シベリア抑留2008年12月26日

俘虜郵便
 
(掲示板に書いた記事の転載です)
今日は、12月26日なので、それにちなんだ話題を一つ。

 1956年、日ソ共同宣言(条約)が締結され、日ソ間の戦争状態が法的に終了した。通常、戦争が法的に終了したときに、戦争捕虜は釈放されて本国に帰還することになるが、ソ連に抑留されていた戦争捕虜は、ほとんどすべて1950年までに帰国しており、日ソ共同宣言が締結されたときには、戦争捕虜は一人もいなかった。しかし、戦争犯罪や一般犯罪で懲役刑を受け、引き続き受刑していたものが存在していた。日ソ共同宣言ではこれらの犯罪受刑者も日本に帰国することになった。
 1956年12月26日、最後のシベリア抑留者を乗せた引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港へ入港、ここに、シベリア抑留は終了した。

 戦争捕虜達は、シベリアの中では、比較的温暖なシベリア鉄道周辺に抑留されたが、犯罪受刑者は、北極圏を含む極寒の地に抑留されることが多かった。しかし、1950年を過ぎると、日本人犯罪受刑者達は、ハバロフスク刑務所に集められるようになった。写真は、ハバロフスクで受刑していた元憲兵准尉・中村稲夫に留守中の家族が差し出した葉書。郵便料金は原則として無料だったが航空の扱いを希望したため、航空料金に相当する切手が加貼されている。中村稲夫はハバロフスクで抑留されているとき、脳溢血のために半身不随になり、早期送還で、昭和30年12月11日に引き揚げた。
 この葉書は、ハーグ条約にしたがって、戦争捕虜に無料で配られるもので、犯罪受刑者に支給する条約上の必要は無いが、実際には犯罪受刑者にも支給されていた。手紙の文面を見ると「3ヶ月便りが無かったので心配していた」とあるので、通常は、1~2ヶ月に一度の割合で支給されていたようです。

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