リボブ、リビウ、ルブフ、レンベルグ2022年03月19日

 ロシア・ウクライナ戦争では、西部の都市リビウが攻撃されたとの報道がある。
 ここは、西側からの軍事援助の拠点なので、軍事的には、真っ先に攻撃すべき場所だ。なのに、今まで、攻撃してこなかった、プーチンの忍耐強さに驚くばかり。こここは、リボブ、リビウ、ルブフ、レンベルグなどと言われる。

 ロシア革命の混乱の中、1918年10月、東ハーリチナとブコヴィナの指導者は「ウクライナ国民ラーダ」を設立し、ザカルパチアをあわせて、独立国家を設立する事を宣言した。1918年11月13日(あるいは11月1日)、リヴィウを首都とする「西ウクライナ国民共和国」の設立が宣言された。しかし、リヴィウでは、ポーランド系住民との間で戦闘が起きて、この共和国は1週間ほどで、リヴィウを撤退、1919年1月に100キロ南東のスタニスラヴィウに首都を移した。しかし、結局ポーランドとの戦いに敗北し、ポーランドに占領されてしまう。西ウクライナ国民共和国は8ヶ月ほどの寿命だった。
 写真は、1919年5月、西ウクライナ共和国崩壊前後に発行された切手で、実際に使われたか疑問。

 西ウクライナが形式的に独立したのは1年にも満たず、また、領域も限定的で、その後はポーランド領になった。第二次大戦後にソ連に復帰した。ここが、ウクライナとして独立するのはソ連崩壊のとき。 
 第一次大戦後、イギリス宰相カーゾンによりポーランド・ロシアの国境が定められた。スラブ人のうち、カトリックを信仰するものが多い地域はポーランド、正教を信仰するものが多い地域はロシアとなった。リビウの町はカトリックが多いのだが、周辺農村は正教徒が多かったため、カーゾンはこの地をロシアと定めた。
 ソ連では各地域を連邦共和国とし、ウクライナはウクライナ共和国と言う行政区域になった。この時、リビウはポーランド領だった。第二次大戦後、西ウクライナがソ連に復帰すると、行政区域はウクライナ共和国に編入された。
 リビウの町は、もともと、カトリックが多かったので、今でも教会はポーランド風で、あまりロシア風の感じがしない。

イワノフランコフスク2022年03月19日

ロシア国防省は、極超音速弾道ミサイルを使用し、西部イワノフランコフスク州の地下ミサイル・弾薬庫を破壊したとの報道があります。イワノフランコフスクは旧称Stanislauで、ロシア革命後に、西ウクライナ共和国の首都だった町。第二次大戦前はポーランドだったが、大戦後ソ連に編入された。
  
西ウクライナ(イワノフランコフスク)で発行された切手の解説は以下をご覧ください。
http://cccpcamera.stars.ne.jp/Hi-Ho/Stamp/OtherRep/WestUa/WestUkraine.htm

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