本の紹介ー日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか2017年12月10日


池内敏/著『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』

 近世日朝関係史が専門の池内敏教授による、近世日朝関係の解説。

 著者は竹島問題の研究書『竹島問題とは何か(名古屋大学出版会)』、および一般向解説書『竹島 もうひとつの日韓関係史 (中公新書)』を出版している。本書は近世日朝関係を扱ったものだが、全体の1/4程度で竹島問題関連事項を解説している。

 本書は13章に分かれ、各章で日朝交流史関係の話題を扱っている。それぞれの章に、直接的関連はないので、興味がある章だけを読んでも構わない。この本は、大学の集中講義に使用したそうだ。欠席した講義があっても、話が分からなくなることがないように工夫されている、親切な講義だ。対象の学生はだれだったのだろう。歴史を専門とする学生が対象ならば「欠席するな」と言いたいし、学部生の一般教養だとしたら、内容が難しすぎるように感じる。
 本のタイトルは「日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか」となっているが、この問題に直接解答を与えるものではなく、日朝関係史の話題を提供するものになっている。

 竹島問題に直接関係しているのは『第3章 元禄竹島一件』『第9章 19世紀の鬱陵島』『第10章 竹島の日本領編入』の3つの章である。

『第3章 元禄竹島一件』は1692年に鬱陵島で日本と朝鮮の漁民が出会ってトラブルとなり、日本・朝鮮の交渉の結果、鬱陵島は朝鮮領であり日本人の渡島が禁止されるに至った事件の解説。この事件では、安龍福が現・竹島を朝鮮の領土だと主張したとかしないとか、いろいろな言説があるが、本章には安龍福の記述はない。信用のおけない歴史資料は使わないほうが良いということだろうか。
 P88に、「竹島考」の竹島松島之図が掲載されている。著者がどのような理由でこの地図を載せたのか分からない。この地図は1724年頃に作られたものだが、松島(現・竹島)が隠岐4島と同程度の大きさに描かれている。実際には隠岐4島で一番小さい知夫里島と比べても1/100以下なので、正保国絵図(1600年代に完成)と比べると、かなり稚拙な出来栄えだ。当時、現・竹島に関する知識が少なかったことがうかがえる。

 『第9章 19世紀の鬱陵島』は鬱陵島への日本人の進出の歴史が説明されている。中心は、幕末から明治だが、元禄竹島一件などにも触れられていて、第3章を読まなくても本章だけで、鬱陵島への日本人の進出の歴史が分かるようになっている。ここでは、史実のみ安龍福にも触れられている。本章は鬱陵島の話なので、竹島問題とは直接関係ないが、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていたので、鬱陵島進出史を知ることが、竹島問題理解には欠かせない。
 P209に桂小五郎・大村益次郎等による鬱陵島開拓建白書の説明がある。司馬遼太郎の「花神」では、大村が桂に竹島開拓を提案した話があるが、司馬の小説は史実ではない。鬱陵島と無関係に竹島を開拓しようとしたことは、竹島が日本に編入される前後までなかった。

 『第10章 竹島の日本領編入』はページ数が若干少ない章で、江戸時代の竹島利用と竹島の日本領編入の説明。
 現在、日本政府の主張では、竹島は江戸時代から日本の領土であったとされているが、本書では、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていた事実を指摘して、日本政府の主張を完全否定している。

 日本政府の主張は、川上健三の著書がもとになっているが、本書では、川上の研究方法自体を厳しく批判する。
 ・・・鳥取藩が「竹島も松島も鳥取藩領ではない」と述べたことを受けて元禄竹島渡海禁令が発令されたという事情に鑑みれば、元禄竹島渡海禁令は、法令上に「松島への渡海禁止」が明言されていなくても、そのことは含意されている。さらに、元文五年(一七四〇)に家業の保障を求めて寺社奉行と相談をした大谷九右衛門勝房は、当時、元禄竹島渡海禁令を「竹島.松島両島渡海禁制」と理解していたし、応対した寺社奉行たちも同様に「竹島・松島両島渡海禁制」と明言している。したがって、浜田藩家老の解釈は誤読であり、その誤読をもって「松島への渡航はなんらの問題もなかった」と述べるのもまた明白な誤りである。
 そして何より大問題なのは、川上健三は、外務省職員として自ら大谷家文書の原本調査をした際に、元禄竹島渡海禁令が「竹島・松島両島渡海禁制」であることを史料上に確認しておきながら、その大著『竹島の歴史地理学的研究』のなかではその事実を黙殺したことである。禁令が「竹島.松島両島渡海禁制」であることを知っておりながら、その文面には「松島渡海禁止」と書いていないと強弁し、元禄竹島渡海禁令後も日本人が松島(竹島/独島)を継続して活用した可能性を説いたことである。
 現在、日本外務省のHPに記される「竹島は江戸時代以来連綿として日本領である」ことの主張は、ほぼ全てにわたって川上健三『竹島の歴史地理学的研究』の文章からの引き写しである。このことをどのように考えるべきか。(P232,P233)

 川上健三は外務官僚で、外務省の政策が正しいものと国民に信じ込ませるために書いた本なのだろうから、まともな歴史研究書ではないということ、もっと言えば、外務省の主張は政治家の政治宣伝と同じ政治宣伝に過ぎないということだろう。

 1900年、韓国は勅令により鬱陵島と共に「石島」を領土に編入した。韓国では石島は現・竹島であると主張しているが、日本政府は否定している。本書では、日本に残る資料から、石島(標準韓国音トルソム)が竹島(韓国名・独島)(標準韓国音ドクト)のことである可能性を指摘している。(P240~P242)
 
 日本でも、マイナーな地名の漢字表記が一定しないことは多々あるので、「石島」「独島」と漢字表記が違っても普通のことだろう。
 群馬県西部の荒船山の最高峰は経塚山・行塚山・京塚山と言う。山頂の表示は経塚山で、途中の指導標には行塚山と書かれている。ガイドブックには京塚山と書かれているものがある。「京」と「経」はどちらも同じ音だけれど、「行」は音が異なる。どうしてこんなことになったのか、説明を聞いたことがないが、少し思い当たる節がある。
 荒船山の少し北側にある妙義山は「ミョウギ」と読むけれど、昭和初期以前生まれの地元の人たちは「ミヨギ」と言っていた。本当は「ミヨギ」ではなかったのだが、標準語の発音にはない音で、あえて書くと「ミヨギ」となるように私には聞こえた。ただし、私が少年のころ「ミヨギ」と言っていた父も、晩年になると「ミョウギ」と変わっていたので、この音はすでに失われている可能性が高い。荒船最高峰も松井田町・下仁田町の人達は、かつては「キヨヅカ」「ギヨヅカ」のように私には聞こえる発音をしていたはずだ。存在しない発音を聞いたとき、標準語の音で理解しようとすると、人によって聞こえ方が違ってくるものだ。ラジオ・テレビが普及した現在、若い人には地域独特の発音があったなど思いもよらないかもしれないが、昔はこれが普通のことだった。
 朝鮮の地方の人たちも、竹島のことを「石島」「独島」と言っていたのではなくて、その地域独自の発音だったのではないだろうか。その発音を中央の人が聞いた時、人によって異なった音に感じたという可能性は大きい。しかし、韓国でもラジオ・テレビが普及しているので、今となっては検証できないだろう。

伊方原発・運転差止2017年12月13日

 
 2017年12月13日、広島高裁は伊方原発3号機、運転差し止めの仮処分を決定した。現在は定期点検で停止中だが、新たな裁判がない限り再稼働できない。
 写真は、伊方原発。写真中央奥の円筒形が1号機で、手前のドームが2号機、右側でちょっと見えているのが3号機。違っているかもしれない。

本―ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎2017年12月14日

 
瀬藤祝/著『ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎 サンクトペテルブルクの幻影』新読書社 (2004/04)
 
 ソウザとゴンザは、享保13年(1728年)、ロシアに漂流した薩摩の青年。乗り組んでいた薩摩藩の船が嵐のため漂流した末、カムチャツカ半島に流れ着いた。二人以外は原住民に殺害されたり病死したりしたが、生き残った二人は首都サンクトペテルブルグに送られ、そこで日本語教師となる。ソウザとゴンザの死後もロシアの日本語学校は続いた。しかし、ソウザ・ゴンザの日本語は、鹿児島の庶民の言葉だったため、日本語学校で学んだロシア人の日本語は江戸の武士には通じず、その後の外交交渉等の役に立たなかった。
 
 本書はソウザとゴンザに関連した歴史書ではなく、史実らしきをもとにした物語を、お芝居風に描いたもの。

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