本の紹介-千島列島をめぐる日本とロシア2014年06月19日


『千島列島をめぐる日本とロシア』 秋月俊幸/著 北海道大学出版会 (2014/5/25)

 日本北辺史研究の大御所による執筆なので、研究の集大成だろうと思って期待して読んだ。しかし、ちょっと、違ったようで、研究の集大成ではなくて、一般向けの歴史解説を目指しているものと思われる。参考文献も、たくさん記載されているが、どの記述に、どの文献の、どこを参考にしたのか、分からないので、研究の手助けにする目的では、使いにくい。
 本の内容は、日露の千島進出から、近年の領土問題まで歴史の順を追って説明している。このうち「第7章 露米会社と千島列島」は、本に書かれることも少なく、あまり知られていないことなので、参考になる。本の2/3は明治以前の千島をめぐる日露の歴史であり、本書の主眼はここに置かれている。この部分が、正しい歴史記述なのか、著者が自分に都合のよい事実だけを取り上げて書いているのか、私には、この時代の歴史知識がないので判断できない。参考文献や引用箇所が示されていれば、それら文献を当たって検討することが可能かもしれないが、本書では、相当に大変なことだ。

 後半1/3は明治以降の歴史。この時代の千島・樺太や日露関係の歴史については、他書にも記載が多いので、本書を読む必要は感じられない。本書の記述はページ数もあまり多くないので、内容も、豊富とは言えない。

 千島樺太交換条約交渉に関連した次の記述には、がっかりした。
 『榎本のストレモウーホフとの談判は見事なものであった。島上分界の不可を主張するストレモウーホフの論拠は榎本によって一つ一つ論破され、かつて駄々をこねる子供のような小出大和守を手玉に取った熟練外交官のストレモウーホフも榎本にはたじたじであったようである。(「大日本外交文書」七巻参照)pp221』
 この記述で、著者は『「大日本外交文書」七巻参照』と書いているが、418ページから449ページの中の、榎本・スツレモ-ホフ対話書として、日本人書記官が翻訳した所を参照しているのだろうか。榎本の部下に当たる書記官が、榎本を否定的に書くはずもないので、こんな資料で、『榎本のストレモウーホフとの談判は見事なものであった』などと考えるなど、信じられない。
 政治家は、自分の出世のために、自分の成果を大げさに見せたがるものである。このため、日本側の資料で、日本の外交官がすばらしかったかのように書かれていても、それだけでは、信憑性があるとはいえないので、必ず、裏づけを取る必要があるのに、本書の著者は、ロシア側資料を参考文献に挙げていないのは、どうしたことだろう。自分が贔屓している偉人を、ヨイショする目的で書いたのだろうか。
 そのような疑いの目で、明治以前を含む他の記述を読むと、冷静な史実を書いているのではなくて、特定の人たちを賞賛し、別の人たちを貶める意図が有るような感じもしてくる。

 終章は第2次世界大戦期およびそれ以降の千島の歴史であるが、この章は、むしろ、書かない方が良かったのではないかと思える。たとえば、290ページから292ページの文章の末尾を見ると、「させたようである」「決めていたようである」「行方不明325人にのぼったという」「スターリンの意図だったといわれている」「疑念をもっていたともいう」「もしそのことがなかったら…壊滅していたかもしれないといわれている」となっていて、これでは、噂話に過ぎない。「いう」と書くならば、だれがどのような根拠で言っているのか明確にしなければ、歴史解説としては意味がない。特に、歴史の解説書で、「もし…たら…かもしれないといわれている」は、ないでしょう。

本の紹介 - 小説外務省 尖閣問題の正体2014年06月20日


孫崎享/著『小説外務省 尖閣問題の正体』現代書館 (2014/4)

 尖閣問題を中心とした外務省・日本外交の問題を、小説の形で明らかにしている本。わかりやすく、読みやすい。孫崎氏の本を読んだことのない人はもちろん、すでに何冊か読んだ人にもお勧めです。

テンナンショウ2014年06月21日

 
先日、日光・千手が浜にクリンソウを見に行った途中の山道に、テンナンショウ属の植物が花をつけていた。これが茶色だったら、マムシグサかウラシマソウの気がするのだけれど、この白い花は、何でしょう。これから、黄緑色のなって、その後、茶色のなるのかなー。

本の紹介-蝦夷古地図物語2014年06月22日

 
『蝦夷古地図物語』梅木通徳/著 北海道新聞社 (1974)

 北海道・千島・樺太あたりの地理認識がどのように深まっていくのか、この過程を知る上で、古地図は重要だ。
 本書は、1974年に出版され、100ページ程度と少ないためで、掲載されている地図も、解説も少ないが、日本・ヨーロッパ・ロシアの地図をいろいろと掲載してあり、それなりに、地図の変遷が理解できる。

もっと、詳しく知りたい人は、以下の本が良い。

『古地図と歴史‐北方領土』 北方領土問題調査会編同盟通信社(1971.1)
『北方図の歴史』 船越昭生 講談社(1976) 
『日本北辺の探検と地図の歴史』 秋月利幸/著 北海道大学図書刊行会(1999.7)

本の紹介-沖縄の秘境を探る2014年06月23日

 
ちょっと、古い本。
 
高良鉄夫/著 『沖縄の秘境を探る』 琉球新報社(昭和55年7月)
 
 本の前半は「無人島は生きている」の副題で尖閣の動植物を取り上げ、後半は「密林の叫びとささやき」の副題で、おもに、西表島の密林の動植物について書かれている。本来は、学術的内用だが、一般読者を対象に、平易に書かれている。
 
 著者は、昭和25年から昭和43年にわたり、5度、尖閣諸島の動植物を調査した。専門は動物学なので、植物に関する記述は多くない。

 最初の調査は、昭和25年当時、魚釣島に仮工場を設けてカツオ業を営んでいた、石垣市の発田重春の船に便乗(P30,P31)したもので、魚釣島に上陸して調査した。第二回は大学と琉球政府の合同調査隊を作っての調査であり、このときは、魚釣島の他に南小島にも上陸して調査した。
  
 尖閣のヘビは、台湾や中国南部に見られるシュウダ(臭蛇)のみであり、宮古・石垣・西表で見られるサキシマスジオはいない(P97)との記述があり、興味が持てる。シュウダは魚釣島・南小島・北小島の、いずれでも、見つけたとのことだ。
 
 尖閣の植物について、詳細は、同行した植物学者・多和田真淳の報告を見るようにとのことであるが(P80)、沖縄で普通に見られるリュウキュウマツとソテツは、尖閣諸島のどこにも見当たらない(P81)と書かれている。
 
 第五次調査では、尖閣周辺に、たくさんの外国船が停泊しており、多くは漁船だが、その中の数隻は、海鳥や卵を採取しているようすを目撃した。南小島の他、北小島でも、人間の通路後が見られ、激しい乱獲が行われていた。また、このとき、台湾船が南小島で座礁船の解体作業をしているのに出会っている。
 南小島の海鳥の推定数は、昭和28年には50万羽、昭和38年には35万羽、昭和43年には1万羽、北小島の海鳥の推定数は、昭和28年には100万羽、昭和38年には50万羽、昭和43年には10万羽と減少した。(P111~P116)

本の紹介-千島概史2014年06月24日


高倉新一郎/著 『千島概史』(昭和35年)南方同法援護会

   古い本なので、読む機会はほとんどないと思う。
 内容は、「千島へのロシアの進出」、「日本の進出」、「日露の出会いと衝突」、「日露和親条約による国境画定」、「樺太千島交換条約」、「戦前の北千島経営」、「太平洋戦争期の千島」、「ソ連の千島占領」と時代を追って、千島の歴史を説明している。ただし、ページ数は170ページで、字が大きいので、あまり詳しくはない。このため、千島の歴史を、ざっと理解しようとする人には好適かもしれない。

 場所請負とアイヌの人口について以下の記述がある。
 国後場所は、文化十(一八一二)年二千三百五十五両で松前の米屋藤兵衛なる者が請負うことになったが、競争入札のため高価に失したか経営が続かず、毎年請負が変り、しかも収支償はず、文政三(一八二〇)年千両に落したが、それでも天保八(一八三七)年から十三年(四二)年まで不漁が続き、請負人の損失金合計四万円に及んだといい、嘉永六(一八五三)年には更に五百両に落さざるを得なくなった。
 蝦夷の人口も文政五(一八二二)年の三百四十七人から九十九人に減少し、同じ柏屋嘉兵衛が請負っていた根室場所及び斜里場所から年年多くの蝦夷を出稼させねばならなかった。
 択捉島も、最初高田屋嘉兵衛に請負はせた時は年二千両の約束であったが、年々凶漁が続き、文政元(一八一八)年には千両に落さざるを得なかった。殊に高田屋が天保二(一八三一)年に没落した後は経営がうまく行かず、有力者に半強制的に請負はせて漸く維持し、天保十三(一八四二)年から伊達林右衛門と栖原仲蔵が請負うことになった。
 蝦夷の人口は開島当時百九十軒、人別千百十八人あったものが、安政三(一八五六)年には八十九軒四百九十八人に減少していた。
(P103,P104)

『放射線量』の考え方と使い方2014年06月26日


『わかりやすい 放射線物理学』多田順一郎/著 (1997/12)オーム社

に、『放射線量』の考え方と使い方について、分かりやすく書かれている。

放射線の量とは
 放射線は、人の五感によって捉えることができません。これは、私達の感覚が、磁場の存在を直接感知できないことと類似した状況です。もちろん、鉄粉やコイルを利用すれば、私達は、鉄粉が磁場から受ける力やコイルに誘導される電流を介して、磁場の状態を知ることができます。同様に、放射線を物質に作用させることによって、そこに生じる相互作用の種類と強さとから、放射線場の状態を間接的に知ることが可能なはずです。ここにいう放射線場の状態とは;
  ①どういう粒子(光子を含む)からなる放射線が、
  ②どういうエネルギー分布と、
  ③どういう方向分布を持って、
  ④単位時間にどれだけやって来ているか、
  ⑤さらに、①~④が時間的にどのように変化するか、
という状態を意味します。もし、ある空間領域内の任意の場所で、これらすべての量に関する情報が明らかであれば、我々は、その領域における放射線場の状態を完全に把握していると主張することができます。しかし、ある放射線場を表すのに、これら無数の情報を列挙することは、場が特別な対称性を持つ場合のような少数の例を除いてほとんど不可能でしょう。実用的な見地からすると、上に述べた複雑な放射線場の情報を、何かある一つの数値で代表させることができれば、大変に便利なはずです。私達が放射線場を記述するために用いるさまざまな"線量"は、こうした観点から、膨大な放射線場のパラメータを、一つの数値に集約させたものです。もちろん、この集約の方法は無数に考えられますから、私達の周りには、その目的に応じた方法で情報を集約したさまざまな"線量"(照射線量・カーマ・吸収線量など)が、共存する結果となりました。したがって、私達は、個々の"線量"が;
  ①どのような目的のために、
  ②どのような方法で放射線場の情報を集約し、
  ③結果として、放射線場のどのような特徴を記述する量になっている
かを、十分理解した上で、的確に区別して使用しなければなりません。(P173、P174)

計測線量
 計測線量(dosimetricquantity)は、放射線場の情報を一つの値に集約した俗に"線量"と呼ばれる量のうち、物理量であるものに相当します。放射線場とそれが相互作用する物体とに関するさまざまな情報をただ一つの数値に集約させる方法は無数にあり、それに対応して数多くの計測線量が考案されてきました。しかし、そのいずれの計測線量もある特定の事象に着目してつくられたものですから、その適用範囲は自ずから限定され、すべての現象について放射線の種類も物質の種類も問わず、同一の線量が同一の効果を表すような"万能の線量"などというものは存在するはずがありません。(P187)

線量当量
 放射線の単位と計測に関する国際委員会(ICRU)は、1962年に、放射線の種類の違いによる人体影響の相違を考慮した放射線防護のために用いる線量に、線量当量(H)という名称を与えました。その定義は、1986年若干の変更を加えられて、今日では以下のように規定されています。
 H=D・Q
 人体組織の吸収線量(D)に乗じられる線質係数は、上に示すように荷電粒子の水中における衝突阻止能の関数として与えられますが、"荷電粒子の水中における衝突阻止能"を測定その他の方法で決定することは容易ではありませんから、α粒子・重荷電粒子および速中性子(熱外中性子以上のエネルギーを持つものをすべて含む)に関しては20、陽子・中間子およびミューオンに関しては10、熱中性子に関しては4.6、そして光子や電子・陽電子に関しては1という実効値(Q)が便宜的に用いられています。
 線質係数には次元がありませんから、線量当量は吸収線量と同じ(J/kg)というSI単位を持ちます。そこで、吸収線量と区別するためシーベルト(Sv)という特別の名称が与えられています。
 線量当量を用いるときに注意すべきことは、線量当量が放射線による晩発障害(発がんや白内障、遺伝的影響等)のリスクを記述するための量であるという点です。したがって、放射線治療における投与線量を表すために用いることはもちろん、大量の線量を高い線量率で被曝したときに発生する急性障害(消化管障害・増血機能障害・皮膚障害など)のリスクを記述するために用いることも適切ではありません。また、線質係数を乗じた量であるという意味で、線量当量を含むすべての"放射線防護のための線量"は物理量ではなく、数値的な厳密さを追求すべきものではありません。(P207、P208)

DVDの紹介-徐葆光が見た琉球2014年06月29日


徐葆光が見た琉球 冊封と琉球

日中国交正常化40周年、沖縄返還40周年を記念して企画されたドキュメンタリー映画。DVDは2013年発売。

明・永楽帝の時代、琉球は明国と冊封を受け、このとき以来、琉球王が交代するときは、明・清から王の任命を受けることになった。琉球王の任命のために、中国の役人・冊封使が渡琉した。

徐葆光は、琉球国の尚敬を 中山王に冊封する冊封副使として、1719年に、琉球にやってきた。琉球滞在8ヶ月の期間中の見聞を元に「中山伝心録」「海舶集」を著し、琉球への渡航、冊封の儀礼、琉球の風俗などを詳細に記した。

この映画は、徐葆光を中心とする当時の琉中関係や彼の記述した琉球宮廷料理・琉球宮廷舞踊の再現と解説。ドラマ仕立てもあるが、多くない。

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