尖閣領有の正当性の根拠と北方領土問題2010年12月02日

 産経新聞などに、『「尖閣は日本領」記述 中華民国からの感謝状』との記事があった。遭難して尖閣諸島に避難した中国・福建省の漁民31人を日本の住民が救助したことに対して、翌年の1920年5月に、中華民国駐長崎領事が贈った感謝状の文中に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれており、当時の中国が尖閣諸島を日本の領土として認識していたことが分かる、との内容である。
 
 江戸時代、沖縄は、日本と清国の両方に服属していたが、明治時代になって、両国で領有権問題が生じた。しかし、日清戦争勝利の結果、日本が台湾を領有することになったので、途中の沖縄や尖閣は、領土交渉なしに、日本の領土になった。1920年当時、台湾・沖縄・尖閣は日本の領土だったので、日本の定めた住所表示が使われていた。当時、尖閣の住所が沖縄の一部になっていたからと言って、「日本国が清国人より盗取した地域」でないとの証拠にはならないし、「歴史的に見ても日本の正当な領土」であるとの根拠にもならない。逆に、日本の領土ではないとの根拠にもならない。
 
 しかし、中国人によって支持されていた政権が、沖縄の一部として扱っていた地域を、今になって沖縄の一部ではないと言うのでは、意地汚い貪欲な民族であると主張することは可能だろう。では、1920年当時の北京政権はどのような状況だったのだろうか。
 
 1916年、袁世凱が死亡すると、北伐の1つである安徽派の段祺瑞が国務総理に就任した。日本の寺内内閣は、多額の資金を供与する(西原借款)など、段祺瑞を支援した。段祺瑞は、見返りに、日本に、様々な便宜を供与した。1918年5月、日華軍事防敵協定を締結し、日本軍の中国国内における行動を無制限とした。このような、日本との癒着は、中国民衆の激しい反発を呼び起こし、反日感情を高める結果となる。1919年5月4日には、中国民衆による反日運動「五四運動」が起こり、段祺瑞は批判にさらされる。さらに、1918年9月に寺内内閣が退陣し、日本の外交方針が転回すると、段祺瑞は急速に没落した。 1920年7月、かねてより安徽派と対立していた直隷派とのあいだに、安直戦争がおこると、5日間で安徽派は敗北し、7月19日には段祺瑞は辞職した。安徽派の主要メンバー徐樹錚は日本に亡命している。
 現在の中国政府は、この時代の政権の継承政権ではないので、安徽派政権が受けた借款の返済義務はなく、西原借款は返済されず、ほとんどすべてが、こげ付いた。
 安直戦争で安徽派を追放した直隷派・奉天派が権力の座につくと、今度は、両派が対立、1922年4月の第一次奉直戦争、1924年秋の第2次奉直戦争を経て、奉天派の張作霖が政権の座に就く。段祺瑞は、この時、執政として、張作霖政権に参加したが、1926年、反日学生デモの弾圧(三・一八虐殺事件)で失脚した。
 1920年5月は、安徽派の段祺瑞政権が崩壊の危機に瀕し、権力維持のためには日本の援助が必要な時期であり、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれた感謝状は、このような政治状況の中で、送られたものだった。
 
 
 ところで、現在、日本政府は、北方領土の領有を主張している。「日本は、戦後一貫して北方領土は日本固有の領土であると主張している」との説明がなされる。

 図は、日本が独立を回復した後に発行された、文部省検定済み教科書地図の一部。図を見ると、クナシリ・エトロフはソ連の領土になっている。当時の日本の政権は、自由党の吉田内閣で、普通選挙で選ばれた政権だった。一旦は領有を放棄したと説明しながら、後になって、「一貫して北方領土は日本固有の領土であると主張している」と言うのは、誇り高い崇高な民族のなせる業か。はたまた、嘘つきで意地汚い貪欲な民族のなせる業か。

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