本の紹介―南方からの帰還2020年10月11日


増田弘/著『南方からの帰還:日本軍兵士の抑留と復員』慶應義塾大学出版会 (2019/7)
 
 シベリア抑留は有名で、抑留の苦労話や抑留実態の研究書も多い。しかし、南方抑留についてはあまり知られていない。本書は、南方地域での抑留に関する研究書。
  
 日本の敗戦に伴い、日本軍将兵は連合国軍に降伏することになった。このうち、東南アジアの日本軍はアメリカ・イギリスなどに降伏した。本書は、これら日本軍将兵の抑留に関する研究。参考文献もそれなりに豊富。
 第一章はイギリス軍管轄、第二章はオランダ軍管轄、第三章はオーストラリア軍管轄、第四章はアメリカ軍管轄下のフィリピンをそれぞれ対象としている。
 
 イギリス軍管轄地域では、1946年9月までに60万人の日本軍民が帰還したが、13万の日本軍将兵はその後も現地の復興を名目に抑留させられ、イギリス軍の下働きや、道路掃除などの雑役、石切などの重労働に使役させられた。第一章はイギリス軍が日本軍将兵を強制労働に使役するために抑留を続けようとするのに対して、マッカーサーが異を唱え、早期復員を求める様が、各種文書により詳述される。本章では、抑留日本軍将兵がどのような扱いを受けていたのかという点は、記述が少ない。
 イギリス軍管轄下の日本軍将兵は、戦犯などの犯罪受刑者を除き、1948年1月3日までに全員が復員した。強制労働に対する賃金をイギリスは支払っていない。
 
 旧蘭印はオランダの管轄となった。旧蘭印では、日本軍人のみならず民間人も併せて23万人が強制労働に使役され、13500人の将兵が残留を強いられた。彼らは1947年5月まで重労働などに従事した。蘭印の日本軍将兵のうち、戦犯の可能性が高い者を中心に、ポツダム宣言や玉音放送を無視して、連合国軍に投降することなく、インドネシア独立運動に身を投じたものも多かった。
 本書によると、捕虜を監督したオランダ軍人は、戦争中、日本軍の捕虜となり、残虐な扱いを受けていたものが多く、このため、日本軍捕虜に対して、厳しい仕打ちをした場合が多かった。ただし、本書の記述では具体的な話は少ない。
 マッカーサーの要請やインドネシア独立運動の激化などにより、オランダ軍管轄下の日本軍将兵は、戦犯などの犯罪受刑者を除き、1947年5月までに全員が復員した。強制労働に対する賃金は、イギリス同様オランダも支払わなかった。
  
 オーストラリアの管轄地は、1946年6月までには、ほぼ全員が日本へ帰還した。抑留帰還が短かった点では恵まれた地域と言えるが、抑留中の残虐行為の被害も知られている。マラリアに罹患し発熱した日本兵に重い荷物を担がせ、走れないと鞭で叩いて足蹴にする、あるいは、面白半分に拳銃弾をパチンコで顔面に当てて負傷させる等の悪質事例があったことが、本書に記されている。
 
 アメリカ管轄地だったフィリピンは、戦争中の日本兵が死者が多かったところである。降伏した日本軍将兵には衰弱し労働に不適なものが多かった。このため、アメリカ管轄地の日本軍将兵は抑留されることなく、早い段階で帰還したのだと思っていた。しかし本書によると、フィリピンで捕虜になり抑留のうえ強制労働に使役された日本軍将兵は10万人を超え、食料不足のなか炎天下の重労働に従事させられたものも多い。抑留者は段階的に帰還している。1946年12月までには約半分の5万名が帰還した。本章のまとめには、以下のように記載され、アメリカ管轄地でも、復員が送らされた実態が書かれている。  
 そして復員に関しては、今回発見された米軍側資料から、マッカーサーの早期復員方針に現地から批判が起こったことが判明した。フィリピン・沖縄に抑留されていた58000名の日本人捕虜は、米西部太平洋地域陸軍にとっては一連の復興作業や保全作業に不可欠であった。にもかかわらず復員政策が推進されたために、復興事業が進捗しないと司令官が不満を漏らしていた。つまり、英蘭軍がビルマ、マレー、インドネシアなどで日本人の復員を極力抑制しようとした動きが、実はフィリピンでも起きていたわけである。(P245) 

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