日本に勝利 75周年記念日2020年09月03日

 
 第2次世界大戦、太平洋戦争の終結日は、日本ではお盆との兼ね合いもあって、8月15日にしているけれど、世界的には9月2日あるいは9月3日です。
 そういうわけで、昨日か今日が「日本に勝利 75周年記念日」に当たります。

 写真上は、アメリカの「日本に勝利」記念日の記念品。1945年9月2日の消印が押されています。

 写真下は、中国の「抗日戦争勝利50周年」の記念品。1995年9月3日の消印が押されています。

安倍政権の対ロシア交渉は評価に値する2020年09月07日

今日の朝日新聞社説のタイトルは「対ロシア交渉 失敗を検証して出直せ」である。
 
 長かった安倍政権も、ようやく終わりが近づいてきた。朝日新聞の社説は安倍政権による対ロ交渉を批判するもの。
 
『日本の外務省には、過去の経緯やロシアの論理に通じた人材がいる。だが安倍氏と側近はその専門知を軽視し、「2島返還ならプーチン氏も応じるだろう」との思い込みで、長年の主張を一方的に後退させた。』
 朝日新聞社説における安倍対ロ外交の総括はこの一文に示されている。
 
 朝日新聞の言う「過去の経緯やロシアの論理に通じた人材」が戦後75年間やってきたことは、領土交渉を一歩も進ませないことだった。高級官僚の目的は、組織を維持・永続させることと、天下りポストを確保することである。日本の外務官僚たちは、日露外交を膠着させることにより、領土問題対応部署や天下り場所を維持し続けてきた。この状態が多少変化したのは小泉改革の時で、天下りポストが削減させられたため、天下りポストとしての領土問題の魅力は少なくなった。
 外務官僚たちが領土問題を進めないために使った手法は、「領土問題が解決しない限り経済関係を進めてははならない、四島返還以外は絶対ダメ」ということだった。どう考えても無理な条件を突き付けて、領土問題を進展させないというのが、彼らの策謀だった。
 安倍内閣では、この方針に大きく変更がなされた。「経済関係の進展の先に、領土問題がある。現実的で具体的な解決を目指す。」このように、戦後一貫して外務官僚たちがやってきた「領土交渉を一歩も進ませない」との政策に風穴を置けたのが安倍外交だった。ただし、戦後75年間膠着した問題が、一朝一夜に解決するものでもないので、領土問題で目立った成果は乏しかったが、交渉に道を開いた点で、今後の進展に期待が持てるものだ。

本―ウクライナ・ファンブック2020年09月09日

 
平野高志/著『ウクライナ・ファンブック 東スラヴの源泉・中東欧の穴場国』パブリブ (2020/2)
 
ウクライナの観光ガイドブック。
 全体の半分以上は各所の名所案内。名産品や食べ物の紹介もあるが、「るるぶ」などと異なって、店やレストランの紹介はない。
 
 全体の1/3程度で、ウクライナの歴史や政治などの解説をしている。このような書き方なので、単なる観光ガイドではない。
 ただし、言語の解説など、ウクライナ国家ありきの解説となっているので、事実とはずれた、ウクライナ民族主義のプロパガンダのようにも感じる。現ウクライナ政権では、このような民族主義教育がなされているのだろうか。
 
 歴史の記述も、訳の分からないことが書かれている。
 『ウクライナの政治家達…が、革命の中で、ウクライナの完全な独立へと舵を切ることにした決定的な理由は、ウクライナへ容赦なく侵攻を続けるロシア・ソヴィエト軍の存在であった。…その後も進軍を続けるボリシェヴィキ軍は、2月9日にはキーウへも侵入する。…ソヴィエト軍のこの時のキーウ支配期間は短く、すぐに撤退するのだが、しかし、彼らはその短い間に市内で無差別な略奪・破壊を行っていた。ソヴィエト兵は…あらゆるウクライナ的な物を徹底的に破壊していた。キーウに入城したドイツ・ウクライナ軍は、その後、4月にはウクライナのほとんどの地をボリシェヴィキから奪還する。(P171,P172)』
 
 「ボリシェヴィキ軍」「ロシア・ソヴィエト軍」と別の用語を使っているが、同じ意味なのか違うのか、この文章を読んでも良く分からない。歴史を書くならば、もう少し分かりやすい文章で書いてほしいものだ。
 当時、ハリコフなどの東部地区では、鉱工業が進み、労働者階級が作られていた。著者が「ウクライナの政治家達」と書いているのは、中央ラーダ派のことで、この中央ラーダ派がウクライナ全土にわたって政権をとっていたわけではなく、工場労働者の多いの東部の要衝ハリコフなどでは、ボルシェヴィキ派が圧倒的優位にたっていた。ウクライナ・ボリシェヴィキの軍はロシア・ボリシェビキの援助をうけて、中央ラーダ派・ドイツ連合軍と戦闘になったものだった。
 本著では『ソヴィエト兵は…あらゆるウクライナ的な物を徹底的に破壊』と書いているが、この場合の『ソヴィエト兵』にはウクライナボリシェビキも多く、彼ら自身がウクライナ的だったので『ウクライナ的な物を徹底的に破壊』などありえないことだった。
 また、本書の同じページには、中央ラーダ派がドイツと条約を結び、ウクライナの穀物を引き渡す見返りとして、軍事介入と独立の承認を得たことを、快挙のように記している。国家の独立の要件は、実効支配の確立であって、外国軍の介入を求めることや、穀物と引き換えに承認を得ることなどではない。当時、中央ラーダ派がウクライナ全土を掌握していたわけではないので、ウクライナ国家が樹立されたとみなすことはできない。
 P175には 『ポーランド・ウクライナ軍は、4月25日、ボリシェビキ軍(赤軍)支配地ウクライナへ侵攻開始し…。赤軍はそのままワルシャワ近郊まで攻め入るも、ワルシャワ近郊戦ではポーランド軍に大敗する。』と書かれている。赤軍がポーランドに攻め込むことを主張したのは、ウクライナ人のトロツキーで、反対したのがグルジア人のスターリンだった。革命期のウクライナの混乱は、ウクライナ対ロシアではなくて、ウクライナの政治勢力間の内戦がベースにあって、そこへ、ポーランド・ロシアと言うもともと同じ国だった地域と、外国軍のドイツが介入したものだった。
 革命当時のロシア・ソビエトの中心人物には、ウクライナ系、ポーランド系など非ロシア人が多かったことも知られている。著者が「ロシア・ソヴィエト軍」と書いているロシア革命当時の軍隊は、ユダヤ系ウクライナ人のトロツキーに指導された軍隊だった。このほか、KGBを創設したジェルジンスキーはポーランド系ベラルーシ人だった。ソ連円熟期を見ても、ブレジネフ書記長はロシア系ウクライナ人、ポドゴルヌイ議長もウクライナ人、シチェルビツキー政治局員もウクライナ人だった。フルシチョフは、幼少のころドネツクに引っ越したので、少青年期はウクライナで過ごしている。
 
 本書では、ロシアとウクライナを別の国家としてとらえている。確かに、ロシア革命以降、別の共和国として扱われていたので、別の国家であるとの見解は正当だ。しかし、革命成立以前のウクライナを単一国家のようにとらえるのには無理がある。

産経新聞・舩杉力修島根大准教授の説(竹島問題)2020年09月15日

2020.9.14産経ニュースに『19世紀の英地図も竹島を日本領、女王に捧げる高い精度』の記事がある。
https://special.sankei.com/a/society/article/20200914/0001.html
我田引水記事を書くとしても、もう少し、まともな記事を書いてくれないのだろうか。
 
 産経の記事によると、『日本固有の領土でありながら韓国が不法占拠する竹島(島根県隠岐の島町)について、日本領と明示した19世紀の英国製の地図が現存することが島根大の舩杉力修准教授(歴史地理学)の調査で分かった』とのことだ。
 
 産経の言う地図とは、1881年に出版されたKeith Johnstonの英国製の着色された地図(CHINA and JAPANと思われる)で、この地図は版を重ねており、eBayのオークションで1860年代から1890年代の版が出品されることも多い。ただし、版によって、着色は異なるところがある。
 
 産経が記載している地図では、隠岐・本州は桃色、四国は黄色、九州・対馬は青色、朝鮮は橙色、竹島と鬱陵島は青色で塗られている。日本の各地や朝鮮半島がいろいろな色で塗られ、竹島は九州と同じ色で塗られているので、産経の記事では、竹島は日本の領土とされていると軽率に判断しているようだ。地図の色塗りを小学校で習わなかったのだろうか。
 世界には多数の国・地域があるが、色の数は限られているので、すべてを違う色で塗ることはできない。では、どう塗るかというと『隣接する異なる国・地域は異なる色で塗る』。このため、隣接していない国・地域が同じ色で塗られていたからと言って、同じ国であるとはならない。隠岐に近い竹島が隠岐の領域ならば隠岐と同じ色で塗る、違う領域ならば違う色で塗る、九州から遠い地域は同じ色でも違う色でもどうでもよい。これが地図塗の基本である。
 産経の記事には地図の一部しか記載されていないが、 Keith Johnston地図「China and Japan」の1881年版が以下に公開されている。
https://www.loc.gov/item/2006458431/
 この地図を見ると、浙江省と山東省が九州と同じ青色で着色されているが、だからと言って『九州は中国固有の領土である』と解釈することはできない。
 
 産経が紹介した地図では、竹島は隠岐とも朝鮮半島とも異なる領域で、鬱陵島と同一の領域であることが分かる。この地図で、竹島・鬱陵島が日本の領土と考えているのか、朝鮮の領土と考えているのかは、地図の表示からは分からない。当時、鬱陵島は日朝間で朝鮮の領土であることが確定していた。もし、この事実を地図作成者が知っていたならば、竹島も朝鮮領と認識していたことになる。
 
 Keith Johnstonの地図には「CHINA and JAPAN」のほかに「JAPAN」もある。現在eBayに出品されているJAPAN地図には鬱陵島や竹島は記載されていない。また、1枚の地図に「JAPAN」「COREA」が記載されている地図もある。この地図ではJAPANの部分に朝鮮半島の一部と鬱陵島・竹島が無着色で記載されており、着色された日本とは明らかに異なる。「COREA」地図には鬱陵島や竹島は記載されていない。
 
 ところで、私の手元には、1876年ドイツ・Stielerのロシア地図がある。この地図では鬱陵島・竹島ともに日本領となっている。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/Ullundo/Stieler.jpg
 この地図だと、『19世紀の独地図も竹島を日本領』ということができるが、朝鮮領であることが確定している鬱陵島を日本領としているので、要するに、この地図の国境線が誤りだったことを示しているに過ぎない。
 地図表記で『鬱陵島が朝鮮領でも竹島は日本領』と主張するのならば、竹島と鬱陵島が異なる色で着色されているか、竹島・鬱陵島間に国境線がひかれた地図を探す必要があるのだけれど、なかなか無いですよ。
   
『やさしい竹島問題の話』は以下をご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/YasashiiTakeshima/index.html

本の紹介―尖閣問題 政府見解はどう変遷したのか2020年09月19日


笘米地真理/著『尖閣問題 政府見解はどう変遷したのか』柏書房 (2020/2/27)
 
 本書は尖閣諸島問題に関する専門研究書。啓蒙書ではないので、この問題に詳しくない人が読むのは大変だろう。900ページあまりの大著。このうち本文は500ページ強で、資料として日本政府の国会答弁などが300ページ弱。これに、参考文献、あとがき、などがつく。
 著者は、日本政府の国会答弁を基に、沖縄返還前後に日本政府が尖閣を領有していった過程を明らかにして、2016年に、『尖閣諸島をめぐる「誤解」を解く―国会答弁にみる政府見解の検証』を上梓した。本書では、上記に加えて、明治政府が沖縄を領有した過程や、日清戦争期に尖閣を領有した過程を明らかにしている。研究方法は、日本政府の公文書を元にしているので、日本政府の立場の解明が主眼となっている。尖閣問題というと、琉球と明・清の関係や、明治以降の民間人の尖閣開発などに関心がもたれる向きもあるが、そのようなことは本書の研究対象ではない。
 本書は研究成果なので、参考文献も詳細で、また、類似の各研究に対する、適否の言及も多い。

 ページ数も多く、読むのは大変だが、尖閣問題に対する日本政府の態度に関しては、本書が決定版だろう。

参考のため、目次を記す。
はじめに
凡例 尖閣諸島について
尖閣諸島に関する年表
序章
第一章 尖閣問題の起源日本、米国、「二つの中国」
 領土問題の理論的射程国益とは何か 
 国共内戦から「二つの中国」の対峙 
 講和条約における台湾条項と沖縄条項 
 一九七〇年までの関係各国の国益と外交政策ーゼロ年としての一九七〇年
第二章 政府見解の変遷一九七〇年に尖閣の領有権を明言
 一九七〇年までの国会答弁 
 一九七〇年九月における外務大臣による尖閣領有権の明言
第三章 一八八五年~一八九五年における尖閣領有過程の検証
 一八九五年における尖閣編入の閣議決定
 新たな領有根拠の不在と戦勝に乗じた尖閣領有
 領有根拠とならない一八九六年における勅令第一三号
第四章 米国の「中立」政策の背景と「先占」による領有「物語」の完成
 尖閣諸島の主権に関する米国の「中立政策」 
 領有権を根拠づける沖縄での資料収集
 「先占の法理」と「棚上げ」
第五章 日本政府による実務対応と中国側の対応
 政府見解と実務対応のダブルスタンダード
 自民党政権と民主党政権における実務対応の差異
 中国の領土政策と国連海洋法条約
 中国が解決した中越、中印、中ロ等の国境画定事例
 「固有の領土」論と沖縄をめぐる歴史的経緯
第六章 「尖閣問題」の起源としての琉球帰属問題と中国の沖縄政策
 琉球帰属問題をめぐる日清問交渉再考
 日清両国間互換条約および分島改約交渉の再検討
 「尖閣問題」の起源としての沖縄帰属問題 
 第二次世界大戦後の中国側の琉球・沖縄政策 
第七章 安保新時代における尖閣諸島問題
 新ガイドラインに盛り込まれた
 米国の中立政策と安保条約第五条
第八章 政治的解決へ
 「新たな棚上げ論」による現状凍結へ 
 公共政策としての「尖閣問題」の政策的課題
資料
参考文献
あとがき
索引

本―日ソ戦争 1945年8月2020年09月25日

 
富田武/著『日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民』みすず書房 (2020/7)
 
 太平洋戦争末期、8月9日に、ソ連は対日参戦した。本書は、この時の戦争のようすを解明した研究書。著者はシベリア抑留研究書を多数執筆しているが、本書にはシベリア抑留の話は少ない。
 本書は3つの章に分かれる。
 
第一章「戦争前史 ヤルタからポツダムまで」
 この章は全体の1/5程度で、ヤルタ会談以降ポツダム会談までの時期の主に政治的動きを解説している。
 
第二章「日ソ八月戦争」
 第一節ではソ連対日参戦以降の、満州各所及び北朝鮮における戦闘の模様を日本側・ソ連側資料に基づいて解明。この部分が、最もページ数が多く本書のメインになっている。
 第二節は戦闘中の混乱した状況において発生した、ソ連軍や地域住民により与えられた日本人民間人の犠牲の話。
 第三節は捕虜の移送について
 
第三章「戦後の重い遺産」
 この章は全体の1/8程度で民間人の残量・引揚や戦犯裁判などを解説。
 
 本書の中心になっている第二章第一節は、日ソの戦闘のようすを解明する立派な研究書なのだと思うのですが、読んでいてあまり面白くなかった。ソ連側、日本側の著書だと、自分に都合の良い記述になりがちだけれど、読み物としては面白い。それに対して、本書のようにソ連側・日本側の両方の資料をもとに客観的に書くと、読み物としてはつまらない記述になってしまいます。本書はウケを狙ったものではなくて、研究書なのだから、面白さに欠けるのは当然なのですが。

 また、第二章第二節は「ソ連軍による満州での蛮行」のタイトルで、戦闘中に発生したソ連軍や地域住民による日本人民間人の被害について書いているが、戦闘中は混乱するものだから、平時の感覚通りにすべてが進むことなどありえない。ソ連軍が日本人民間人を攻撃したと書かれているが、戦闘員は欺瞞するものだから、民間人風であるとか民間人と名乗ったことが非戦闘員である証拠にはならない。そもそも、満州開拓団は自警組織だったので、軍事的性格を帯びていたことも事実なので、純粋な非戦闘員ということはできないだろう。
 
 著者はシベリア抑留に関する著作が多い。シベリア抑留では日本人俘虜が大変な思いをしたとして、ソ連を糾弾する論調が巷間には多い。「シベリア抑留期の日本人俘虜の大変さ」とは、要するに「衣食住が不十分だった」「労働がきつかった」ということだ。本書の著者は単純にそのような立場に立っているわけではない。戦争中には、日本の捕虜になった連合軍俘虜もいるが、このような人の証言では「理不尽にスコップで殴りつけられて大けがをした」「無意味な行進をさせられた」など、虐待を目的とした虐待の告発がある。しかし、シベリア抑留では、日本のような虐待を目的とした虐待の話がないのは、どうしてだろう。
 本書の第二章第二節では、戦争の混乱した状況での、一部兵士の犯行をソ連が防止できなかった事例が書かれている。翻って、日本を見ると、南京大虐殺は部隊として住民虐殺をしたとの研究もあるし、中国や朝鮮では、日本軍が組織として強姦等の犯罪を犯していたことが知られる。本書の記述には、ソ連軍が組織として強姦犯罪を犯していたとの事例は紹介されていない。ソ連兵個々には悪人がいたとしても、ソ連軍自体は日本軍のように残虐ではなかったのだろうか。

本―ロシアを知る。2020年09月27日

 
池上彰、佐藤優/著『ロシアを知る。』東京堂出版 (2019/6)
 
 ジャーナリストの池上彰と、元外務省職員でロシア担当だった佐藤優の対談集。内容は、ロシア問題に対する二人の対談だが、池上が聞いて佐藤が答える部分が多い。本書は字が大きく行間も多いので、本の厚さに比べて内容は豊富ではない。特に目新しい内容もなく、ロシア関係の話題を二人がざっくばらんに話している、そんな内容です。
 序章は安倍内閣で北方領土問題が動き始めたとの内容。北方領土問題の動きも止まり、安倍内閣も終わった今では、時代遅れの感もあるが、領土問題が進展しない理由を知るうえで参考にはなるかもしれない。

本の紹介―元徴用工和解への道2020年09月28日


内田雅敏/著『元徴用工和解への道 戦時被害と個人請求権』ちくま新書 (2020/7)

 戦時中、日本は中国・朝鮮から労働者を強制連行・強制徴用・任意徴用して、奴隷労働に使役した。元徴用工の一部のものは、日本企業に対して損害賠償請求を行った。日本の裁判で和解が成立したものや、韓国の裁判で損害賠償請求が確定したものなどがある。

 本書は東京弁護士会に所属する弁護士による元徴用工問題に関する一般向けの本。元徴用工問題を考える上で有益な本です。
 第一部は韓国大審院で損害賠償請求が確定した裁判の説明、および、日韓請求権協定では「個人の請求権がなくなったわけではない」とする日本政府の公式見解の解説。
 第二部はページ数が多い内容で、中国人徴用工に対して、花岡鉱山、西松建設、三菱マテリアルなどの日本企業が賠償請求で和解した例の説明。西松建設に起こされた訴訟では、日本の最高裁判所は賠償請求を棄却するも、判決に「付言」が付けられた。これは、西松建設に対して、強制労働の人道上の責任を認め、賠償金を和解金として支払うことを強く求めるものだった。その結果、西松建設は判決の付言に沿う形で中国人元徴用工と和解した。
 第三部は解決への方向性を考えるための内容で、朝鮮人・中国人徴用工の問題にとどまらず、関連した問題を幅広く解説。

 それから、中国人徴用工に関して以下の記述がある。中国人徴用工の死亡率は17.54%に上ったそうだ。日本人の残虐ぶりが際立っている。
P67
 一九四二年=月二七日、時の東條内閣は、中国大陸から中国人を日本国内に強制連行し、鉱山、ダム建設現場などで強制労働に就かせることを企て、「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、一九四四年二月二八日の次官会議を経て同年八月から、翌一九
四五年五月までの間に三次にわたり三万八九三五人の中国人を日本に強制連行し、国内の鉱山、ダム建設現場など一三五事業場で強制労働させました。
 この強制連行・強制労働は、形式的には「雇用契約」の体裁を採っていましたが、戦闘における捕虜、占領地における民間人の有無を言わせずの拉致等、強制連行・強制労働以外の何物でもなく、国際法違反は明々白々のものでした。
 日本の敗戦に至るまでの約一年の問に、六八三〇人が亡くなりました。死亡率一七・五四パーセントです。

* * * * * *

<< 2020/09 >>
01 02 03 04 05
06 07 08 09 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

RSS