本の紹介-偽金づくりと明治維新2015年06月13日

 
徳永和喜/著 『偽金づくりと明治維新』(2010/3) 新人物往来社
 
 琉球を支配した薩摩藩は、琉球を介して清国と貿易をすることにより、利益をあげていた。しかし、第28代当主・島津斉彬の時代になると、琉球を介した交易にも行き詰まりが見え、さらに、欧米列強の琉球開国圧力は強まり、それがために、薩摩藩では、かえって経費が必要な事態になってきていた。
 こうしたなか、島津斉彬は贋金を作って藩財政の立て直しを目論んだが、斉彬の時代には、少数の試作品を除いて贋金は作られていない。
 文久2年(1862年)、琉球救済の名目で幕府に申請していた「琉球通宝」の鋳造許可がおりる。琉球通宝は領内限定で通用が認められたものなので、薩摩藩の利益にはなりにくかったため、天保通宝を贋造した。薩英戦争で鋳造所が焼失したのちは、場所を移して再開し、鋳造量も増大した。贋金は秘密裏に作るものなので、公文書などは残っておらず、詳しいことは不明であるが、贋金作りの中心を担った市来四郎の自叙伝によると、贋・天保通宝の鋳造量は290余万両だったとのことなので、1億枚を超える鋳造枚数だったことになる。
 贋金つくりに必要な銅材料の調達には、寺の鐘や仏具も使用された。現在、鹿児島県には古刹がほとんどない。幕末から明治の廃仏毀釈が徹底していたと説明されることが多いが、贋金つくりに鐘や仏具を没収した歴史が、徹底した廃仏毀釈につながっている。
 薩摩藩では、偽天保通宝のほかに、慶応元年から、二分金も偽造している。
 
 本書は、薩摩藩による贋金づくりの実態を解明したもの。

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