竹島は日韓どちらのものでしょう2006年11月01日

 戦前の子供達は、竹島をどのように学んでいたのだろうか。そんな思いがあって、昭和9年の帝国書院中学地図教科書の復刻版をじっくりみました。この地図で、竹島は朝鮮に属しているのか、日本本土に属しているのか、知りたかったのです。
 ところが、竹島が載っている地図がありません。日本本土の地図は、隠岐までしか載っていません。朝鮮の地図には、鬱稜島までしか載っていません。日本本土・朝鮮の両方が書いてある地図は、小さすぎて、竹島はありません。
 昭和9年の地図では竹島への関心が全く有りません。ま、そうかも知れませんね。住民いない、小さな岩島です。中学生が学ぶ価値のある島ではなかったのでしょう。
 日本と韓国の間で、領有権争いが起こって、初めて関心がもたれた島です。

 モッポ沖の竹島(竹島灯台がある)ならば、間違いなく韓国のもので、三河湾の竹島や、鹿児島の竹島ならば、間違いなく日本の領土なのですが。
 竹島という名称の島は、いくつもあって、ややこしいです。

カラス2006年11月04日


昨日は文化の日で休日でした。
広島に原爆ドームを見に行きました。写真は、原爆ドームに止まっていたカラス。

竹島は日韓どちらのものでしょう2006年11月12日

MAP

1876年Stielerのロシア地図を入手しました。この地図は、当時、世界的に最も評価の高かった地図です。ロシア地図ですが、端っこには日本も載っています。この地図の、千島・樺太部分は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouMAP/Stieler.jpg

 1877年3月、日本は太政官指令にて、竹島外一島が日本の領土でないことを決定しました。これは、島根県が地籍編纂に当たって、竹島・松島が日本の領土であるのかどうかを問い合わせたことに答えたものです。島根県の伺い書では、竹島とはウルルン島、松島とは現・竹島(ドクト)であることは明白です。

 1820年代頃のイギリス・アロースミスの地図では、ウルルン島の更に朝鮮半島よりに、架空の島『アーゴノード島』が描かれています。現・竹島は描かれていません。このため、シーボルトは、アーゴノード島を竹島、ウルルン島を松島とした地図を1840年代に刊行します。
 日本の一部勢力の中には、「1877年3月太政官指令にて日本の領土ではないとされた『竹島外一島』とは、アーゴノード島とウルルン島であり、現・竹島は日本の領土である」との主張がありました。普通に考えたらおかしな主張でしょう。太政官指令を受けた島根県は、ウルルン島、現・竹島共に、地籍編纂をしていないのだから、『竹島外一島』は、ウルルン島と現・竹島のことでしょう。

 太政官指令は1877年なので、当時の地図で、架空の島であるアーゴノード島がどのように扱われていたのだろうかと思い、1876年刊行のStieler地図を確認すると、アーゴノード島は記載されていません。この時代、アーゴノード島が存在しない島であることは、既に知られていました。1877年当時の日本政府が、30年も前のシーボルト地図や、50年も前のアロースミスの地図しか、知らなかったとは、到底考えられません。日本の明治の役人はそこまでバカではなかったでしょう。
 なお、1870年刊行のStielerの日本地図でも、アーゴノード島は記載されていないそうです。

 1876年Stielerのロシア地図の日本海部分は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/Ullundo/Stieler.jpg

 ところで、この地図を見ると、ウルルン島と竹島は日本の領土になっています。しかし、実際には、当時、ウルルン島には朝鮮人が居住していたので、日本の領土との主張は無理な状況でした。

 島根県広報誌「フォト島根No161(2006年発行)」においても、『外一島とは、現在の竹島とみられる』と説明されているように、『太政官指令の外一島は現・竹島ではない』との主張は、今では少数派のようです。

 現在、日本政府は竹島領有を次のように説明しています。『我が国は、遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づき竹島の領有権を確立していた』。日本政府に都合の良い資料だけを都合よく解釈すると、そのような結論になるのかもしれませんが、ずさんすぎる説明です。

綿の花2006年11月18日

綿の花

近所の都市農業公園では、綿の花が咲いていました(写真)。
公園で収穫されたコマツナ、ダイコンを買って帰りました。

LOMO2006年11月26日


 LOMOとは、レニングラードにある光学器械工場の名前です。ここでは、たくさんの大衆カメラを作っていました。1983年からLOMO LC-Aという、あまり写りの良くない大衆カメラを作ります。なぜかこれが、西側諸国でヒット。日本でも、若い女性を中心に流行しました。
 ソ連崩壊後、ドイツだかオーストリアの会社(ロモグラフィー)がLOMO LC-Aを独占販売するようになります。その後、ロモグラフィーは、いろいろなおもちゃのようなカメラを世に出します。これらのカメラの多くは中国製で、ロシア製では有りませんでした。

 最近、ロモグラフィーは、魚眼カメラFisheye2を販売しています。
 写真は、Fisheye2で撮ったもの。

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