エトロフ島の寛永通宝2010年09月08日


2007年、本Blogに、以下のようなことを書きました。
 ユーラシア21研究所理事長で拓殖大学客員教授等を務める吹浦忠正氏は、北方領土問題研究の第一人者の一人です。氏は、Blogを公開し、頻繁に記載しています。
 吹浦忠正氏は、Blogに、どなたかが択捉島で寛永通宝を拾ったことを理由に「択捉が日本固有の領土であることを証明する1つでもある」と書いていました。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2693
 どうしてこんな発想をするのでしょう。日本には、渡来銭(宋銭など)ぐらい、いくらだってありますが、だからといって「日本列島は中国の固有の領土であることを証明する1つでもある」などと考えるような人はいないでしょう。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/06/
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/09/20/

 吹浦忠正氏は、最近のBlogで、エトロフ島の寛永通宝の話題を書いています。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/7155

 どちらの寛永通宝も、裏に「文」字があるようなので、寛文のころ(1668年以降)、江戸・亀戸で鋳造されたものでしょう。

 千島列島最北端の占守島で発掘された寛永通宝が、函館の博物館に所蔵されています。このため、寛永通宝が、アイヌの人たちの交易活動によって、運ばれていたことは、ほぼ間違ありません。エトロフ島で寛永通宝が見つかった場合、大きく分けて次の3ケースで持ち込まれた可能性があります。
①アイヌの人たちの交易によってもたらされたもの。アイヌは和人と交易していたので、その時に入手した貨幣がアイヌ同士の交易によってエトロフにもたらされた。
②江戸時代に、この地を訪れた日本人の手によってもたらされた。
③明治以降、日本人の移住に伴って持ち込まれたもの。寛永通宝は、江戸時代に鋳造された貨幣ですが、明治30年ごろまでは通用していました。このため、明治以降も、財産として多くの人は保管しています。寛永通宝があったからといって、それが、江戸期に持ち込まれたとは言えず、明治に入植した人が、手持ちの財産の一部として持ち込んだ可能性があります。
 出土状況によって、どのようにして持ち込まれたのかを、ある程度、推察できる可能性がありますが、確定することは難しいですね。

 吹浦氏は「江戸時代、ここに高田屋嘉兵衛ら商人がやってきて、アイヌや和人とさまざまな取引をしていたときのものと思われます」と書いていますが、根拠を示していません。氏特有の「日本人の矜恃」でそう思ったのかな。
 
 写真はエトロフ島のものとは関係ない寛永通宝。左は、万治2年(1659年)以前に作られたもの。右は明和期(1764年-1771年)に作られた4文銭。

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