大津・いじめ自殺問題2013年02月01日


大津市で2011年、男子中学生が自殺した問題で、市の第三者調査委員会は、いじめが自殺の「直接的要因」とする報告書を越直美市長に提出した。

報告書では、
『屈辱感、無力感をもたらし、いじめの世界から抜け出せないと悟った』
として、いじめを、自殺の直接的要因と結論付けた、と報じられている。

 どうも、この文章の意味が理解できない。「悟る」とは、「物事の道理を明らかに知る」との意味に使われ、「誤解」や「邪推」を「悟る」とは言わない。自殺した少年には、いじめから抜け出せない、客観的状況があったのだろうか。40人クラスのうち、嫌な子が数人いることは珍しくは無く、ほとんどの子供は、敵対する数人とは付き合わずに、残りの大勢の子と付き合うだろう。 自殺した子には、いじめを受けた数人としか付き合えない特殊事情があったのだろうか。部落差別・在日差別などのような。

 大津・いじめ自殺の真因は、いじめと表現されている個々の暴力行為ではなくて、いじめから抜け出せない状況にあったように思えてならない。

本の紹介-竹島問題とは何か2013年02月02日


   池内敏教授の竹島問題研究の労作。内容の多くは、これまでに発表した論文をまとめたものではあるが、修正・加筆されている点も多いようだ。なかなかの量で、内容も高度。本の値段も高いので、個人で購入するのは、ちょっと躊躇してしまう。私は、近所の市立図書館にお願いして、購入してもらった。こういう本は、公立図書館で購入して、なるべく多くの人に読んでもらいたい。

 池内氏は、竹島は日本固有の領土との、日本政府の説明には批判的であり、かといって、韓国の主張に同調しているわけではない。近代以前に、竹島が日本の領土であったとか、韓国の領土であったとかする、両国の主張をともに否定する。

 本書は、3部構成になっている。第1部では、近代以前に竹島が日本固有の領土だったとの日本の主張を厳密な考証に基づいて否定する。第2部では、同じく、韓国の主張を否定する。第3部では、20世紀以降の竹島の話題。

 日本の竹島領有論を否定した部分は、厳密・詳細である。

 1600年代に書かれた、隠州視聴合記の国代記には、次の記述がある。 『隠州の北西には、無人島の竹島・松島があって、そこからは朝鮮が見える。このため、日本の北西は、此州が境界である。(ちょっと意訳している)』 此州とは、普通に読めば、隠州のことだろうけれど、州を島の意味に捉えて、竹島・松島が日本の境界の地であると読むる人もいる。池内氏は、隠州視聴合記全体の州・島の用例を詳細に検討し、此州は隠州の意味であることを実証してた。この部分は、大西俊輝氏の研究と類似しているように思う。
 また、1877年の太政官指令 『竹島外一島は日本には関係ない(ちょっと意訳している)』 との記述の、外一島は現・竹島であることを、多数の資料をもとに、詳細な論考で、説明している。

 このように、20世紀以前に、現・竹島は日本の領土ではなかったと説明しているが、池内氏の、日本による竹島領有論を論駁する部分は、厳密・詳細である。これに対して、韓国による竹島韓国領論を論駁する点は厳密さに欠けるように感じる。韓国との論争が少ないのだろうか。

 1693年、鬱陵島に出漁していた安龍福は日本人漁民に捉えられ、鳥取藩の取り調べを受けた後、対馬経由で帰国した。この事件をきっかけに、鬱陵島は朝鮮の領土であって、日本の領土でないことが確定する。安龍福は1696年にも日本にやってくる。この時、帰国後、鬱陵島・竹島は朝鮮の領土であると日本人に言ったと説明しているため、現在、韓国では、安龍福を現・竹島を守った英雄として評価している。
 1696年の安龍福供述は、どこまでが事実で、どこがホラ話なのか、怪しいものであるが、この件に関する、池内氏の説明は良く分からない。
 安龍福が、鬱陵島・竹島が記載された朝鮮地図を持参して、日本の役人に説明したことは、日本の資料からも確かなことだ。領土のことを版図ともいうが、これは元々、地図や戸籍に書かれている範囲の意味なので、朝鮮全図に記載された範囲を朝鮮の領土と考えるのは自然なことだ。本書第6章では、地図に記載があるからといって、領有の証拠にはならないことが説明されているが、これは、現代の話で、現代の国際法上の証拠について、安龍福が知っているはずもない。
 池内氏は 『村上家文書の内容全体の分析と、他資料との比較検討からすれば、安龍福の訴訟目的が「竹島と松島を朝鮮の領土として主張する」などということろになかったことは明らかである。(P206)』 としている。安龍福は民間人なので、領土の領有権交渉をする立場にないから、安龍福の主たる目的が領有主張でなかったことは正しいだろう。しかし、従たる目的が領有権主張でないとするならば、池内論文の指摘は不十分だ。普通に考えたら、安龍福の目的は、鳥取藩なり対馬藩から金品が欲しかったのだろう。そのためには、1693年に鬱稜島で日本人に連行されたことは、日本側の不正でなくてはならず、そのために、鬱陵島・竹島が朝鮮領である事を主張することは、理にかなった行動だ。

 ところで、池内氏は、 『この海域(鬱陵島・竹島付近)で、日本人と朝鮮人が出会うのは、安龍福事件の生じる1690年代まで待たなければならない(P226)』 と記しているが、これは事実だろうか、単なる憶測だろうか。もちろん、1690年代以前に出会ったことを示す資料はないので、このような推測をする人がいることは理解できる。安龍福事件は、両国人が出会ってトラブルが生じたものであり、トラブルが生じない限り、お互いに、見てみぬフリをするなり、密貿易をするなりして、当座の利益を図るのが普通ではないだろうか。実際、日本人からすれば、安を連行したために、逆に、渡海が禁止されることになり、不利益をこうむっている。
 P239の記述はいただけない。18世紀後半になると、朝鮮全図は実測に近い縮尺で書かれているが、鬱稜島・于山島の位置関係の縮尺が異なっていることを持って、この于山島は竹島では決してありえないと言い切っている。陸上の距離は、歩数や歩行時間で、かなり正確に把握することが出来るので、高度技術を用いなくても、実測に近い縮尺で書くことは可能だ。しかし、離島の場合は、三角測量技術か天体観測技術がなければ、正確に距離を求めることは出来ないので、陸地の距離が正確だからといって、離島の距離が正確に測定できることにはならない。日本地図でも、正保御国絵図では、蝦夷・千島の縮尺がでたらめだけれど、だからといって、描かれた島々が千島ではないと判断することは出来ないし、そのような主張をする人はいない。鬱稜島・于山島の位置関係をもとに、于山が竹島でないとするならば、当時、離島の測距技術がどのようなものであり、離島作図がどのような手法でなされていたのかを明らかにする必要がある。

 1900年、大韓帝国勅令第41号では、鬱稜島と竹島石島を鬱郡の管轄地域とした。この中で、竹島とは鬱稜島に隣接する竹嶼のことであるが、石島とは、現・竹島のことなのか、違う島のことなのか、議論がある。
 池内氏は、この件に対していろいろと考察しているが、何を問題としているのか。

 そもそも、日本では、地名の漢字は、あまりあてになるものではない。西上州・荒船山の最高峰はガイドブックによれば『京塚山』、途中の指導標では『行塚山』、山頂の表示では『経塚山』となっている。京・行・経では、字も違うし、読み方も若干異なるが、この程度のズレは、マイナーな地名にあっては、特段珍しいことではない。地元で言われていた名称を、当て字で書いたものだから、人によって字が異なったために、このようなことが起こった。
 北アルプス白馬岳の名称の由来は面白い。この山は、春になると山腹に黒い馬の形の雪形が現れるが、これが代掻き馬に似ているものだから、代馬の意味でシロウマと呼んでいた。これに白馬の当て字が使われたために、白馬岳となり、最近ではハクバと読む人も多い。雪形は黒馬なのに、白馬になってしまった。(名称の由来が正確に実証されたわけではなく、一般にはこのように言われているという意味です。)
 意味が分かっていながら、故意に、異なった漢字があてられたケースもある。大菩薩峠の南に石丸峠があるが、ここには、石摩羅(石でできた男根・ペニス)が祭られていたため、石摩羅峠と書くべきところを、摩羅ではみっともないので、石丸峠としたものである。なお、現在、峠から少し離れたところに、3代目石摩羅が置かれている。
   北方領土の択捉島も、近藤重蔵が標柱を立てた時には『恵土呂府』と書かれていた。これが、現在のように『択捉』と書かれるようになったのは、いつのことなのだろう。
 現在、韓国では、竹島のことを独島と呼んでいることは、疑いのない事実であり、石島が近似した音であるならば、付近に石島と思われる島がない以上、日本の地名の常識から判断した場合は、独島=石島と考えるのが、妥当な判断だろう。
 ところで、日本にも『石島』がある。岡山、香川の県境の島で、岡山側からは通常『石島』、香川側からは通常『井島』であり、どちらも『イシマ』と読む。とかく、漢字表記はあてにならない。

 さて、石島を漢字の意味を考えて、石のような島と解釈する人もあるようだ。地名の漢字は、当て字であることが多く、意味を詮索することは有意義でないことが多いが、地名の由来に詳しくない人が、漢字の意味を詮索したくなるのは、仕方ないだろう。
   石島を石のような島と解釈する説に対して、池内氏は次のように書いている。
 安龍福は1696年、欝陵島で出会った日本人を叱責し、逃げる日本人を追跡して子山島(于山島)に到った。この子山島(于山島)を安龍福は松島とも記載しており、当時日本で松島と呼んだ島は現在の竹島/独島のことだから、安龍福は竹島/独島をじかに見たことが確実である。そして安龍福は、追跡した日本人が「松島で釜を並べて魚を煮ていた」とも述べている(『粛宗実録』粛宗22年(1696)年9月25日条)。そこで人が煮炊きできるような場所が「石のような島」ではありえない。(P244)
 この文章、何を言っているのか、さっぱりわからない。
 栃木県鹿沼市北西に岩がごつごつした、その名も『岩山』という山がある。この岩山には、樹林も多く、もちろん、人が煮炊きできるような場所はいくらでもある。岩山と言っても、100%が岩で、土がゼロと言う意味ではない。もっとも、埼玉県・長瀞の岩畳(石畳)は岩しかないけれど、遠足の子は普通に弁当を食べているので、もし仮に100%岩の島があったとしても、人が煮炊きできるような場所など、いくらでもあるだろう。(北関東のマイナーな地名の話題が多くてすみません。埼玉県民なので。)
 それとも、池内氏は、「石のような島」を「ごろごろした石が積もってできた島」の意味に解釈したのだろうか。登山用語では、ごろごろした石が積もった地形をゴーロと呼ぶ。北アルプスの野口五郎岳は、山頂付近がゴーロになっているので、五郎の当て字が使われているが、この山でも、当然、煮炊きできるし、なにより、石の場所は、地面が乾いているので、煮炊きに適した場所だ。なお、野口五郎岳には、五郎の名がつけられているが、全山がゴーロのわけではない。このように、石や岩のような山で、煮炊きが出来るのは普通のことだろう。

 ところで、大韓帝国勅令第41号とは、何を目的としているのだろう。鬱稜島を管理する役人に対して、管轄区域を明確化することにあるように思える。もし、そうならば、石島とは、鬱稜島を管理する役人や、その周辺の人が分かればよいので、過去に使われた名称ではなくて、現在の名称を使うことが理にかなっている。もし、大韓帝国勅令第41号の目的が、20世紀後半に発生する日本との領有権争いに勝利するために、領有権主張を明確化する目的で書かれたのならば、過去に使われた由緒ある名称を使わなくてはならない。

呆れた産経新聞2013年02月07日

 今日、北方領土の日にちなんで、産経は、次のような、おバカ記事を書いている。

 『北方四島と北海道東方との中間ラインというのは、「ロシアが主張する国境にすぎず、多くの悲劇を生んできた」(海保幹部)。』

 日本の法令で定められていないラインを、海保が取り締まるわけないだろ。産経の書いている「海保幹部」とは、誰だか知らないけれど、相当な落ちこぼれに違いない。 
 
 北方四島と北海道東方との中間ラインは、正確には『北海道海面漁業調整規則 別表第2の2』で定められた、参考ラインのことです。この線を越えて、不法に漁業すると、同規則第32条の2違反になり、第55条によって、6月以下の懲役若しくは10万円以下の罰金になります。

 北海道海面漁業調整規則は、こちらにあります。
 http://www.reiki.pref.hokkaido.jp/cgi-bin/d1w_savvy/D1W_resdata.exe?PROCID=-1617565952&CALLTYPE=1&RESNO=16&UKEY=1360195552025

本の紹介 領土問題をどう解決するか―尖閣、竹島、千島2013年02月09日


志位和夫/著『領土問題をどう解決するか―尖閣、竹島、千島』

 共産党・志位和夫委員長の領土問題解説。
 日本の領土問題である、北方領土・竹島・尖閣について、歴史的・国際法的立場からの解説と、共産党の解決案あるいは政策の説明。歴史的・国際法的立場の解説は、基本的に、日本政府の説明と特に変わったところはないので、この部分に関心のある人に、本書はあまり参考にならないかもしれない。
 共産党は政治の中枢から遠い存在なので、共産党の政策は、実現の可能性は乏しいだろう。実際、実現可能な現実的ば案とは思えない。

 そういうことで、共産党支持者が、共産党の政策を学ぶためには良い本かもしれないけれど、特に、共産党の政策に関心がないならば、本書を読む意義は乏しい。

本の紹介-池上彰の学べるニュース6 (日本の政治 領土問題編)2013年02月10日


『池上彰の学べるニュース6 (日本の政治 領土問題編)』海竜社 (2012/12)

テレビ朝日の番組の書籍化。本書は、次の5つの話題について、やさしく解説している。
 「小選挙区比例代表並立制」とは?
 「尖閣諸島」「竹島問題」って?
 「北方領土問題」に進展の気配?
 「消費税」アップ
 「電力」のこれから!

「尖閣諸島」「竹島問題」「北方領土問題」について、易しい解説になっているので、新聞を読んだことのない人や、読んでも難しくて理解できない人が、これら問題を理解しようとした場合には好適な本だ。
 すでに、新聞報道などで領土問題の概要を知っている人は、それらの内容を超えるものではないので、今更、この本を読む必要はないだろう。
 テレビ番組では、一般主婦の知識を小学校4年生程度としているが、本書の内容も、平均的な成績の小学4年生に理解できるような記述になっているようだ。

本の紹介-ニコライ堂と日本の正教聖堂2013年02月11日


池田雅史/著『ニコライ堂と日本の正教聖堂』 東洋書店 (2012/10) (ユーラシア・ブックレット)
日本にある各地の正教会聖堂の概略と東京神田のニコライ堂の話。
60ページ足らずの薄い本なので、深い内容は無いけれど、各地の正教聖堂を見学する上でのガイドになる。東京神田のニコライ堂の話は、創建当時の建物がメインで、現在にニコライ堂に対する説明はわずか。

本の紹介-岩波講座 東アジア近現代通史 72013年02月12日

 
 
和田春樹・他/編『岩波講座 東アジア近現代通史 7 アジア諸戦争の時代 1945-1960』(2011.2)岩波書店
 
日本の敗戦から、東西冷戦期における東アジア現代史。本の内容は、『東アジア通史』、『各地域の個別史』、『東アジアの中での戦後日本』の3つに分かれ、それぞれの部分を各テーマごとに複数の著者が執筆している。 
 
東アジアの中での戦後日本のなかに、原貴美恵氏の20ページあまりの論文「北方領土問題と平和条約交渉」がある。原氏の著書「サンフランシスコ条約の盲点」の中の、北方領土問題の章と大きな違いはない。

本の紹介-日本人が知っておくべき 尖閣・竹島の真相2013年02月13日


 SAPIO編集部『日本人が知っておくべき 尖閣・竹島の真相』

 本の内容の多くは、SAPIOに書かれた竹島・尖閣問題の関連記事を集めたもので、山本皓一氏の著述が中心。
 内容は、日本政府の説明を越えるものではなく、さらに、重複する記述が多いので、ページ数の割には、内容が乏しい。この本を読むよりも、日本政府が無料で配布しているパンフレットを読む方が、理解しやすいと思う。

 一つ、気になったことがある。

 1693年、鬱陵島に出漁していた安龍福は日本人漁民に捉えられ、鳥取藩の取り調べを受けた後、対馬経由で帰国した。この事件をきっかけに、鬱陵島は朝鮮の領土であって、日本の領土でないことが確定する。安龍福は1696年にも日本にやってくる。この時、帰国後、鬱陵島・竹島は朝鮮の領土であると日本人に言ったと説明しているため、現在、韓国では、安龍福を現・竹島を守った英雄として評価している。安龍福供述は、どこまでが事実で、どこがホラ話なのか、怪しいものであるが、この件に関する、山本氏の説明は正しいのだろうか。
 安について触れている最も古い朝鮮側史料とされる『粛宗実録』(1728年〉には、安の供述が載っている(安が朝鮮でも取り調べを受けた理由は後述)。安龍福が纏陵島に来た日本人を追い返す場面について、以下のように記されている(筆者要約)。 《倭人は「われわれは本来、松島に住んでおり(=倭言吾等本住松嶋)、たまたま漁でやってきた。ちょうど帰るところだ」と答えた。これに対して(安は)「松島は干山島だ。これもまたわが国の土地であるのだから、お前たちがどうして住めるのだ」と応じた》 「欝陵島に来た日本人を追い返した」というこの話自体、安の創作だった可能性が高い。松島(竹島)は水も出ない岩礁で、人が住める島ではないのだ。(P62,P63)
 『住』とはどのような意味だろう。現在の日本語では、『住』と書くと、居住のように、少なくても数ヶ月間はその場所に滞在するイメージがあるかもしれないが、広辞苑の説明では『とどまる』の意味が記載されているので、正しい日本語では、長期間居住する意味だけに使う言葉ではない。それに、李白の有名な詩に『両岸猿声啼不住』とあるが、この『住』は『止む』と読み、一時的に止まることを意味している。日本のホテルの中国語案内で、『入住手続』とあると、チェックインのことで、『住』とは、宿泊することを意味しており、数ヶ月以上居住するとの意味ではない。
 このように、現代日本語でも、中世中国語でも、現代中国語でも『住』は短期滞在にも使われる。特に、現代中国語では『雨住了、風停了(雨がやんだ、風がやんだ)』のように、『住』は『停』と同様にSTOPの意味で使われる。

 山本氏は「松島(竹島)は水も出ない岩礁で、人が住める島ではないのだ」と書いているけれど、戦前に竹島でアシカ猟をしていた人たちは、仮小屋を作って、数日間滞在していたので、数日は滞在可能な島であることは明らかだ。
 山本氏は、当時の韓国では『住』を、数ヶ月以上宿泊するという意味以外に使わなかったと、調査した上での主張なのだろうか。それとも、広辞苑程度の日本語の辞書も調べないで、無知・無能で、デタラメを書いたのだろうか。

 もし、山本氏が、優れた学者ならば、綿密な調査の上での記述と思ってしまうが、山本氏の学歴を調べると、出身大学は日大芸術であり、ここの駿台偏差値は45程度と、学業成績が不振でも入れる大学だ。このため、広辞苑程度の日本語の辞書を調べることなく、無知・無能なデタラメを書いたのだろうと思えてしまう。実際は、どうなのでしょう。

本の紹介-テレビはなぜおかしくなったのか2013年02月17日


金平茂紀・他/著『テレビはなぜおかしくなったのか』高文研 (2013/1)

 元ジャーナリストやマスコミ研究の大学教授4人による、最近のテレビ報道問題に対する解説。
 原発反対デモ報道、原発事故報道、生活保護バッシング、尖閣問題報道に対して、テレビ報道が、不正確で、権力におもねっている点を指摘している。日本には民主主義の伝統がないので、お上絶対主義が国民に蔓延しているのだろうか。
 本の中で指摘されている点はもっともなのだけれど、「なぜそうなったのか」「ではどうするのか」との視点が乏しく、単なる、愚痴のようにも感じる面もあるが、昨今のマスコミ問題を考える上で、大いに参考になるだろう。

 原発事故では、新聞テレビなど、押しなべて、政府や東電の発表をそのまま垂れ流し続けていた。4号機の危機や、メルトダウンについて、正確な報道がなされていなかったことが今になって明らかとなっている。政府が危機を伝えたら、国民がパニックを起こすかも知れず、政府発表が慎重になるのはある程度仕方ないことだ。しかし、マスコミ報道がすべて、政府の後追いでは、情けない。このようになったのは、マスコミ人の勉強不足が原因ではないだろうか。4号機の危機やメルトダウンの可能性は、原発の構造が分かっていれば、ある程度推測できたはずで、原発の知識があるジャーナリストが情報収集したならば、別の視点も得られただろうに、それらがまったくなされていないかった。
 本書では、昨今の報道の問題を、マスコミの民主主義のとして捕らえているが、マスコミ人の能力低下も、問題の一因であるように思える。

本の紹介-竹島史考2013年02月20日

   
 大熊良一/著 『竹島史考』 原書房; 普及版 (2012/11)

 1968年に出版された『竹島史稿―竹島(独島)と欝陵島の文献史的考察』の普及版として出版された。
 著者の大熊良一は自由民主党調査役などを歴任し、自民党の領土問題の理論を確立した。このため、竹島問題以外に、北方領土、尖閣、小笠原、琉球の領有問題に関する論文がある。本書の説明によると、現在、著者の行方が分からず、出版社は連絡が取れない状態のようだ。

 本書は、出版が古いため、現在では不十分な内容もあるが、竹島問題を詳細に説明している点で、一定の参考にはなるだろう。本書の初出以前に書かれた本としては、外務官僚だった川島健三の著書があるが、本書は、川上の本と類似した内容になっている。川上の本は、外務官僚による、日本の立場を説明するものであり、決して客観的な学術書とは言えないものであるが、本書では、朝鮮の古文献である世宗実録地理誌等に対する、川上の本の論考を「政治的な考えや意識的な観念論をはなれて傾聴すべき論拠に立つ(P72)」としており、この一文を見ただけでも、本書は日本の立場を主張するものであることが分かる。

 ところで、好天時には、鬱陵島の標高200m以上から竹島を見ることは可能なことが、計算でも容易に分かることであるが、川上は鬱陵島から竹島を見ることはできないと、誤った見解を示した。本書でも、同じ誤りを犯している(P175)。川上や大熊の説が誤りであることは、中学校で習う三平方の定理を使えば容易に分かるが、日本では、長い間、誤りであることが理解できない人も多かった。2007年に、韓国の新聞に鬱陵島から撮影した竹島の写真が掲載されるにおよび、川上や大熊の説が誤りであることが理解されるようになった。
  
 1693年、鬱陵島に出漁していた安龍福は日本人漁民に捉えられ、鳥取藩の取り調べを受けた後、対馬経由で帰国した。この事件をきっかけに、鬱陵島は朝鮮の領土であって、日本の領土でないことが確定する。安龍福は1696年にも日本にやってくる。この時、帰国後、鬱陵島・竹島は朝鮮の領土であると日本人に言ったと説明しているため、現在、韓国では、安龍福を竹島を守った英雄として評価している。安龍福供述は、どこまでが事実で、どこがホラ話なのか、怪しいものであるが、安龍福の供述には、日本側資料でも事実であることが確認されるものも多い。
 安龍福は、鬱陵島で出会った日本人が『倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所』と言ったと供述している。この文章を日本語に訳すと『日本人は次のように言った。私たちは元々松島に住していて、たまたま漁に来たが、これから帰るところだ。(松島は現在の竹島のこと)』
 大熊良一は、「かれが松島にまで渡航してこの岩島に日本人が居をかまえていて・・・という陳述のごときは、粉飾し誇張した表現であると考えられる(P179)」とし、安龍福証言は信用できないと書いている。
 しかし、原文には『住』とあり、『居を構えると』は書かれていない。『住』と『居を構える』が同じ意味ならば、この記述で問題ないが、『住』とはどのような意味だろう。
 現在の日本語の口語では、『住』と書くと、居住のように、少なくても数ヶ月間はその場所に滞在するイメージがあるかもしれないが、広辞苑の説明では『とどまる』の意味が記載されているので、正しい日本語では、長期間居住する意味だけに使う言葉ではない。それに、李白の有名な詩に『両岸猿声啼不住』とあるが、この『住』は『止む』と読み、一時的に止まることを意味している。日本のホテルの中国語案内で、『入住手続』とあると、チェックインのことで、『住』とは、宿泊することを意味しいる。このように、文語調の現代日本語でも、中世中国語でも、現代中国語でも『住』は短期滞在にも使われる。特に、現代中国語では『雨住了、風停了(雨がやんだ、風がやんだ)』のように、『住』は『停』と同様にSTOPの意味で使われる。
 このため、『住』を『居を構える』と、短絡的に考えることは出来ない。もし、当時の朝鮮での用例を詳細に検討した結果、このような訳をしたのであるならば、そのように説明すべきだ。
 本書の著者は、鬱稜島から竹島が見えないなどと、とんでもない誤りを犯しているので、この部分も、単に原文の曲解による捏造のような気がするが、実際はどうだろう。

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