渡来銭―大きい銭貨と小さい銭貨2010年09月19日

 
左:2倍に通用した元祐通宝。直径30mm、8.25g。
中:普通の元祐通宝。直径24mm、4.59g。
右:安南(ベトナム)で私鋳された元豊通宝。直径21mm、1.75g。

写真左のように、2倍以上に通用した大型貨幣があった。日本にも渡来しているけれど、通用していない。
写真中央は、普通の元祐通宝で、渡来銭として、鎌倉・室町時代に使われている。
写真右は安南で私鋳されたもの。安南では国家が鋳造した貨幣のほかに、私鋳されたものがあり、私鋳品には写真のように極端に小さく薄いものがある。安南銭は日本にも渡来しているけれど、こんなに小さいのは使われていない。
鎌倉・室町期には、大きいものや小さいものは、嫌われたようだ。


渡来銭の説明はこちら
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/

渡来銭―北方経由の渡来2010年09月20日

 
 
 稚内のオホーツク文化の遺跡(オンコロマナイ貝塚)から、「煕寧重宝」が出土している。写真左は「煕寧重宝」。出土品とは別物です。写真は篆書体だが、出土品は真書体。
 日本の渡来銭では、写真右の「煕寧元宝」は非常に多いけれど、「煕寧重宝」はめったにない。函館・志海苔遺跡では37万枚の渡来銭が出土したが、この中で「煕寧元宝」は3万5千枚あったのに、「煕寧重宝」はわずかに12枚だった。日本の中世では「煕寧重宝」のような大型銭は嫌われ、流通していない。
 日本の渡来銭には珍しい「煕寧重宝」がオンコロマナイ貝塚から出土しているのは、これが日本経由ではなく、女真文化からサハリンを経由して持ち込まれたことを強く示唆している。
 また、網走のオホーツク文化の遺跡・モヨロ貝塚からは「景祐元宝」が出土しているが、これも、北方経由でもたらされたものだろう。
 
 このように、日本人が道東・道北に進出する以前に、北方民族の大陸との交易が行われていたことは、発掘渡来銭からも推測できることである。

参考文献:
 『オホーツクの古代史』菊池俊彦/著 (平凡社新書)


渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/

北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm

渡来銭―長崎貿易銭2010年09月23日

幕府は寛永13年(1636年)より寛永通寳を鋳造し、その後、寛永通宝か普及すると、これまで使用されていた渡来銭の使用を禁止した。

当時、中国やベトナムでは銅銭が不足し、輸入の需要が多かった。オランダは日本からこれら地域に銅銭を輸出するため、万治二年(1659年)、幕府に対し東洋貿易に使う銅銭の鋳銭依頼をした。当時、幕府は寛永通宝の輸出を禁止していたので、別な銭を長崎で鋳造し輸出に使用した。

このとき鋳造された銭貨を長崎貿易銭という。宋銭を模倣した「元豊通宝」「祥符元宝」「天聖元宝」「嘉祐通宝」「熙寧元宝」「紹聖元宝」「治平元宝」の七種類が造られている。圧倒的に多いのは「元豊通宝」の隷書体(写真のものです。)


参考文献:
貨幣 (日本史小百科)』滝沢武雄・西脇康/編 1999/02 東京堂出版


渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/

渡来銭-寛永通宝の海外渡出2010年09月25日

 鎌倉・室町時代には、中国から日本へ大量の銅銭が渡来し、日本の貨幣経済の発展に寄与したが、江戸時代になると、逆に日本から中国やベトナムへ銅銭が流出している。長崎貿易銭は、日本からの銅銭を輸出しようとしたオランダ人商人の求めで鋳造されている。

 寛永通宝は日本国内の流通を目的に造られた貨幣であり輸出は禁止されていたが、利益があるならば、輸出を手がけるのが商人の常。中国大陸には寛永通宝が持ち出された。このため、現在、中国各地で寛永通宝が出土している。

 
 上の図は、三宅俊彦/著『中国の埋められた銭貨』(同成社 2005/01)に示された「寛永通宝の発見例」。(見やすいように色を付けています。)中国全土の広い範囲にわたり、寛永通宝が発見されていることが分かる。

 このほか、カムチャツカ南部、北千島などでも、寛永通宝が発見されているので、長崎経由と北海道経由の輸出があったのだろう。

 寛永通宝が見つかったからといって、そこに日本人が進出していたと軽率に即断することは出来ない。


参考文献
 三宅俊彦『中国の埋められた銭貨』同成社 (2005/01)
 松浦章『清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関』東アジア文化交渉研究 (2008.03)

 

渡来銭-北方地域出土の寛永通宝2010年09月26日

寛永通宝は中国各地で出土しているけれど、カムチャツカや北千島でも出土しています。

カムチャツカ:
 1910年ごろ、クリル湖付近で3枚の日本貨幣が発見された。3枚とも寛文期の寛永通宝(文銭)。
 1970年代、カムチャツカ南端のロパトカ岬のロパトカⅠ遺跡の住居跡上層貝塚で寛永通宝銅銭1枚が発見された。
 1970年代、カムチャツカ東岸のジュパノボ遺跡で15枚の寛永通宝が発掘された。このうち6枚は寛文期の寛永通宝(文銭)、残りの9枚は裏無文の寛永通宝。

千島列島北部:
 馬場脩による1933年~1938年の発掘調査で、3箇所から寛永通宝が発見された。現在、函館博物館の所蔵になっている。
 ・占守島別飛土人墓地裏手砂丘貝塚で宝永丸屋銭を発見(注)
 ・幌筵島樺里弟11号住居跡で寛永越後高田銭を発見
 ・幌筵島武蔵湾別飛貝塚で元文高津新地銭を発見

また、アムール川最大支流の松花江流域でも、寛永通宝が発見されています。

(注)菊池俊彦の本では「宝永丸屋銭」となっている。丸屋銭は寛文期の亀戸銭の系統であるが、宝永年間との説と正徳年間との説がある。また、同地で、古寛永通宝も発見されている。


参考文献:
『北からの日本史 第2集』北海道・東北史研究会/編 三省堂(1990)
『北東アジア古代文化の研究 』菊池俊彦/著  北海道大学図書刊行会 (1999)
『松花江流域出土の「寛永通宝」、その歴史的背景』榎森進/著 東北学院大学東北文化研究所紀要(1999)


渡来銭の説明はこちらをご覧ください
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/

北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm

尖閣問題は文化大革命の残滓2010年09月26日


 中国が尖閣諸島の領土要求をしています。尖閣諸島は日清戦争のさなかに、日本が領土に編入し、この時以降1970年までは、どの国からも抗議などはありませんでした。

 1960年代後半から1970年代前半の10年間、中国では文化大革命が起こっています。きっかけは毛沢東一味が劉少奇からの政権奪還を目的としたものでしたが、権力闘争にとどまらず、事業家・知識人等の弾圧、さらには、一般国民の弾圧が起こりました。1976年に4人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)が逮捕され、10年に及ぶ混乱は終焉しました。この間に処刑・殺害されたものは数百万人から数千万人と言われています。 

 写真は、文化大革命の真っ最中、1970年ごろ、「団結して国境を守ろう」と国民を鼓舞する目的で発行された切手。切手発行の直前に、中ソ国境のダマンスキー島で両国の軍事衝突が起こっています。

 尖閣諸島の要求は、文化大革命で権力を奪取した毛沢東一味が言いだしたものです。
 文化大革命の誤りは公式に認定されていますが、尖閣諸島の要求はいまだに取り下げられていません。


「中国切手に見る中ソ関係の歴史」は以下をクリック
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/China/ChineStamp.html

渡来銭―磁石に付く銅銭2010年09月28日


尖閣諸島をめぐって、日中が対立しています。
中国は、日本にレアアースの輸出を止めているとの情報もあります。ネオジム磁石を作るためにはレアアースが必要です。

 ネオジム磁石に付く「開元通宝(銅銭)」がありました。唐代に鋳造されたものなのか、後代の模鋳銭なのか分かりません。唐・宋の銅銭はネオジム磁石でも付かないものが多いのですが、南宋・清になると、付く銅銭が多くなってきます。

 フェライト磁石は磁力が弱いので付きません。

* * * * * *

<< 2010/09 >>
01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

RSS