ地元出身の指導者たちは、戦前は、政府の画一的皇民化政策に追従して沖縄文化を抹殺することに狂奔したのみか、沖縄戦では、一から一〇まで軍部の言いなりになって県内の若人たちを死地に追いやり、自らは敵上陸を目前にしながら真先に本土に脱出したり、安全地帯に逃避した当事者たちだからです。しかも戦時中は、日ごろの大言壮語とは逆に一般住民より真先に投降したのも彼ら「世のリーダー」たちでした。
彼らは、敗戦後は、自らが戦前から戦時中にかけて犯したもろもろの悪業に対する反省もないまま、口では、おうむがえしに「平和」を唱えながら実際には、またもや中央の政治権力と結託して軍事力の強化を図っているしまつ。 それのみか、「慰霊の名」において、地元住民の強制された非業の死さえ殉国美談に仕立て上げ、恥じようともしない。戦争が何たるかも知らない若者たちをおだてあげ、祖国愛を鼓舞して再び銃を執らせようと、手をかえ品をかえて努めているありさまです。また、遺族会などの組織も、杖とも柱とも頼む男手を戦争で失った女たちに、子育てから教育、社会の復興まですべての責任を押し付けてはばからなかったのです。
さらには、戦争で働き手を亡くし、弱い立場に立たされた遺家族に見舞金や年金などの話を持ちかけ、あたかもお金で「魂」を買い取るかのように意のままに操ってきたのです。あげくのはて、「国が責任を以て死者たちを靖国神社に護持せよ」と、戦前同様に靖国神社の国家護持を主張せしめたりしているのです。
こうした嘆かわしい言動が、多くの場合、慰霊の塔の碑文をゆがめる結果になっているのではないでしょうか。 P44,P45
大宅壮一氏は、・・・つぎのように断定したのでした。
「沖縄の人は確かに人がよい。しかし、知性や判断力のともなわない人のよさというものはよろしくない。どういう主人に対しても忠実に仕えた結果が『ひめゆりの塔』や『健児之塔』となった。・・・あの塔は二度と同じ誤ちをくりかえさないというモニュメントの意味なら結構だが、それを賛美するような風潮は避くべきである。」
「主人を批判する知性や判断力を養うことだ。盲従・盲信はいけない。私は方々で舌禍を起こしている。私としては私の言に対して怒ってくれた方がうれしい。舌禍は効果を招くものだ。それがいくらかでも相手に反省のチャンスを与えたとすれば、むしろ舌禍万歳だ。とにかく沖縄にあること、沖縄の総ての傾向は日本自体にもあることで、これが沖縄の場合、拡大強化されて現れている。日本人の弱点盲点が沖縄ではより強くなっている。」P131
本書にページ数を一番割いているところは、碑文を批判的に取り扱うところではなくて、沖縄戦の実相を慰霊塔を中心に明らかにすることと、著者の慰霊の経歴と「平和の礎」建立のいきさつが示されている。