本の紹介ーブッダに学ぶ ほんとうの禅語2022年07月15日


アルボムッレ・スマナサーラ/著『ブッダに学ぶ ほんとうの禅語』アルタープレス(2020/1)
 
 著者はスリランカ上座部仏教の長老。
 本書は、日本や中国の禅宗における禅語を、上座部仏教の立場から解説。平易な文章で、難解な禅語を分かりやすく説明しており、たいへん読みやすい。
 本書では、禅宗が目指すものと釈迦の教えが目指すものが同じであること、しかし、釈迦の教えが分かりやすく語られたのに対して、禅語は聞いた方が意味を自分で考えるように語られていることが違うとしている。このような立場の違いからか、禅語の解説としては、非常にわかりやすい。ただし、禅語の意味不明な所に魅力を感じている人には、不満な内容だろう。
 
 著者によれば、釈迦の教えは誰でもわかりやすいことであり、日本の禅とは異なる。本書「あとがき」にこの点が明確に記されている。
 パーリ経典にあるブッダの言葉と違って、禅語は「説法している」「真理を語っている」ような感じを与えません。禅語を読んだ人は、「え?意味は何?」という気持ちになるのです。要するに、それについて集中して考えるはめになるのです。禅語はいとも簡単に人の興味をかきたてます。
 ブッダの教えは、精密に理論的に流れるものです。…精密な理論に則って語るお釈迦様の言葉を学んでも、誤解は生じません。異論も生じません。聴く人の主観で解釈して、本来の意味ではなく自分好みの意味に捻じ曲げることも成り立ちません。
 禅語には、この安定性がないのです。読んだ人が、しゃべった禅師が思った意味とは全く違った意味で理解してしまう可能性もおおいにあります。また、時間がたつと禅語が別な意味に変わってしまうこともありえるのです。
 言葉に対するお釈迦様の態度はこれとは異なります。意味は決して曖昧であってはならないし、語り手の伝えようとする意義は聞き手に正しく伝えられなくてはならない。ブッダは誤解を認めません。
 禅の師匠たちはあえて曖昧な言葉で語って、「誤解したらお前の問違いだ」という態度で、人々に「覚悟せよ」と迫るのです。両者は全く違う立場に拠っています。しかし、ともに解脱の境地を表現しているのではないかと思います。

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