謹賀新年2010年01月01日


あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします

NHKの行く年来る年を見ていたら、上武佐正教会が写っていました。ここは、千島と関係が深いところです。
上武佐正教会

 樺太千島交換条約で北千島が日本の領土になると、それまで居住していた人たちは、ロシア国籍を希望するものはロシアに退去し、これまで通り居住することを希望するものは、日本国籍を取得しました。ロシア正教を信仰していた、占守島の千島アイヌ100人ばかりの者は、島を去りがたく、日本国籍を取得して、これまで通り占守島に居住を続けることとしました。
 ところが、日本政府は、彼等がロシアと通謀することを懸念し、強制的に色丹島へ移住させました。即ち、全員を船に乗せた後、彼等の住居に火を放って、占守島で居住ができないようにしました。色丹島へ強制移住させられた千島アイヌは、慣れない地で、次々と死亡しました。彼等の心のよりどころは、ロシア正教で、根室正教会の小松神父、桜井神父らが巡回・伝道しました。その後、根室正教会は衰退し、上武佐正教会が根室正教会を吸収する形となり、千島と関係を持ちました。

本の紹介-シベリア抑留 栗原俊雄/著(岩波新書 2009.9)2010年01月02日




 岩波新書には近現代史を題材としたものがいくつもあり、それらは総じて内容がしっかりしている。しかし、この本は、厳密な歴史解説を目的としたものではなくて、一方的に「シベリア抑留では日本が苦労した」「日本は戦争の犠牲者だ」との印象を読者に植え付けることを目的としているように感じられる点が多々ある。
  
 
 具体的に、1点、指摘する。P173に以下の記述がある。
 
『国際法によって、捕虜が母国に手紙を出すことは認められている。しかし、ソ連がそれを許したのは抑留から一年以上が過ぎた一九四六年秋ごろであった。それもすべての捕虜が対象ではなく、ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった。同年から一九五〇年にかけて、シベリアから=五万通余のはがき、手紙が届いた。ソ連は、強制労働の現実や食料難、続出した死者など抑留生活の実態を記すことは許さなかった。現在残っているはがきを見ても、そうした窮状を訴えるものは全くない。』
 
 まず、この記述は、不正確である。
 『ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった』と書かれているが、俘虜収容所によって、運用が異なっており、①全員が差し出せた収容所②一部のものが差し出せた収容所③誰も差し出せなかった収容所 の存在が知られている。
 
 『ソ連がそれを許したのは抑留から一年以上が過ぎた一九四六年秋ごろであった』との記述も読者に誤解を与える恐れのある書き方である。
 
 戦争中、日本軍は日本軍人に捕虜となることを禁止していたため、捕虜となった日本軍人が葉書を差し出すことを日本は拒否しており、日本には俘虜葉書の制度は無かった。1945年11月16日、米軍支配地との間で「復員郵便」が開始された。すなわち、日本軍及び日本人の帰還に関する通信・安否の消息その他個人的性質の内容に限り、連絡が取れるようになった。しかし、これ以外の地域で、海外との郵便は禁止されており、ソ連との通信はできなかった。1946年9月10日、GHQが海外へ郵便葉書を差し出すことを認めた後、ソ連からの俘虜葉書も届くようになる。ソ連から最初の俘虜葉書は、1946年11月26日、東京港に入港したスモールヌイ号により届けられた。
 このように、俘虜葉書が終戦1年少々で届くようになったのは、占領による日本国内の民主化と国際関係の改善が原因だった。
 
 『強制労働の現実や食料難、続出した死者など抑留生活の実態を記すことは許さなかった』とある。誤りではないけれど、戦争を知らない人が見たら、誤解するかもしれない。戦争中の軍事郵便も、米国との間で認められた復員郵便も、個人的な内容のみ記載することが許されていた。軍の動向、組織、兵力を記載することが許されていた軍事葉書は存在しない。収容所の管理・運営・組織の記載が許されないのは、軍事葉書・俘虜葉書の決まりである。
 ただし、『現在残っているはがきを見ても、そうした窮状を訴えるものは全くない』と書くと、厳密には正しくない。ソ連からの俘虜葉書は量が多いので、検閲をかいくぐって、このような内容を書いたものが全く無いとは言えない。

北方領土問題の解決策2010年01月05日

2009年12月28日、モスクワで日露外相会談が行われたが、北方領土に関して、具体的な進展はなかった。

 『岡田外相は会談で、「領土の帰属問題について、目に見える進展がないのが問題だ」とロシア側に対応を促した。ラブロフ外相は「双方が受け入れ可能な解決策を模索する政治的意思がある」としながら、「国際法や戦後の現実を踏まえるべきだ」とも指摘した。(2009年12月29日、読売新聞)』

 ラブロフ外相の主張は当然である。北方領土問題は、国際法や戦後の現実を踏まえ双方が受け入れ可能な解決策を模索しなくてはならない。日本も国際法や戦後の現実を踏まえればよいのに、日本政府のしていることは、国内向け宣伝用の国際法の恣意的解釈と、浪花節的に国民の心情に訴えることでしかない。
 特に、以下の3つの主張は、即刻止めるべきである。

 ①『北方領土は日本固有の領土である』との主張。「固有の領土」は国際法の用語ではないので、国際法上意味不明な説明になっている。

 ②『北方領土はロシアが不法占拠している』との主張。「不法占拠」は民事訴訟の用語で、国際法の用語ではない。国民の心情に訴える表現ではなくて、国際社会に理解される説明をすべきです。

 ③『日本がポツダム宣言を受諾した8月15日以降に占領された』との主張。8月15日は国民向けの玉音放送の日であって、国際法上の休戦の日ではない。国際法上の休戦は、9月2日の降伏文書の調印による。当時の日本人が天皇裕仁を神として崇めていたからといって、それが国際的に通用するはずもない。
 ポツダム宣言・降伏文書では、日本は連合軍に占領されることになっていたので、ソ連が日本の一部を占領したのは、休戦後であっても、国際法上の正当な行為だった。

 北方領土問題の解決は、浪花節的に国民の心情に訴えることではなく、国際法や戦後の現実を踏まえ双方が受け入れ可能な解決策を模索すべきである。


北方領土問題の説明はこちらを。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm

本の紹介-エトロフ島の俄教師の手記2010年01月06日

エトロフ島の俄教師の手記 ソ連軍進駐下の三年三ヶ月  高田弥彦/著 文芸社(2003.1.15)

著者は、敗戦当時、エトロフ島で残置諜報員として現地除隊となり、ソ連進駐後は豊浜で現地小学校の教師を務める。翌年2月には天寧に移り、校長としてソ連軍政当局との折衝に当たった。11月にソ連が民政に移管し、紗那が行政府になると、入里節に写って小学校教師を務めた。

本の内容は、豊浜・天寧時期の手記。書かれている内容のすべてが事実ということはないが、ソ連軍政下のエトロフ島残留日本人(民間人)の生活の様子が良く分る。豊浜での話は、ソ連進駐当初の住民の様子の記述が興味深い。天寧では、日本人とロシア人との交流の様子も詳しく記されている。

本の紹介-アルメニア人ジェノサイド2010年01月07日

アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化 中島偉晴/著 明石書店(2007.4.11)

 19世紀、アルメニア人の居住地はトルコ東部の西アルメニアとロシア領内の東アルメニアに分かれていた。『アルメニア人ジェノサイド』とは、第1次世界大戦前後に、トルコにより行われたトルコ領内のアルメニア人の大量虐殺のこと。ヒットラーにユダヤ人殲滅のヒントを与えた可能性がある。

 この本は、古代から第1次世界大戦期までのアルメニアの歴史、大量虐殺の実体、大量虐殺の原因が詳述されている。文献の記載も詳しく、この問題の優れた解説書。

 現在、トルコ政府は、ジェノサイドの事実を認めず、トルコ国内で政府と異なる見解を表明すると、国家侮辱罪により弾圧されることがある。日本でも、親トルコ派の人たちの中には、アルメニアの主張・トルコの主張と、主張だけが問題であるかのような宣伝をする人が有る。しかし、アルメニア人ジェノサイドは、史実を正確に解明することが必要であり、史実の研究と、主張とは異なる。
 この本は、主張することではなくて、史実の解明に主眼が置かれており、親トルコの人にも、親アルメニアの人にも、等しく読んで欲しい。

なお、アルメニア人ジェノサイドについては、以下の書籍も参考になる。
・悲劇のアルメニア 藤野幸雄/著 (新潮選書)
・アルメニア ジャン・ピエール・アレム/著, 藤野幸雄/訳 (文庫クセジュ 新書)
・新アルメニア史―人類の再生と滅亡の地 佐藤信夫/著 (泰流選書)
・閃光のアルメニア―ナゴルノ・カラバフはどこへ 中島偉晴/著(神保出版会)

本の紹介-アイヌモシリ奪回2010年01月13日

アイヌモシリ奪回 堀内光一/著 社会評論社(2004.1.15)

 明治以前、北海道の広い範囲は、そこに暮らすアイヌたちの共有地だった。明治になると、アイヌは旧
土人の名の下に激しい差別を受け、ごく一部の土地を残して、日本人の土地として接収された。名目上アイヌに残された共有地の多くは、北海道の管理とされた。1997年に成立したアイヌ文化法により、アイヌ共有財産の返還が決定されたが、その財産には土地や漁業権は全くなく、146万円の現金のみで、アイヌ共有地は、アイヌの知らぬ間に奪われてた。なお、北海道は委託された共有地の管理をどのようにしたのか、その明細を明らかにしておらず、奪い取った手口はあまり解明されていない。

 この本の1/5程度は、旭川アイヌ共有地がどのようにして奪われたか、詳述されている。アイヌ関連の法律には、北海道旧土人保護法のほかに、旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年法律第9号)があるが、旭川のケースが特別立法になったいきさつも詳しい。

 この本の多くは、厚岸アイヌ共有地がどのようにして奪われたかについて、詳細な説明がなされている
。アイヌ共有地の管理委託された北海道は、この土地を日本人に極端に安価な価格で貸付け、アイヌに課した税額を下回ることになった。このため、アイヌは知らずに借金を背負わされることになり、未納の税
金を返済するために、土地を売らされた。こうしてアイヌの土地は奪われていった。

 厚岸沖の小島にはアイヌ共有地があったが、波浪により滅失と嘘をついて、アイヌから土地を奪った。
この小さな島のわずかな土地が奪われたいきさつが極めて詳しい。

世界をファシズムと軍国主義から解放するため貢献した人物に敬意を表したい2010年01月16日

(掲示板に書いた記事の転載です)

 新聞報道によると、ゾルゲ事件に連座して逮捕・獄死した、宮城与徳の遺族に対して、ロシア大使館から勲章が渡されたとのことです。1960年代に旧ソ連で授与されたものの、渡す相手が見つからず、モスクワで保管されていたものが、遺族の求めに応じて手渡されました。勲章は、祖国戦争勲章(2級)で、大祖国戦争の勝利に貢献した民間人に授与されたものです。(写真)

 勲章を手渡したベールイ大使は「世界をファシズムと軍国主義から解放するため貢献した人物に敬意を表したい。その一人があなたのおじだった」と、遺族に話しました。

 また、尾崎秀実の勲章もモスクワに保存されているとのことです。
 ゾルゲの墓には、宮城与徳の名が、他の同志とともに刻まれています。

本の紹介-私残記 森荘已/著2010年01月17日

私残記  森荘已/著 中公文庫(1977年10月10日)

 本の内容は、1807年、フォボストフのエトロフ島襲撃事件に遭遇、ロシア捕虜になり、警備不備の責任をとがめられた大村治五平の手記、およびその現代文・解説。
 この本は、昭和18年に刊行されたものの復刻版であるが、序文とあとがきは新たに追記された。

 大村治五平は、南部藩の火業師で、55歳のときにエトロフ島警備に派遣された。大村の記述の前半は、フォボストフのエトロフ島襲撃事件以前に、エトロフ島で起こった出来事が記されている。
 襲撃事件では、ロシア側の一方的攻撃に対して、日本の警備陣は抵抗することなく逃げ出したが、大村は翌日ロシア人に見つかり、捕獲され、ロシア船に乗せられ、宗谷で解放された。大村の記述の後半は、襲撃事件と、ロシア船に載せられていたときの様子がかなり詳しく記されている。自己弁護になっている記述が散見されるが、この点は致し方ないだろう。

 森荘已の解説は、大村の記述の解説というよりも、ロシアの北辺進出から、襲撃事件までの歴史の解説。書かれた時期がノモンハン事件直後であるため、日本に都合良く、ロシアに敵意を持っていると感じられる点もあるが、おおむね、客観的に歴史を解説している。ただし、古い記述であるため、今となっては、この解説を読む必要は感じられない。

センター試験2010年01月20日

1月15,16日はセンター試験でした。受験生諸君はどうだったでしょう。

今日の昼休み、数学の試験問題を一部解いてみました。

 数1・Aの問1の(1)は初歩的な問題。これが出来ないと困る。(2)は毎年出題される必要・十分条件の問題。いくつか例示して、必要・十分条件を集合の包含関係に置き換えれば、容易です。「必要・十分」の用語は、数学と日常言語とでちょっと異なっていて、間違える恐れがあるので、集合の包含関係として理解すると容易です。
 数1・Aの問2は毎年出題される2次関数の問題です。ちょっとひねった所が有ったので、数学が苦手な受験生には辛かったかも知れません。
 数1・Aの問3は三角関数と平面図形の問題です。例年だと、三角形の外接円関連で、正弦定理と余弦定理なのに、今年は内接円でした。予想外の問題なので、ちょっと驚き。自分が予備校の講師だったら、頭を抱えてしまう。問題自体は落ち着いて考えればそれほど難しくは無いけれど、文系の受験生には辛いと思います。
 数1・Aの問4は場合の数と確率の基本的な問題。正答率は高かったと思います。
 ということで、例年と比べ、問1,4は若干易しかったけれど、問2,3は若干難しく、特に問3は山を張って勉強した受験生には辛かったでしょう。

 数2・Bの問1は(1)(2)共に、易しい問題。対数と三角関数の定義を理解していれば、数学が苦手でも、順番に解いてゆけば出来るような誘導になっています。
 数2・Bの問2は3次多項式の微分の問題。理系の受験生ならば容易だったと思います。文系だとどうだろう。
 数2・Bの問3~問6は選択問題です。問3は数列の問題。一般項の式を求めさせるところが、ウジャウジャ、誘導になっていて、マダラッコシイ。誘導が無くても、簡単な問題です。

 数2・Bの問4~問6は、昼休みが終わったので、見ていません。

 例年並の難易度だけれど、強いて言うと、数1・Aは例年より難かしく、数2・Bは易しかったと思います。  

 一部の私立大学では、センター試験の成績だけで、合格させるところがあるそうです。数学の学力を判定するには、問題が、ちょっと、易し過ぎる感じがします。

本の紹介-『北夷談 樺太探検・北方経営の先駆者 松田伝十郎の蝦夷地見聞録』2010年01月23日


『北夷談 樺太探検・北方経営の先駆者 松田伝十郎の蝦夷地見聞録』 中俣満/偏訳 松永靖夫/監修 新潟日報事業社(2009年4月30日)

1799年、蝦夷地が幕府の直轄地になると、松田伝十郎は蝦夷地取締御用係となり、エトロフ島・カラフトなどの赴任した。これは、1822年に蝦夷地が松前藩に返還されるまで続いた。

本の内容は、数度に渡る松田伝十郎の蝦夷地赴任記録の現代語訳。文章は読みやすい。以下のように7回に分けて書かれている。

 第1回:1799年、アッケシに上陸してアブタに赴任しここで越年。
 第2回:1803年、エトロフ島に赴任しここで越年。帰府後、ロシアのカラフト・エトロフ島襲撃事件が起こる。
 第3回:1808年、ソウヤに赴任して、カラフト探検をする。
 第4回:1809年、カラフトに赴任して、越年。カラフトアイヌが山丹交易で多額の借金を背負っていたため、幕府の金を使って、借金を清算する。
 第5回:1812年、カラフトに赴任して、山丹交易の改革に努める。翌年、松前にてゴロウニンの警備に当たる。
 第6回:1817年、江差に赴任。
 第7回:1820年、函館に赴任。1821年、宗谷・カラフトを見回り、マシケで越年。1822年、蝦夷地の松前返還にともない御用済となる。

 1808年の第3回渡航では、松田伝十郎が西海岸を探検し、間宮林蔵が東海岸を探検した。松田は、アムール川河口対岸のラッカに至り、カラフトが島であることを確認した。間宮は途中で東海岸探検を断念して、西海岸に移動して、松田等の案内でラッカに至り、カラフトが島であることを確認した。
 当時、大陸の山丹人(満州人)がカラフトで交易をしていたが、そのなかで、カラフトアイヌは多額の借金を背負っていた。借金のカタに奴隷として、大陸につれて行かれる者もあった。松田は、アイヌの借金の清算に尽力して、山丹との交易を正常化した。
 第3回・4回渡航では、この間の事情が詳しく記されている。カラフト探検では、図も交えて、当地の地理・動植物・住民の様子が書かれている。また、当地の夷人は、頻繁に大陸に渡っていること、さらには、満州の役職名をもらっている者がいることなどを見聞している。

 第1回渡航では、アイヌの生活習俗が図入りで詳しく説明されている。

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