本の紹介-サピエンス全史2021年09月02日

 
ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳『サピエンス全史 上・下』河出書房新社 (2017/3)
  
 有名で話題になっているので、遅ればせながら読んでみました。人類史の本。史実よりも、著者の歴史認識が中心。具体的な話題が豊富なので、お話として読みやすいが、冗長に感じる。もう少し、内容を圧縮してほしかった。
  
 上巻が第1部から第3部の途中まで、下巻が第3部の途中から第4部。
 上巻の第1部は人類誕生以前から農業以前までで、第2部が農業革命。この部分で、上巻の3/4程度を占める。この部分は良く知られた史実を書いていることが多いので、特に目新しい感じはしない。読み飛ばしても、良いように思った。
 上巻の最後1/4から第3部になり、第3部は下巻に続き、下巻の1/4を占める。私には、第3部が一番興味を持てた。内容は、人類が世界に発展した原因として、「貨幣(上巻)」「帝国(上巻)」「宗教(下巻)」を挙げ、それぞれを説明している。西洋人が宗教という時に、神への信仰と捕らえる場合があるが、本書の著者は、宗教を広く、超人間的な秩序の信奉であって人間の規範と価値観となるものと定義し、仏教や儒教のように神を措定しない宗教や、資本主義や共産主義のようなイデオロギーをも宗教に含めている。
 第4部は分量があって、ここでは科学と資本主義の関係など、科学について論じている。最後の方の第19章で「文明は人間を幸福にしたのか」について論じ、自由主義の幸福観を提示した後、これが、キリスト教のような宗教や過去の道徳とは全く異なるものであると説明する。
 
 自由主義における幸福感を否定的に記述した後、下巻P237-P239には、仏教における幸福感を示している。これを読んだだけでも、著者が仏教に対して深い知識を持っていることがうかがわれる。
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 宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探究方法をとってきた。なかでもとくに興味深いのが、仏教の立場だ。仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。二五〇〇年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。
 幸福に対する生物学的な探究方法から得られた基本的見識を、仏教も受け容れている。すなわち、幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識だ。だが仏教は、この共通の見識を出発点としながらも、まったく異なる結論に行き着く。
 仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。脚を掻くことであれ、椅子で少しもじもじすることであれ、世界大戦を行なうことであれ、生涯のうちに何をしようと、私たちはただ快い感情を得ようとしているにすぎない。
 だが仏教によれば、そこには問題があるという。私たちの感情は、海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。五分前に喜びや人生の意義を感じていても、今はそうした感情は消え去り、悲しくなって意気消沈しているかもしれない。だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。だが、仮にそれに成功したとしても、ただちに一からやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いはけっして得られない。
 そのようなはかない褒賞を獲得するのが、なぜそこまで重要なのか?現れたが早いか消えてなくなるものを達成するために、なぜそれほど苦労するのか?仏教によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも、悲しみの感情でもなければ、無意味さの感情でさえないという。むしろ苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。そして感情を追い求めれば、私たちはつねに緊張し、混乱し、不満を抱くことになる。この追求のせいで、心はけっして満たされることはない。喜びを経験しているときにさえ、心は満足できない。なぜなら心は、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。
 人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。瞑想するときには、自分の心身を念入りに観察し、自分の感情がすべて絶え間なく湧き起こっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るものとされている。感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け容れられるようになる。ああだったかもしれない、こうだったかもしれないなどという空想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのだ。
 そうして得られた安らぎはとてつもなく深く、喜びの感情を必死で追い求めることに人生を費やしている人々には皆目見当もつかない。一生喜びの感情を追求するというのは、何十年も浜辺に立ち、「良い」波を腕に抱きかかえて崩れないようにしつつ、「悪い」波を押し返して近づけまいと奮闘するのに等しい。来る日も来る日も、人は浜辺に立ち、狂ったようにこの不毛な行ないを繰り返す。だがついに、砂の上に腰を下ろし、波が好きなように寄せては返すのに任せる。何と静穏なことだろう。
 このような考え方は、現代の自由主義の文化とはかけ離れているため、仏教の洞察に初めて接した西洋のニューエイジ運動は、それを自由主義の文脈に置き換え、その内容を一転させてしまった。ニューエイジの諸カルトは、しばしばこう主張する。「幸せかどうかは、外部の条件によって決まるのではない。心の中で何を感じるかによってのみ決まるのだ。富や地位のような外部の成果を追い求めるのをやめ、内なる感情に耳を傾けるべきなのだ」。簡潔に言えば、「幸せは身の内に発す」ということだ。これこそまさに生物学者の主張だが、ブッダの教えとはほぼ正反対だと言える。
 幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。
(下巻P237-P239)
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