降伏の日2010年09月02日

9月2日は日本が戦争に負けて第2次世界大戦が終結した日です。

 日本では、一般には、月遅れ盂蘭盆会に当たる8月15日を終戦の日としていますが、この日は、天皇がポツダム宣言を受諾する旨、ラジオ放送で国民に伝えた日なので、正式には戦争は終わっていませんでした。ポツダム宣言13条では、日本軍は直ちに無条件降伏することが定められていましたが、日本軍は、まだ無条件降伏していませんでした。
 9月2日に「降伏文書調印に関する詔書」が渙発され、国民に対して敵対行為の禁止と武装解除を命じられています。この詔書に従って、同日、降伏文書の調印がなされ、日本は正式に連合国に降伏しました。

 米国では、9月2日を「日本に勝った日」と定めています。ロシアではこれまで翌日の9月3日が対日戦勝記念日でしたが、今年から、9月2日に変更されています。
 写真は、対日戦線に参戦した兵士などに与えられた徽章。9月3日となっています。

 なお、この日以降、正式に北方領土はソ連の占領地になっています。
 「ポツダム宣言第7条」によって日本の各地域は連合国の占領地域とされ、「降伏文書調印に関する詔書」によって、ポツダム宣言受諾と連合国の一般命令履行が定められ、さらに「一般命令第1号2条ロ号」によって、千島諸島はソ連軍の占領地になりました。


北方領土問題については、以下をご覧ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm

ポツダム宣言日本語訳
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19450726.D1J.html

降伏文書調印に関する詔書
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19450902shouchoku.htm

降伏文書日本語
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/KoufukuBunsho.htm

一般命令
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/Ippanmeirei.htm

教科書地図2010年09月04日

 
昭和27年発行帝国書院中学校地図教科書を入手しました。

左図が昭和25年発行の北海道地図の一部で、右図が昭和27年発行のものです。

ほとんど同じですが、よく見ると、昭和25年発行のものは、歯舞諸島の水晶島はソ連の領土になっていますが、27年発行のものは、日本の領土のように見えます。クナシリ島は、どちらの地図でもソ連領です。別のページを見ると、クナシリ・エトロフ・シコタン島は、どちらの地図教科書でもソ連領になっています。

現在の地図教科書は、文部科学省の命令で、北方領土を日本の領土と記載することが義務付けられていますが、昭和25,27年当時は、執筆者の自由が、現在よりも大きく認められていたので、教科書の記載が政府の公式見解と考えることは出来ません。

6カ国協議2010年09月05日

 朝鮮半島問題解決のための、6カ国協議は中断したままになっていますが、再開の見通しに対して、ロシアは楽観的見方をしているようです。
 Voice of Russiaに以下の記事があります。 http://japanese.ruvr.ru/2010/09/04/18750638.html
 北朝鮮の金正日総書記が中国を訪問した際、中国は早急に協議の場に戻るよう呼びかけた。これに対して総書記は肯定的な反応を示した。これについては、ロシアと米国、日本からも良い反応がみられるだろう。
 一方で韓国の反応について述べるのは難しい。韓国国民は、今年3月に発生した同国の哨戒艦「天安」号沈没事件を巡り、北朝鮮が自国の責任を認め、謝罪するよう求めている。・・・協議再開のためには、大統領がまず前言をひるがえし、これまでに提示した条件を撤回することになるだろう。これをスマートに行なう方法は、米国と中国から示唆されるはずだ。

 今年3月に南韓国艦が沈没する事故があり、南韓国政府は北朝鮮の魚雷攻撃と主張しています。この問題を調査したロシアは7月には調査結果を発表するとのことだったのに、いまだにロシアの正式発表はありません。
 7月下旬の、南韓国の新聞報道などによると、ロシア調査団は、南韓国の軍艦は座礁した(あるいは漁業用の網がからまった)後、機雷に触れて沈没した可能性が高いこと、北朝鮮の魚雷の一部と南韓国が主張している部品は6か月以上海中にあった可能性が高いとの見解を示しているようです。南韓国の新聞によると、機雷は韓国軍や米軍が設置したとみられるとのことです。
http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072701000381.html
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0728&f=politics_0728_007.shtml

 南韓国の主張は根拠なしとのロシアの科学的調査結果を南韓国政府も受け入れざるを得ない状況になっているのかな。

デジタルはかり2010年09月07日


「はかり」を買いました。
最大200gで最小目盛り0.01gです。
500円玉を測ってみたら、ちょうど7.00g。中国製だけど正確です。
中国製のため、1100円と、安価でした。

エトロフ島の寛永通宝2010年09月08日


2007年、本Blogに、以下のようなことを書きました。
 ユーラシア21研究所理事長で拓殖大学客員教授等を務める吹浦忠正氏は、北方領土問題研究の第一人者の一人です。氏は、Blogを公開し、頻繁に記載しています。
 吹浦忠正氏は、Blogに、どなたかが択捉島で寛永通宝を拾ったことを理由に「択捉が日本固有の領土であることを証明する1つでもある」と書いていました。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2693
 どうしてこんな発想をするのでしょう。日本には、渡来銭(宋銭など)ぐらい、いくらだってありますが、だからといって「日本列島は中国の固有の領土であることを証明する1つでもある」などと考えるような人はいないでしょう。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/06/
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/09/20/

 吹浦忠正氏は、最近のBlogで、エトロフ島の寛永通宝の話題を書いています。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/7155

 どちらの寛永通宝も、裏に「文」字があるようなので、寛文のころ(1668年以降)、江戸・亀戸で鋳造されたものでしょう。

 千島列島最北端の占守島で発掘された寛永通宝が、函館の博物館に所蔵されています。このため、寛永通宝が、アイヌの人たちの交易活動によって、運ばれていたことは、ほぼ間違ありません。エトロフ島で寛永通宝が見つかった場合、大きく分けて次の3ケースで持ち込まれた可能性があります。
①アイヌの人たちの交易によってもたらされたもの。アイヌは和人と交易していたので、その時に入手した貨幣がアイヌ同士の交易によってエトロフにもたらされた。
②江戸時代に、この地を訪れた日本人の手によってもたらされた。
③明治以降、日本人の移住に伴って持ち込まれたもの。寛永通宝は、江戸時代に鋳造された貨幣ですが、明治30年ごろまでは通用していました。このため、明治以降も、財産として多くの人は保管しています。寛永通宝があったからといって、それが、江戸期に持ち込まれたとは言えず、明治に入植した人が、手持ちの財産の一部として持ち込んだ可能性があります。
 出土状況によって、どのようにして持ち込まれたのかを、ある程度、推察できる可能性がありますが、確定することは難しいですね。

 吹浦氏は「江戸時代、ここに高田屋嘉兵衛ら商人がやってきて、アイヌや和人とさまざまな取引をしていたときのものと思われます」と書いていますが、根拠を示していません。氏特有の「日本人の矜恃」でそう思ったのかな。
 
 写真はエトロフ島のものとは関係ない寛永通宝。左は、万治2年(1659年)以前に作られたもの。右は明和期(1764年-1771年)に作られた4文銭。

渡来銭―皇宋通宝2010年09月09日

 エトロフ島に寛永通宝があったところで、和人が持ち込んだかどうか分かりません。
 寛永通宝は千島列島最北端の占守島でも発見されています。寛永通宝が日本で流通していた時期に、和人の占守島進出はありませんでした。また、根室半島のアイヌの遺跡では皇宋通宝が発見されていますが、日本で渡来銭が流通していた時期には、和人の道東進出はありませんでした。
 写真は「皇宋通宝」。アイヌの遺跡で発見されたものとは別物です。皇宋通宝には真書体と篆書体があります。

 皇宋通宝は、日本で発掘された渡来銭の中12%を占め、最大枚数を誇ります。中学校・高等学校の日本史教科書では、渡来銭の例として永楽通宝が必ず掲載されているので、渡来銭では永楽通宝が一番多かったように誤解している人も多いかと思いますが、永楽通宝は、渡来銭中第6位、5%に過ぎません。
 皇宋通宝は宋・第4代皇帝 仁宗(在位1022-1063年)の1039年から作られています。仁宗の治世は「慶暦の治」と称され、国力の充実した時期でした。

渡来銭(1)2010年09月10日

江戸幕府が寛永通宝を発行するまで、日本の銭貨には渡来銭が使われていた。長期間にわたって多種
の渡来銭があったが、多くは宋銭である。ここでは、国立歴史民俗博物館の渡来銭展示にしたがって、第1位の皇宋通宝から、第5位の開元通宝の写真を掲示する。

第1位 皇宋通宝(宋銭)
第4代皇帝・仁宗の1039年に発行された。皇宋通宝の名称は年号とは関係ない。
渡来銭第一位であり残存数も多いが、状態の良い物は案外少ない。真書体・篆書体がある。

第2位 元豊通宝(宋銭)
元豊通宝
第6代皇帝・神宗の元豊元年(1078年)に発行された。
状態の良い物も多いが、写真のものは、余り状態が良くない。真書体・篆書体がある。


第3位 熈寧元宝(宋銭)
きねい元宝
第6代皇帝・神宗の熈寧元年(1068年)に発行された。
文字の画数が多いので、鋳潰れしたものが多い。真書体・篆書体がある。
 
 
第4位 元祐通宝(宋銭)
元祐通宝
第7代皇帝・哲宗の元祐元年(1086年)に発行された。
真書体・篆書体がある。
 
 
第5位 開元通宝(唐銭)
開元通宝

開元通宝
唐・初代皇帝・高祖の621年に発行された。名称は年号から取ったものではない。
隋に代わって、300年にわたる長期統一国家となる唐建国を記念して発行された。唐、滅亡後の五代十国時代になっても製造され続けたため、残存数は非常に多い。開元通宝は日本にも輸入され、和同開珎など日本の貨幣に大きな影響を与えた。初期に鋳造された開元通宝は線がすっきりした良品が多い。
開元通宝の多くは真書体であるが、五代十国時代の南唐では篆書体も鋳造された。なお、明代になって、私鋳されたものも多いらしい。
道教に傾倒した第18代皇帝・武宗は、会昌5年(845年)以降、仏教を弾圧する。世に言う「会昌の廃仏」であ。このときに没収した仏具・鐘など銅製品から開元通宝を鋳造した。この時の開元通宝は裏に鋳造地を示す文字が書かれている。写真左は潤州で鋳造されたもの。この時代の開元通宝の多くは文字がつぶれている。

渡来銭(2)2010年09月11日

渡来銭の中で多い順に第6位から10位までです。

第6位 永楽通宝(明銭)
第3代皇帝・永楽帝の永楽6年(1408年)発行。
学校教科書では、室町時代の渡来選の代表とされているが、残存数はそれほど多くない。入手しようとすると、開元通宝などに比べて若干高額かもしれない。良品が多い。書体は真書体のみ。
永楽銭は永楽年間に明での使用目的に作られたが、実際には中国での出土が少ないため、日本への輸出のために作られたとする推察もあった。日本への輸出目的で公鋳・私鋳された永楽銭が存在する可能性は高いが、だからと言って、輸出目的に作られたというわけではない。15世紀末になると。中国では、永楽銭はほとんど姿を消すが、16世紀後半に、日本での永楽銭の出土がピークに達する。特に、関東での出土が多い。このため、これらの永楽銭は日本で鋳造されたと説明されることもある。16世紀後半あるいは17世紀前半には、鹿児島加治木町で私鋳された洪武通宝の鐚銭が知られるが、これらは概してつくりの悪いものが多い。これに対して、永楽銭は立派なつくりのものが多い。


第7位 天聖元宝(宋銭)
第4代皇帝・仁宗の天聖元年(1023年)発行。真書体・篆書体がある。渡来銭第1位の皇宋通宝も仁宗時代のもの。


第8位 紹聖元宝(宋銭)
第7代皇帝・哲宗の紹聖元年(1094年)発行。真書体・篆書体がある。第4位の元祐通宝も哲宗時代のもの。


第9位 政和通宝(宋銭)
第8代皇帝・徽宗の政和元年(1111年)発行。真書体・篆書体がある。


第10位 聖宋通宝(宋銭)
第8代皇帝・徽宗の建中靖国元年(1101年)発行。写真の真書体のほかに篆書体がある。第9位の政和通宝も徽宗時代のもの。

渡来銭(3)2010年09月12日

択捉島で寛永通宝が見つかったことを理由に「択捉が日本固有の領土であることを証明する1つでもある」とBlogに書いている人がいました。どうしてこんな発想をするのだろう。日本には、渡来銭(宋銭など)ぐらい、いくらだってあるが、だからといって「日本列島は中国の固有の領土であることを証明する1つでもある」などと考えるような人はいないだろう。

残存数第1位から第10位の説明を書きました。第1位から第40位までの写真と説明頁を作りました。
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/1to10/1to10.htm
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/11to20/11to20.htm
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/21to30/21to30.htm
http://cccpcamera.photo-web.cc/COIN/Toraisenn/31to40/31to40.htm

北方領土問題の解説には以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm

本の紹介―サハリンに生きた朝鮮人2010年09月18日

 
 
サハリンに生きた朝鮮人 ディアスポラ・私の回想記 李炳律/著 2008/1/30 北海道新聞社

日本に生まれて、幼いときに家族の都合で樺太・東柵丹に移住し、そこで農業を営んだ作者の伝記。李は戦前は農民だったがソ連統治下の1947年、農業をやめて炭鉱労働者となり、その後、共産党員、職場長となった。
朝鮮人の立場ではあるが、サハリンの戦前、戦中、終戦の混乱期、ソ連占領期の様子が良く分かる。また、サハリン残留朝鮮人が南韓国に帰国できなかった理由を、ソ連が南韓国を承認していなかったとしている。冷静な判断だ。
事実を淡々と記載している点で好感が持てる。

* * * * * *

<< 2010/09 >>
01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

RSS