本の紹介‐教養としての日本宗教事件史2018年11月18日


  島田裕巳/著『教養としての日本宗教事件史』河出書房新社 (2009/10)
 
  本書は、2016年に文庫本で出版された『教養としての宗教事件史 (河出文庫)』に収録されている。
 
   日本に仏教が伝来した時から、最近の新興宗教まで、日本で起こった宗教がらみの話題24を取り上げて、それぞれを解説。取り上げている宗教がらみの歴史は雑多でまとまり感がない。
 
  「日蓮の真の敵は空海だった」の章に、密教が社会性を失ったと説明されている。
   しだいに密教は、もっぱら個人の救済という方向に、力点を移していくことになる。それは、国家のあり方を問題にした日蓮の立場からすれば、仏法を歪めていくことにほかならない。日蓮がその点をどこまで予見していたかはわからないが、密教の社会への浸透は、仏教から社会性を奪っていくことにもなっていった。
   この対立は今日にまで受け継がれている。創価学会をはじめとする日蓮系の新宗教は、社会といかにかかわるかを問題にし、だからこそ政界にも進出を果たしてきた。一方、密教の不動信仰を基盤に発展した真如苑の場合には、霊的なカウンセリングを中心とし、スピリチュアル・ブームを背景に教勢を伸ばしているが、社会活動への関心は薄く、政治的な動きもほとんど見せていない。(P62)
 
 しかし、そのように至った理由が記されておらず、また、社会性を失ったのが密教だけなのか、浄土真宗なども同じなのかも書かれていない。和歌山県根来の根来寺は織田信長に滅ぼされるまでは僧兵の拠点だったので、社会性を失ったのではなくて政治の力で失わされただけなのではないかとも思うので、本書の記述では著者の意図が良く分からない。

 最後の章「お一人様宗教の時代」は、真如苑がメインの話題。真如苑とオウム真理教の類似性として、共ににお一人様宗教であるとの説明がある。
 宗教教団がその教勢を伸ばしていく際には、終末論を掲げ、世直しを説くことが多い。ところが、真如苑には、そうした側面は見られない。それでも、ここまで教勢を伸ばしてきたのは注目に値するとも言えるが、終末論が不在であることによって、集合的沸騰とは無縁の宗教になっているのである。
 実は、この真如苑と極めて性格が似た宗教が存在していた。・・・オウム真理教のことである。・・・オウム真理教の信者たちは解脱をめざして修行を行っていたが、道場で修行をする際、集団で何かの行をすることはなく、たとえ多くの信者が集まって修行をしていても、各自はそれぞれに独自のプログラムに従って、勝手に修行を行っていた。そして、信者同士の横のつながりがほとんどなく、組織活動を展開しなかった点でも、真如苑と似ていた。密教の本質は、個人の救済ということに主眼が置かれている。衆生全体の救済をめざし、積極的に社会にかかわりを持とうとする法華信仰や日蓮信仰とはその性格が根本的に違うのである。
 ・・・
 私は、真如苑やオウム真理教のように、もっぱら癒しを与える個人主義的な宗教を「お一人様宗教」と呼んでいる。それは、創価学会のような集団主義的な宗教とは性格が大きく異なる。そこには、大きな時代の変化があり、家や会社組織などの集団が力を失い、個人化がはなはだしく進んだことが影響している。 (P205,206)

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