本の紹介-北海道の歴史〈上〉2022年06月27日


長沼孝、榎森進、田端宏、他/著『北海道の歴史〈上〉古代・中世・近世編』北海道新聞社(2011/11)
 
石器時代から明治になるまでの北海道の歴史。詳しい。

 クナシリメナシの乱の原因は、ほとんどすべての歴史解説書で、飛騨屋の横暴にあったと記される。しかし、飛騨屋側には、これを否定する「風説」が伝えられている。本書では、この風説に比べ、飛騨屋の横暴説が真実に近そうに見えることは明らかとしている。
 鎮撫軍の責任者、番頭の新井田孫三郎が残した記録には、取り調べで聴取した蜂起の理由が次のように記されている(「寛政蝦夷乱取調日記」『日本庶民生活史料集成』第四巻)。

 「めなし夷共申口」ー〆粕造りなどで働かされているが手当が少なすぎる(長人で米一俵、たばこ一把。ウタリではたばこ半把、マキリ一丁だけ)。アッケシでは粕〆割合手当があるが(粕はすべて和人に渡すが魚油の半分はアイヌ側の取り分とする)、メナシではない。「自分働」きができないほど暇なく使役されるので、越冬用の食料を準備するのも難しかった。アイヌの女房たちに対する「密夫」がひどく、「ツクナイ」を求めればかえって叩かれたりしている。働きの悪い者は殺してしまうとおどし、子供を背負っているメノコを釜へ投げこみそうにしてみせる、薪で叩かれて死んだ者、無理に飲まされた薬で死んだ者がいた。こんな有様だったのでやむをえずみんなで申し合わせて和人を「討殺」すこととなった。
 「くなしり蝦夷共申口」ー「密夫」がひどく、子供を生ませている者もいる。「ツクナイ」を求めるとかえって「非分」な扱いを受けるのであきらめている者が多い。手当は少なくて(長人で米糀三俵、ウタレは一~二俵、メノコはたばこ一~三把とマキリ一丁)、「自分働」のひまがないほど使われている。働きの悪いアイヌは殺してしまい、和人をたくさん連れて来て「シャモ地」(和人地)に変えてしまうと言っていた。支配人からもらった「暇乞の酒」を飲んでクナシリ総長人のサンキチが死んでしまうという事件も起きている。このような有様だったのでやむをえず「シャモ人」を「討殺」することとなった。

 「申口」を得るための取り調べはアッケシ長人イコトイ、ノカマッフ長人シヨンコ、クナシリ長人ツキノエが担当していたが、ほかにオサツ長人ネチカネ、シトウケンも立ち会っていた。オサツへは新井田孫三郎の知行所であり、日本語もできるこの町人たちを「間者」のように働かせるために出陣以前から騒動の現地へ派遣して情勢を調べさせていた(「蝦夷騒擾一件取計始末覚」)。 このオサツへアイヌ立ち会いのもとでの「申口」なので、ほぼ正確な記録なのかと思われる。
 飛騨屋のアッケシ場所支配人であった伝七も、前掲の「蝦夷人共申口」と同じことを述べていた。理不尽な「密夫」のこと、アッケシで行われている〆粕割合手当がクナシリにはないこと、主なアイヌを殺して和人を移し「シャモ地同様」にするという風聞のあったことなどを、伝七も述べていたのである(前掲「寛政蝦夷乱取調日記」の伝七・吉兵衛申口)。
 幕府の「間者」として松前に来ていた青嶋俊蔵も、新井田孫三郎に連れられて騒動の現地から松前まで出て来ていた「夷」に尋ね聞いたことを報告するなかで、「商人共交易方非分」のことや、領主の家来も「威服」ばかりを考え「教化」を心得ていないので自然と反抗的になってしまう、「夷」たちは「商人共不法」がひどいのでやむなく殺害に及んだのであり、「不埒」のことを行ったとは思っておらず、「償ひ」の品を提出することで処分も済むと考えていたらしい、と述べていた(「蝦夷地一件(五)」)。

 飛騨屋側には、前掲の「蝦夷共申口」を否定する「風説」が伝えられている。飛騨屋に対して悪意を持っている三右衛門が通辞頭となって新井田孫三郎らと同道、現地で飛騨屋を悪く言うように仕向けたのだという。三右衛門は私欲をはかって飛騨屋から罷免されていたもので、飛騨屋の通辞がアイヌたちと懸け合いを行おうとすると、飛騨屋の者は「蝦夷共へ懸合ひ相成らず」と大いに怒っていたという(「飛騨屋文書」『根室市史』史料編)。この「風説」より「蝦夷共申口」の方が真実に近そうに見えることは、伝七の「申口」などからも明らかであろう。「商人共交易方非分」とか「商人共不法」と指摘されるような方法をとってでも収益を追求しなければならない事情が飛騨屋側にはあったのである。

 松前藩への莫大な貸付金の返済のかわりにエトモ、アッケシ、キイタッフ、クナシリ、ソウヤの五場所を請け魚うこととなった飛騨屋であったが、 山請負(伐木業)と同じような経営上の経験を、漁場経営、漁獲物取引を中心とした場所請負について重ねて来ていたわけではなかった。 「未だ仕馴れざる儀二候得共御証文請取商売仕リ候」(馴れないことではあったが、藩と約束をかわして商売することとなった)としていたのである (「飛騨屋武川家文書」のうち寛政元年十一月十九日提出の訴状)。奥地の大場所を請け負うことになって大規模な商売ができるはずのところ、 エトモは大津屋へ、キイタッフは材木屋へ、ソウヤは阿部屋へそれぞれ下請けに出してしまっていたのは資金面や、経営経験上の問題が考えられていたからだと 思われる(河野資料「飛騨屋旧記」のうち「萬覚帳」の抜書)。(P290,P291)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

* * * * * *

<< 2022/06 >>
01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

RSS