本ー日中 親愛なる宿敵2018年08月09日

    
シーラ スミス/著、伏見岳人・他/訳『日中 親愛なる宿敵: 変容する日本政治と対中政策』東京大学出版会 (2018/3)
   
近年の日中対立ををテーマとした現代史の研究・解説書。
全6章のうち、「第4章 東シナ海の境界画定」「第6章 島嶼防衛」で尖閣問題を扱っている。
   
日中対立関連の近年の歴史的経緯が詳しくまとまっているので、知らない人や忘れた人には便利な本と言えるのだろうけれど、ある程度の年齢の日本人で、日ごろから新聞を読んでいるならば、すでに知っていることが多い。
原書は英語なので、日中関係という国際的に見たらマイナーな話題を広く世界に知らしめるという点では評価できるが、日本語に翻訳したものを日本人が読む価値がどれだけあるのかというと、良く分からない。

ホームページ更新2018年03月17日

竹島切手のページに2005年に北朝鮮が発行した切手を追記しました。
日本の乱獲で絶滅した二ホンアシカが図案になっています。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/TakeshimaKitte/Takeshimakitte.htm

竹島問題のページはここをご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html

本―防人の島「対馬」が危ない!2018年01月31日

 
日本会議地方議員連盟/編集『防人の島「対馬」が危ない!』 明成社 (2009/4)
 
 五十数ページの薄い本。本の内容には少々あきれた。対馬の過疎化・高齢化以上に、地元議員の劣化が進んでいるのだろうか。
 対馬は朝鮮半島に近いので、近年韓国人観光客が増大している。しかし、対馬の人口はS35年には7万人程度だったのに、現在では3万人程度と大幅に減少し、また、高齢化も進んでいる。
 本書は、日本会議の地方議員を中心に、対馬が韓国に奪われる危機であることを解いて、特別立法が必要であることを主張するもの。対馬では、韓国資本が観光開発に入り、一部の土地を買っていることは事実だ。人口減少と韓国人観光客の急増により、島内には韓国人がいて、ハングルの掲示板を見かけることも事実だ。このため、国土防衛上好ましくないと考える気持ちもわからないではない。
 国境の町は、国境貿易・交流を通じて発展してきた。江戸時代の対馬も朝鮮と日本の交流の拠点として潤っていた。このように考えると、過疎地の対馬が韓国人観光客によって活性化することは好ましいことだ。また、韓国資本が投入されて、観光開発がなされることも、国境の町の発展には好ましいことと言える。
 しかし、本書では、韓国人観光客の増大と韓国資本によって国境の町が乗っ取られるのではないかと危機意識を主張している。日本人住民が減少して、韓国人住民が増加すれば地方自治・国境防衛に問題が生じる可能性はあるが、観光客と住民とは異なるので、本書の主張は、少々的外れな感じがする。もっとも、気付いたときには手遅れとならないように、国家防衛を早手回しすることは必要なことで、そのために、危機意識を誇張しているのならば、それは理解できる。
 ただし、本書の主張する対策はお粗末で情けないものだ。日本の離島では、小笠原・奄美・沖縄に対して復興特別処置法があるので、類似の法律を対馬にも作るように求めている。しかし、小笠原・奄美・沖縄は終戦後占領された地域が日本に復帰したために、特別処置法が制定されたものであるのに対して、対馬は一貫して日本の領土なので、小笠原・奄美・沖縄の例は参考にならない。また、本書の最後に特別処置法の制定を求める長崎県神道議員連盟会長の要望が記載されているが、これによると、要するに「現在実施されている離島振興の枠を超えた抜本的な各種施策」を求めているもので、具体的な中身が全くない。常識的に考えたら、対馬の振興は、韓国資本を導入して、韓国人観光客を増やすことだ。これを否定しながら具体策もなく「なんとかして」と言っても、難しいだろう。地元の振興策は、地元を一番よく知っている、地元議員が具体策を練らない限り、話は進まない。

 戦前・朝鮮半島との交通の拠点として栄えた敦賀は、戦後になって、その機能が失われると、一気にさびれてしまった。そのような状況を立て直すために、敦賀市は原発を積極的に誘致して町の発展につとめた。特に危険と思われていた『もんじゅ』も敦賀に作られた。敦賀の例を参考にすれば、韓国人観光以外の方法で対馬が発展するためには『高レベル放射性廃棄物最終処分場』の誘致が現実的な解決策だと思う。そうすれば、韓国人観光客も減るだろう。ところが、対馬市議会は2007年に誘致反対の決議をしている。「あれもだめ、これもだめ、対策はないので何とかしてくれ」では情けない。

ホームページ更新2018年01月23日

 
尖閣問題のページに「冊封と閩人三十六姓」を作りました。
http://nippon.nation.jp/Senkaku/Rekishi/Binjin/index.html
 
 琉球は明・清を宗主国とする藩属国だったこと、および、中国・琉球間の航海は明の福建から渡琉した人たちによって担われてきたことを書きました。
 
 中世、琉球は中国のみならず、シャム・マレイ等とも活発な交易をしていて、そのための船は明からもらったもので、船舶の修理も明に依存しており、航海技術も福建出身者によって行われていました。今後、このことをもう少し書き足します。

 琉球は明・清の藩属国だったため、観念的には、琉球は中国の領土でした。大陸と琉球の中間にある尖閣諸島は中国の内部にあるので、中国の領土でした。日本が声高に「尖閣は日本固有の領土」などと言っても、とても受け入れられない主張です。
 
尖閣の領土問題は以下をご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Senkaku/index.html
 
北方領土問題は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm
 
竹島の領土問題は以下をご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html

ホームページ更新2018年01月08日

 明治二年(一八六九)、明治政府が三六町の一里に統一される以前には、さまざまな「里」が使われていました。陸と海、平坦な道と山地、地域による違い、時代による違いなど様々な要因がありました。竹島問題を論じる場合は、隠岐地方での一里の長さがどれだけであったのかを知ることは有用なことです。
 そこで、以下のページに、隠州視聴合記(1667年)における里程の記述を見ることにより、一里≒2㎞であることと、長久保赤水『新刻日本輿地路程全図』(1791)では、隠岐と美保関の距離から、一里≒1.8㎞であることを記載しました。

http://nippon.nation.jp/Takeshima/Ullundo/40Ri.htm


竹島(独島)問題はこちら。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html

本の紹介ーニッポンのサイズ2018年01月07日


石川英輔/著『ニッポンのサイズ 身体ではかる尺貫法』(2012.1)講談社文庫

 計量単位はメートル法による、SI単位系の使用が原則義務付けられている。長さはメートル、質量はキログラム、時間は秒、電流はアンペアを基本とする。日本でメートル法が実施されたのは明治中ごろであるが、実際に普及するのは戦後になってからである。それ以前は尺貫法を基準とする単位が使われていた。
 本書はメートル法以前に日本で使用されていた計量単位の解説。

 長い距離の単位は「里」が使用されていた。明治24年に1里=約4kmと定められる以前には、日本においても様々な「里」が使用されていた。この間の事情については、第11章に詳しい。「里」の理解のために大変参考になるので、最後に主要部分を記載しておく。

 日本の領土問題のうち、韓国が領有している竹島・独島について、島根県の竹島問題研究会座長を務める下條正男・拓殖大学教授は史料の恣意的解釈が多く、またしばしばその所説を変更するなど問題が多いことで知られている。(坂本悠一『社会システム研究』2014年9月参照)
 下條氏の著書『安龍福の供述と竹島問題』P20には、「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島(現在の竹島)の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。鬱陵島と竹島の距離は約90㎞なので、帆船の順風時の船速4~5ノットとすると、10時間程度で到着することになり、「その日のうちに到着したとしている」安龍福の供述は現実と合致する。下條氏は明治中期以降に定められた1里=4キロメートルを当てはめて、200キロメートルであると即断して、「その日のうちに着くのは物理的に不可能に近い」と判断したのだろうか。
 本書は講談社文庫という一般人を対象とした書籍であるが、この程度の教養さえあれば、下條氏でも、もう少しまともな本が書けたのではないかと思うと、残念である。
(参考)
ニッポンのサイズ 第11章 一里という距離(P116~P123)

(一部省略)
 長い間、日本人が慣れ親しんできた距離の単位の「里」は、もともとは古代中国の周にはじまる面積の単位だった。周代の一里は、一辺が三〇〇歩つまり一八〇〇尺の正方形だったから、この一辺の長さが「里」として独立して長さの単位となった。一辺一里の正方形の面積を同じく一里と呼べば混乱しそうだが、昔の人は別に困らなかったらしく、距離の単位として普及した。
 この場合の一尺を、カネ尺のもとになった三〇センチに近い長さとすれば、周代の一里は、五四〇メートルぐらいの距離になる。歩いて五分ぐらいなので手頃だったせいか、中国では古代から、この五五〇メートル前後の一里を距離の単位として長い間使ってきた。
 しかし、公式の単位として決まったのは清朝になってからで、清朝の一里は、五七八メートル。ほぼ同じ時代の李朝の一里も、五五〇メートルぐらいだから、いちいち精密な測量をしなければ、同じ距離といっていいだろう。中国の国民党政府では、きりの良いところで五〇〇メートルを一里とした。だが、この「新一里」が広大な中国でどこまで普及したかはわからない。
 日本でも、律令制度ができる前から、五町の一里と六町の一里があった。この場合の一町は六〇間で約一〇九メートルだから、五町は約五四五メートル、六町は約六五四メートルだ。六町の一里がもっとも一般的だったが、実測して距離を決めるのではなく、歩く時間や旅行の日程から割り出した数なので、五町の一里でも六町の一里でも、実質的には大差なかったそうだ。
 このように、東アジア漢字文化圏の一里は、長い間、五〇〇メートルと六〇〇メートルの間ぐらいの距離が普通だった。
 千葉県東北部の海岸として有名な九十九里浜は、北の刑部岬から南は太東崎まで約五六キロメートルあるが、五町を一里とすれば一〇四里。鎌倉の七里ガ浜は、約四キロメートルなので、七・四里。いずれも、九十九や七のように語呂や縁起の良い数におきかえて地名にしてあるが、でたらめな数値でないことがわかる。

三六町の一里
 われわれが親しんでいた一里一時間の一里は、この六倍つまり三六町だったが、昔の日本にはいろいろな一里があった。なぜ多くの種類ができたかというと、里を距離の単位というより、徒歩の旅にかかる労力を表す数字として使うようになったからである。
 山坂の多いコースなら短い距離を一里とし、平坦なコースなら長い距離を一里としたほうが、実際に旅をする人にとって労力の見当がつけやすい。具体的にいうなら、三六町の一里の距離は、七二町の一里の半分しかないが、平均して二倍の時間がかかる道に使えば、同じ里数ならどこでもほぼ同じ時間で行き着ける。そのため、地形の複雑なわが国では、地方によって、三六町里、四〇町里、四八町里、五〇町里、六〇町里、七二町里などさまざまな里ができた。
 『単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝編著)によると、江戸時代には、平坦な山陽道が七二町里、難所の多い東海道、中山道が三六町里、伊勢路が中間の四八町里というように、街道によって使い分けていた。この場合、一里は一定の距離を表す単位ではなく、街道によって違う旅程の区切りを示す数だったが、そういう慣行を認める一方で、徳川幕府は、慶長七年(一六〇二)に三六町を一里と定める布令を出した。
 明治二年(一八六九)、明治政府は慣行としてのさまざまな里を廃止して、三六町の一里だけに統一し、明治二四年(一八九一)の度量衡法では、一里=三六町=一万二九六〇尺=43,200/11メートルと決めた。計算すると、三・九二七キロメートル、大まかにいって四キロメートルのこの一里こそが、私がかつて親しんだ一時間で歩ける一里だった。
 昔の時間なら半刻で一里というところで、このあたりが人間サイズの単位のなじみやすさなのだろう。私は今でも、はじめての場所へいく時など、地図を見ながら一キロメートル一五分ぐらいで所要時間の見当をつけて、タクシーにのるか歩くかを決めるが、本当に身にしみついているのは一里一時間の感覚である。(以下省略)

本の紹介ー日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか2017年12月10日


池内敏/著『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』

 近世日朝関係史が専門の池内敏教授による、近世日朝関係の解説。

 著者は竹島問題の研究書『竹島問題とは何か(名古屋大学出版会)』、および一般向解説書『竹島 もうひとつの日韓関係史 (中公新書)』を出版している。本書は近世日朝関係を扱ったものだが、全体の1/4程度で竹島問題関連事項を解説している。

 本書は13章に分かれ、各章で日朝交流史関係の話題を扱っている。それぞれの章に、直接的関連はないので、興味がある章だけを読んでも構わない。この本は、大学の集中講義に使用したそうだ。欠席した講義があっても、話が分からなくなることがないように工夫されている、親切な講義だ。対象の学生はだれだったのだろう。歴史を専門とする学生が対象ならば「欠席するな」と言いたいし、学部生の一般教養だとしたら、内容が難しすぎるように感じる。
 本のタイトルは「日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか」となっているが、この問題に直接解答を与えるものではなく、日朝関係史の話題を提供するものになっている。

 竹島問題に直接関係しているのは『第3章 元禄竹島一件』『第9章 19世紀の鬱陵島』『第10章 竹島の日本領編入』の3つの章である。

『第3章 元禄竹島一件』は1692年に鬱陵島で日本と朝鮮の漁民が出会ってトラブルとなり、日本・朝鮮の交渉の結果、鬱陵島は朝鮮領であり日本人の渡島が禁止されるに至った事件の解説。この事件では、安龍福が現・竹島を朝鮮の領土だと主張したとかしないとか、いろいろな言説があるが、本章には安龍福の記述はない。信用のおけない歴史資料は使わないほうが良いということだろうか。
 P88に、「竹島考」の竹島松島之図が掲載されている。著者がどのような理由でこの地図を載せたのか分からない。この地図は1724年頃に作られたものだが、松島(現・竹島)が隠岐4島と同程度の大きさに描かれている。実際には隠岐4島で一番小さい知夫里島と比べても1/100以下なので、正保国絵図(1600年代に完成)と比べると、かなり稚拙な出来栄えだ。当時、現・竹島に関する知識が少なかったことがうかがえる。

 『第9章 19世紀の鬱陵島』は鬱陵島への日本人の進出の歴史が説明されている。中心は、幕末から明治だが、元禄竹島一件などにも触れられていて、第3章を読まなくても本章だけで、鬱陵島への日本人の進出の歴史が分かるようになっている。ここでは、史実のみ安龍福にも触れられている。本章は鬱陵島の話なので、竹島問題とは直接関係ないが、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていたので、鬱陵島進出史を知ることが、竹島問題理解には欠かせない。
 P209に桂小五郎・大村益次郎等による鬱陵島開拓建白書の説明がある。司馬遼太郎の「花神」では、大村が桂に竹島開拓を提案した話があるが、司馬の小説は史実ではない。鬱陵島と無関係に竹島を開拓しようとしたことは、竹島が日本に編入される前後までなかった。

 『第10章 竹島の日本領編入』はページ数が若干少ない章で、江戸時代の竹島利用と竹島の日本領編入の説明。
 現在、日本政府の主張では、竹島は江戸時代から日本の領土であったとされているが、本書では、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていた事実を指摘して、日本政府の主張を完全否定している。

 日本政府の主張は、川上健三の著書がもとになっているが、本書では、川上の研究方法自体を厳しく批判する。
 ・・・鳥取藩が「竹島も松島も鳥取藩領ではない」と述べたことを受けて元禄竹島渡海禁令が発令されたという事情に鑑みれば、元禄竹島渡海禁令は、法令上に「松島への渡海禁止」が明言されていなくても、そのことは含意されている。さらに、元文五年(一七四〇)に家業の保障を求めて寺社奉行と相談をした大谷九右衛門勝房は、当時、元禄竹島渡海禁令を「竹島.松島両島渡海禁制」と理解していたし、応対した寺社奉行たちも同様に「竹島・松島両島渡海禁制」と明言している。したがって、浜田藩家老の解釈は誤読であり、その誤読をもって「松島への渡航はなんらの問題もなかった」と述べるのもまた明白な誤りである。
 そして何より大問題なのは、川上健三は、外務省職員として自ら大谷家文書の原本調査をした際に、元禄竹島渡海禁令が「竹島・松島両島渡海禁制」であることを史料上に確認しておきながら、その大著『竹島の歴史地理学的研究』のなかではその事実を黙殺したことである。禁令が「竹島.松島両島渡海禁制」であることを知っておりながら、その文面には「松島渡海禁止」と書いていないと強弁し、元禄竹島渡海禁令後も日本人が松島(竹島/独島)を継続して活用した可能性を説いたことである。
 現在、日本外務省のHPに記される「竹島は江戸時代以来連綿として日本領である」ことの主張は、ほぼ全てにわたって川上健三『竹島の歴史地理学的研究』の文章からの引き写しである。このことをどのように考えるべきか。(P232,P233)

 川上健三は外務官僚で、外務省の政策が正しいものと国民に信じ込ませるために書いた本なのだろうから、まともな歴史研究書ではないということ、もっと言えば、外務省の主張は政治家の政治宣伝と同じ政治宣伝に過ぎないということだろう。

 1900年、韓国は勅令により鬱陵島と共に「石島」を領土に編入した。韓国では石島は現・竹島であると主張しているが、日本政府は否定している。本書では、日本に残る資料から、石島(標準韓国音トルソム)が竹島(韓国名・独島)(標準韓国音ドクト)のことである可能性を指摘している。(P240~P242)
 
 日本でも、マイナーな地名の漢字表記が一定しないことは多々あるので、「石島」「独島」と漢字表記が違っても普通のことだろう。
 群馬県西部の荒船山の最高峰は経塚山・行塚山・京塚山と言う。山頂の表示は経塚山で、途中の指導標には行塚山と書かれている。ガイドブックには京塚山と書かれているものがある。「京」と「経」はどちらも同じ音だけれど、「行」は音が異なる。どうしてこんなことになったのか、説明を聞いたことがないが、少し思い当たる節がある。
 荒船山の少し北側にある妙義山は「ミョウギ」と読むけれど、昭和初期以前生まれの地元の人たちは「ミヨギ」と言っていた。本当は「ミヨギ」ではなかったのだが、標準語の発音にはない音で、あえて書くと「ミヨギ」となるように私には聞こえた。ただし、私が少年のころ「ミヨギ」と言っていた父も、晩年になると「ミョウギ」と変わっていたので、この音はすでに失われている可能性が高い。荒船最高峰も松井田町・下仁田町の人達は、かつては「キヨヅカ」「ギヨヅカ」のように私には聞こえる発音をしていたはずだ。存在しない発音を聞いたとき、標準語の音で理解しようとすると、人によって聞こえ方が違ってくるものだ。ラジオ・テレビが普及した現在、若い人には地域独特の発音があったなど思いもよらないかもしれないが、昔はこれが普通のことだった。
 朝鮮の地方の人たちも、竹島のことを「石島」「独島」と言っていたのではなくて、その地域独自の発音だったのではないだろうか。その発音を中央の人が聞いた時、人によって異なった音に感じたという可能性は大きい。しかし、韓国でもラジオ・テレビが普及しているので、今となっては検証できないだろう。

本ー安龍福の供述と竹島問題2017年11月23日

   
下條正男/著『安龍福の供述と竹島問題』島根県総務部総務課/ハーベスト出版 (2017/3)
  
 著者は島根県の竹島問題研究会座長を務める拓殖大学教授。このため、著者の主張は島根県のホームページやpdfファイルなどに公開されているものが多い。本書は30ページ余りの小冊子で、17世紀末に日本に来た安龍福の供述を解説するもの。無料で読める内容を超えるものではないので、本書をわざわざ購入する必要性は全くないだろう。
 安龍福の供述には、ほら話が含まれていることは確実だが、だからと言ってすべてが嘘だというわけでもない。このため、安龍福供述については、他の資料を基に、事実とそうでないことを分ける必要がある。しかし、本書は、そのようなことはせずに、一部に真実でないことがあるとあげつらうことによって、あたかもすべてが虚偽であるかのような印象操作をしているように感じられる。でも、それが著者の出版の目的なのだろうから、それはそれでも良いことだろう。
  
 しかし、不正確な言葉使いで、自説をごり押ししているように思える記述が散見される。
 2か所、指摘する。
  
 本書、P20に「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。村上家文書には「安龍福申候・・・竹嶋と朝鮮之間三十里竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候」とあるので、安龍福が日本で、鬱陵島と松島の間は五十里であったとしたことは正しいのだろう。しかし、約200キロはどこから言えるのだろう。日本では1里は4キロであるが、中国・朝鮮では0.4~0.5キロと日本の十分の一程度をいう。村上家文書の記述が安龍福の証言を書き留めたのか、日本の里程と朝鮮の里程を換算した数値を書き留めたのか、この点を明らかにすることなく、唐突に200キロとしている点は、まじめに歴史を見る態度とは思えない。
  
 P29には「安龍福は日本の漁民が松島に住んでいると証言しました。当時、竹島には人が住んでいたのでしょうか。」と書かれている。現代日本語で「住む」というと、そこに住民票を移して最低でも数年間住み続けることをいうかもしれない。しかし、漢文で有名な李白の詩の一節「両岸猿声啼不住」の「住」は現代日本語の「住む」という意味ではなくて「停止」するという意味である。また、現代中国語ではホテルに一泊することを「住宿」と言う。このように、当時、竹島に現代日本語の意味で人は住んではいなかったけれど、漢文や現代中国語の意味で、竹島に人が住んでいた可能性は十分にある。

本の紹介―中国と南沙諸島紛争 問題の起源2017年09月13日


呉士存/著、朱建栄/編 『中国と南沙諸島紛争 問題の起源、経緯と「仲裁裁定」後の展望 』花伝社 (2017/4)

 南沙諸島紛争を中国の立場から解説。一般的解説書ではなくて、歴史的・法的見地から中国の正当性を研究した専門書。この本を読めば、南沙諸島中国領論の根拠の全貌がわかる。

 中世において、中国人船員によって南沙諸島の島は航海の目印、あるいは貿易船の中継地として利用されていた。

 近代では、1930年代初頭にフランスが南沙諸島の領有宣言し、すでに太平島で採掘作業をしていた日本人を追放した。フランスの領有宣言に対して、中国・日本が抗議している。1939年(昭和14年)に、日本は南沙諸島の領有を宣言しフランス軍やベトナム漁民を追放した。これ以降、日本・フランスで領有権争いが起こるが、1940年にフランスがドイツに侵攻されると、日仏間における極東での日本優位を定めた「松岡・アンリ協定」が締結され、南沙諸島からフランスは撤退した。一方、中国は日本の領有宣言にも抗議したが、日中戦争で日本の侵略を受ける事態となって、交渉の機会は失われた。このような経緯で、南沙諸島は日本が領有・実効支配することになった。南沙諸島を領有した日本は台湾・高雄市の管轄としたため、南沙諸島は台湾総督の管轄区域となった。
 1945年10月25日、日本の敗戦に伴って、台湾の施政権が台湾総督から中華民国に移された(台湾光復)。中華民国は南沙諸島を広東省の管轄にした。第2次大戦終戦の混乱期の1946年に一時フランスが南沙諸島のスプラトリー島を占拠したが、第1次インドシナ戦争の影響で撤退した。1952年、日本はサンフランシスコ条約により南沙諸島の領有を放棄した。

 中世の領有が近代においても通用すると考えるならば、南沙諸島は中国領と考えることが妥当だ。この場合、戦前の日本の領有は不当なものと考えられる。
 一方、中世の領有は近代では通用しないと考えるならば、戦前の日本の領有は正当なものだ。敗戦の結果、中華民国に施政権が渡り、日本が領有権を放棄したのだから、戦後、中国・台湾が南沙諸島を支配・領有することは正当だ。いずれにしても、南沙諸島の領有権は中国か台湾にある。しかし、現実は、南沙諸島最大の太平島は台湾が実効支配しているが、それ以外の小島は、フィリピンやベトナムが支配する島が多い。これは、フィリピンや南ベトナムが中国の混乱に乗じて、占領したためである。

 他国の混乱に乗じて無人島を占領しても、領土が割譲されたことにはならないので、一般的に言えば、フィリピン・ベトナムなどの占領は不当なことだ。しかし、フィリピンはアメリカの同盟国なので、南沙諸島をフィリピンが領有することはアメリカの軍事戦略にとって有利だ。このような理由で、現在では、南沙諸島に中国の勢力が及ぶことに対して、米国を中心とする国際社会は批判的である。日本も、この地域に米国軍事力が展開されていたほうがシーレーン防衛の観点から好ましいので、中国の支配には批判的になる。

 本書は、南沙諸島の歴史的経緯と国際法問題を説明し、中国の立場を説明したものである。
 しかし、現実政治は、アメリカの軍事戦略や西側国家の経済的利益によって決定されることが多い。本書では、これらの点にあまり触れらていない。

すすめない本―尖閣だけではない沖縄が危ない!2017年09月03日

   
 読むことをすすめないが、忘れないようにタイトルのみ書き留めておく。
   
惠隆之介/著『尖閣だけではない 沖縄が危ない!』 ワック (2017/4)
      
 尖閣問題に関連して危機感を煽る本だが、それはそれで良いでしょう。執筆には著者なりの目的があるのだから。でもね、歴史や法解釈が、我田引水だったりデタラメでは困る。読んでいて、ばからしくなった。
 著者の経歴を見ると、防衛大卒業後自衛官を務めたようだ。私の高校の同級生で防衛大に進んだものがいたが、あまり成績は良くなかった。あまり頭の良くない人が、独善的組織でずっと過ごすと、こんな感じになるのかな。

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