本の紹介-BC級戦犯2020年11月13日


田中宏巳/著『BC級戦犯 』(2002/7)ちくま新書
 
 A級戦犯は有名だけれど、BC級戦犯について書かれた本は多くはない。本書は太平洋戦争のBC級戦犯について書かれた本だが、戦犯の話にとどまらず、戦争の状況や捕虜となった日本将兵がどのように扱われたかなどにも触れられる。戦犯になった理由を解明するうえで戦争の状況を知ることが必要なのはわかるが、本書が新書版であることを考えると、話題を広げすぎのように思える。また、戦犯に対しては同情的な記述が多い。
 
 
少し長いが、興味のあった記述を引用しておく。
P106~P110 (捕虜の状況について)
 東部ニューギニアの日本軍は何カ所かの収容所に収容されたが、その中で最大であったのが、激戦地ウエワクの北方沖に浮かぶ周囲二〇キロのムッシュ島収容所であった。東部ニューギニアに派遣された日本軍は約一八万人、二万が途中で他地域へ移動したから、一六万人が残留した計算になるが、実際に生き残ったのはわずか一万=九七人、その大半がムッシュ島に収容された。ラバウルの日本軍から食糧の救援があったが、不十分な食事とマラリア等の病気によって、帰還前に一八九三人が死亡した。日本に帰還できたのは九二一四人である。
 また連合艦隊司令長官山本五十六が撃墜死したことでも有名な激戦地ブーゲンビル島で、最後まで降伏しなかった第十七軍隷下部隊はファウロ島に移され、苦しい自給自足生活を強いられた。移転の理由は現地民の反抗を恐れたということになっているが、小島の方が管理しやすいと豪軍が判断したためであろう。何もない島に移転させられたあとは、収容所の建設、自活のための農地開墾、それに道路造りなどの使役が待っていた。
 同島の「第十七軍諸隊露営部隊編成表」を見ると、将兵合わせて一万一八九四人にのぼり、これにポナペやナウル等の島から移転させた陸軍部隊や約一五〇〇人の海軍兵が加わり、一万五〇〇〇人を越す大型収容所が建設された。豪軍は日本兵をファウロ島の周辺諸島に分散させ、将官をマサイ島、佐尉官をタウノ島、海軍将兵をピエズ島とマサマサ島に居住させた。
 ファウロ島には致死率の高い悪性マラリア蚊や黒水病の危険があったが、なぜか帰還までに発病者の記録がない。しかしピエズ島では、悪性マラリア蚊やアミーバ赤痢などのため四〇%以上が亡くなったと推測されている。終戦までポナペ島で全員が生き延びた第四十二警備隊は、終戦後にピエズ島に強制移転させられてほとんどが失われ、戦犯容疑者として逮捕され連行された者と、最後までピエズ島にいた一人だけが半死半生で帰還した。
 戦後になって多くの死者を出したのは、戦争における敗者に対して必ず襲ってくる勝者による虐待に原因がある。戦争中、敵の上陸作戦や攻撃の対象にならず、自給自足によって犠牲者も出さず八月一五日を迎えた部隊や、飢餓状態にありながらジャングル内で終戦を知った者に、戦後になって忌わしい戦いが襲ってきたのである。移転と開墾、農耕、使役に駆り出されて体力を消耗し、そこに食糧不足や、マラリア、アミーバ赤痢が追い打ちをかけた。また収容所では復讐行為が行われ、これがもとで死亡する例もいくつかあった。

P136 (リンチ)
 私的制裁の横行については、英軍が管理するシンガポールのチャンギー刑務所とオートラム刑務所に関する伝聞が非常に多い。シンガポールの両刑務所では一日中、殴る、打つ、蹴るという拷問の音が響き、日本人のうめき声が絶えることがなかったといわれる。拷問の一手段として食糧を支給しないという手段を使ったのは、英軍が最初であった。こうした私的制裁によって多数の死者が出たのは、両刑務所に収容されていた帰還者の説明で明らかだが、しかし実際にどれだけの犠牲者が出たか、英軍が発表するはずもなく今日まで不明である。


P205~211(巣鴨移送)
 戦犯法廷が閉廷されると、裁判を行った連合国には、有期刑を言い渡した戦犯の服役を管理する責任が残る。しかし戦後処理を早く片づけたい連合国は、オーストラリアとフィリピンを除き、刑期を終えるまで戦犯を預かるつもりは毛頭なかった。
 その解決策として行われたのが、判決文を添えて戦犯を日本に送還し、東京の連合軍最高司令官の管理ドにおいて彼らを服役させるという方法であった。これに基づき巣鴨刑務所(巣鴨プリズン)への収容がはじまったのである。

 昭和二七年四月二八日には日華平和条約も調印され、これを期に中国関係のBC級戦犯が全員釈放された。フランス政府も、同じ時期に釈放を認めている。一一月一〇日には皇太子明仁殿下(現天皇)の成年式・立太子礼が行われることになっており、政府は関係各国に釈放を要請し、A級戦犯についてインド政府および中華民国政府の賛成を得た。A級戦犯は国際法廷で裁かれたため、釈放には関係国すべての合意が必要であった。
二七年一二月五日現在における拘禁中の戦犯者の内訳は…表のようであった。

刑務所   巣鴨 豪マヌス島 比モンテンルパ  合計
A級戦犯  12人     ー       ー   12人
BC級戦犯 799人    199人     109人  1107人

 朝鮮戦争勃発後、極東情勢が大きく変わる中で、戦犯問題の存在はアメリカの対アジア政策にとってプラスにならないと判断され仮釈放が加速された。昭和二九年九月一五日現在、巣鴨に服役中の戦犯の内訳は…表のようであった。

 米国 272人
 英国 95人
 豪国 160人
 蘭国 156人
 仏国・中国・比国 0人
 A級  13人
 合計 696人

 戦犯問題に決着をつけたのは、皮肉なことにA級戦犯容疑者として巣鴨に拘留された経験のある岸信介首相だった。
 ワシントンを訪問した岸は、昭和三二年六月二〇日、ダレス国務長官と「米国関係戦犯釈放に関する処置」について会談し、(イ)A級については刑の軽減による刑期満了の措置で解決をはかること、(ロ)BC級については日本政府が設置する調査会において、米側から移管した裁判記録により再調査を行い、日本政府が赦免勧告を行えば米国はこれに従うこと、の二点が合意された。他の国もこれに従ったものと思われる。
 昭和三二(一九五七)年一二月ご二日、アメリカ政府は裁判記録の提供を決定し、これを受けて日本側に調査会の設置が決まった。調査会は、中央更生保護審査会委員木内良胤、法務省保護局長福原忠男、巣鴨刑務所長須田寿雄の三人で構成されることになった。翌三三年初頭から調査会は活動を開始し、赦免勧告が提出されるとともに、アメリカ政府の承認を得て仮釈放が漸次実施された。この結果、五月三〇日には最後の服役者一八入が仮釈放され、一二月二九日には仮釈放者四八人が正式釈放になり、ここに戦犯は皆無になった。

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