本の紹介-密教2022年05月13日

 
松長有慶/著 『密教』 岩波新書(1991.7)
 
 普通の人が密教の概要を知りたいときに読む本としては、あまりお勧めできない。
 著者は、高野山の寺に生まれ、執筆当時は高野山大学教授・学長で、その後、金剛峯寺座主、高野山真言宗管長を務めた。岩波文庫は、専門外の一般人読者向けに書かれたシリーズであり、著者は一流の学者で、岩波新書向けに、客観的に密教を書いてはいるが、しかし、著者は、あまりにも高野山真言宗の中の人なので、本書も、真言宗の信仰が当然の立場で書かれた面があり、読みにくい。密教を学術的に解説する類似の書籍も多いので、もし初めて密教の解説を読むならば、他書を読むほうが良いと思う。
 
 本の内容は、5章あり、それぞれ、「密教の歴史」「密教の思想」「密教の実践」「密教のシンボリズム(曼荼羅など)」「密教の社会性」。
 密教の歴史はインド・チベット・中国・日本と密教の歴史を説明する。歴史の記述を客観的に書かれており、一般人にも容易に理解できる内容。「密教の思想」の章は、密教を知らなくても、密教思想の概要が理解できるような記述となっている。
 
 「密教の実践」の章は私には、何が書かれているのか、理解できないところがあった。
 「みずからの中に本来持っている聖なるものを見つけ出すためには、理性はまったく役には立たない。・・・悟りに入る直接の原因とはならないのである。(P95)」と書かれている。高野山大学教授が、高野山派のお寺の息子たちにこのように講義をしているのだとしたならば、それは理解できるが、高野山真言宗を信仰していないものにとって、この記述の意味は理解できない。「理性はまったく役には立たない」とは、著者の見解なのか、真言宗の教えなのか、密教の理解なのか、大乗仏教一般論なのか、仏教一般論なのか、それとも、理性が全く役に立たないものを「本来持っている聖なるものを見つけ出す」ことであると、言葉の定義をしたのか。著者の独善的見解が絶対真理であることを前提としているように感じるが、著者の独善的見解の内容説明がないと、私には理解ができない。
 阿闍梨になるということはどういうことなのか。P98には以下の記述がある。「師あるいは弟子のいずれかが素質に欠けた場合、伝統が消滅するわけであるから、阿闍梨と弟子の資格の認定にはきわめて厳重なチェックが必要となる。(P98)」 一方、P113では実際の阿闍梨の認定として以下の記述がある。「日本密教では、四度加行を修し終わった行者はつづいて、伝法灌頂を受け阿闍梨の位にのぼる。(P113)」とある。
 これは、どう読めばよいのか。素直に読むとこういう意味になるだろう。『本来、阿闍梨になるには厳密なチェックが必要だけれど、日本の真言宗では、四度加行を修し終われば、特別問題ない限り、ほぼ全員を阿闍梨にする。』著者は、このような趣旨で執筆したのだろうか。
 
 「密教のシンボリズム」は普通の内容なので、特に理解しにくいところがあるはずはないのだけれど、曼荼羅の図の解説と、密教の諸仏との関連を文字のみで説明しているので、かなりわかりにくい。図を書いてくれれば、もっとわかりやすくなるのに。

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