臓器密売殺人2024年06月11日

 
写真は、コソボに介入したNATO部隊のうち、イギリスが設置した軍事郵便局から、2002年に差し出された手紙。アルメニア・ナゴルノカラバフのステパナケルトに宛てられている。

 ソ連崩壊後ユーゴスロビアは、セルビア・クロアチア・モンテネグロ・ボスニアヘルツェゴビナなどに分裂した。コソボはセルビア南部の地域で、もともとセルビア人の領土だったが、アルバニア指導者ホッジャの住民弾圧政策により国を逃れたアルバニア人が多く住むところとなっていた。このため、セルビア独立時には、コソボの最多民族はアルバニア人だった。
 1996年ごろ、アルバニア系テロリストはコソボ解放軍(KLA)と称して、セルビア系住民の殺戮を企てるが、十分な成果を上げられなかった。このため、アメリカ・イギリスは1999年に軍事介入して、セルビア軍やセルビア系住民を攻撃し、KLAによるセルビア系住民殺戮を促した。セルビア系住民がコソボを脱出するようになると、強引に独立を宣言した。
 KLAはセルビア系住民を拉致し、アルバニアに送致し、そこで、殺害後臓器を取り出し、臓器移植を密売するビジネスを行った。殺戮・臓器移植ビジネスは、コソボ独立後も、政権幹部によって実施された。
 
 現在でも臓器移植ビジネスには、アルバニア人ブローカーの暗躍が有名だが、コソボ人拉致の話はあまり聞かない。今では、臓器提供者は、ウクライナ人が多い。生活に困窮したウクライナ人が臓器を売っているとの話もあるが、ゼレンスキー政権幹部が、ロシア系住民や政権反対派住民を拉致・殺害し、臓器を摘出していると噂が絶えない。
 
 コソボの臓器密売は、アメリカ・イギリスが支援していたKLA・コソボ政府幹部によって実施されていた。アメリカ・イギリスの指図だったのか、黙認だったのか、わからない。しかし、アメリカ・イギリスがコソボの臓器密売捜査に非協力的だった。現在、ウクライナにおける臓器販売は、アメリカ・イギリスの指示なのか、公認なのか、黙認なのか分からないが、今後、捜査がなされても、アメリカ・イギリスの非協力により、ウヤムヤにされるだろう。

本-琉球切手を旅する2023年02月23日


与那原恵/著『琉球切手を旅する 米軍施政下沖縄の二十七年』中央公論新社 (2022/12)


 日本の敗戦に伴い、沖縄は米軍の占領統治となった。1972年に、沖縄が日本に返還されるまで、沖縄では独自の『琉球切手』が使用された。1948年6月30日までは、日本切手に郵政局長印を押印した暫定切手が使われていたが、翌日、正刷切手が発行されると、暫定切手は使用禁止になり、沖縄返還まで、種々の独自切手が発行された。

 本書は琉球染料の歴史を切手を絡めて俯瞰するもの。切手の話は、正刷切手以降で、切手のデザイン面の話題が多い。

 暫定切手の話はあまりないが、この時代の歴史として、以下の記述がある。
 米軍は一九四五年の沖縄上陸後、住民を民間人「保護」の名目で建設した十二の民間人収容所(本島北部.中部.南部)に収容し、その人数は同年七月までで三十二万人に達しました。軍政府は各地区間の住民の往来を原則禁止(四七年一月末まで)し、基地建設などの軍作業に駆り出したのです。住民たちの金銭取引は禁じられ、「通貨なし経済」のもと、米軍の配給物資で生活しました。ところが、ようやく収容所に入ったものの、突然ハワイに送られた沖縄人がいます。
 米軍は沖縄戦の捕虜を「戦闘員」(日本軍兵士)と「非戦闘員」(現地召集された防衛隊員・学徒兵など)を区別していましたが、沖縄戦終結直前の一九四五年六月から、終結後の九月もしくは十月にかけて、捕虜(戦闘員・非戦闘員)のなかから選別した沖縄人三千数百人をハワイへ移送。「捕虜」たちは収容所に入れられ、軍関係の作業に使役されました。この時期に米軍がなぜ「捕虜」をハワイへ送ったのか、その理由や目的について研究が進められていますが、明確なことはわかっていません。捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約「ジュネーヴ条約」履行の観点からも、検証されるべき歴史です。「捕虜」たちは一九四六年末ごろまでに順次、沖縄に帰還したとされます。(P37,P38)
 沖縄返還のときに発行された、国政参加記念切手と海洋シリーズ第三集の記念切手の図案が対アメリカ外交上の問題になりそうな気配があったようだ。前者について、本書では以下のように記されている。
 「国政参加記念」切手が発行されました。図柄(伊差川新)は、画面の三分の二を占める日の丸、沖縄地図と国会議事堂が描かれています。・・・記念切手発行前の同年十月十九日、米国民政府民政官と屋良主席が会談。その席上、民政官が「日の丸入りの切手を今発行することは好ましくない」と発言したことを地元紙が報じ、問題になりました。民政官は、切手発行停止を要求したわけではなく、「時期尚早と考えられるかもしれない」という個人的関心からの発言だったと釈明。屋良主席は、「これまで切手発行について米国民政府と協議したことはない。事前協議の法的根拠もない」と述べています。これまで米側が切手の図柄や発行にロ出ししてきたことは、すでに紹介したとおりですが、この時期には沖縄側がつっぱねることができたのです。(P219,P220)
 海洋シリーズ第三集の記念切手は尖閣問題との関係であるが、本書には記載がない。



北方領土問題  やさしい北方領土問題の話   竹島(独島)問題    尖閣(釣魚)問題 

キーウ2022年04月01日

 
 日本語で、キエフをキーウに変えるそうである。現地の音に近いカタカナ表記をするのが基本だから、キエフを変更するのはわかるが、キーウにするのはだいぶ違うように思う。現地の発音をカタカナ表記するのは難しいが、もう少し良く考えてからでもよかったのではないか。
  ウクライナ語では Київ
  ロシア語では   Киев
 ウクライナ語の英語表記は「Kyiv」が使われる。また、ロシア語の英語表記は「Kiev」が使われる。
 
 どの表記を見ても明らかなことは、K音の次の母音と、その次の母音が、異なった音であることが明確だ。これは日本語表記の長音記号とは異なるので、日本語表記はずいぶん現地音から遠いように感じる。日本語の母音が貧弱なので仕方ないのか。
 最後の子音Vは、ドイツ語・ロシア語・ウクライナ語の順に弱くなるようだが、日本語の母音「ウ」とは異なる。ア行の文字ではなく、別の行を使えなかったのだろうか。もっとも、ワ行ウ段には文字がないので、結局のところア行を使わざるを得ないのかなー。
 ウクライナ語のКиївは、私には「ケイフ」「キイフ」のように聞こえる。
 
 写真は、ソ連崩壊後の1993年に使用されたキエフ郵便局の消印。ソ連時代のものがそのまま使われている。「キエフ」はロシア語・ウクライナ語併記。
 ソ連時代のウクライナでは、ウクライナ語が母語の人とロシア語が母語の人がいたので、両方の人に配慮した政治が行われていた。ウクライナが独立して、いわゆる西側派の人が大統領になると、ロシア語使用が禁止され、ロシア系住民の人権弾圧が国是となった。

PMR 沿ドニエストル共和国2022年03月29日

   
広瀬陽子先生:
 ウクライナ戦争がはじまると、広瀬陽子先生がTVで解説する姿が目立っている。広瀬陽子先生は、コーカサス、特にアゼルバイジャンの民俗に詳しい人であって、政治・外交・軍事の専門家ではなかったと記憶しているので、ちょっと違和感がある。広瀬陽子先生の解説は、どことなくピンボケのような気がする。
 広瀬陽子先生は次はオデッサ攻撃で、沿ドニエストル共和国にロシア軍が入るとの予想をしておられた。沿ドニエストル共和国とは、モルドバ東部のドニエストル川左岸地域で、モルドバの支配に反対して、自治共和国を作っている地域。PMR,transnistriaなどとも言われる。
 
 そういうことで、上の写真は、沿ドニエストル共和国の切手を使った郵便物(部分)。正規に配達された郵便物のように見えるが、郵便使用されていない収集家目当ての記念品かもしれない。
 下の写真はBenderyから日本にあてた手紙(部分)でモルドバ切手が貼られている。Benderyはドニエストル川右岸だが、沿ドニエストル共和国の領域に入っている。

ウクライナ最初の切手2022年03月27日

 
「革命期のウクライナ」の投稿で、スコロバツキー政権が1918年に発行した切手を紹介した。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474385
この切手が、ウクライナ最初の切手であるとの説明をどこかで読んだ。間違いではないが、必ずしも正しくもない。
 
 帝政ロシア時代、1864年に地方自治組織ゼムストヴォが制定された。各地のゼムストヴォでは独自の切手を発行し、切手発行地域は164か所に上った。ウクライナ第二の都市ハリコフのゼムストヴォは1870年に独自の切手を発行している。おそらくこれがウクライナ地域で独自切手が発行された最初だろう。
 
 写真はハリコフのゼムストヴォが1896年~1898年に発行した5コペイカ切手。(最初の切手ではない。)

オデッサでは土嚢作り2022年03月25日

  
オデッサではロシア軍侵攻に備えて土嚢作りが進められているそうな。
ロシア軍が侵攻して支配するだろうか。それよりも、港湾機能の破壊が目的の攻撃がある可能性が高いので、あまり土嚢が役に立つとは思えない。
  
戦争はしてはいけない。
負ける戦争は絶対にしてはいけない。
負ける戦争をずるずる引き延ばすのは一番いけない。
   
写真は1922年ごろ、オデッサで飢餓救済の目的で製造された切手との説がある。ただし、実際に使用されることはなく、収集家目当ての偽切手の可能性がある。

オデッサ攻撃がなかなか始まらない2022年03月24日

   
 ロシア・ウクライナ戦争はウクライナ大統領がなかなか負けを認めず、ロシアも、徐々に、攻撃を拡大しているようです。
 でも、まだ、オデッサの大規模攻撃がない。ここを攻撃すれば、西側のウクライナ援助がスムースにゆかなくなるので、軍事戦略上は、真っ先に攻撃する場所ですが、政治的には、攻撃しないほうが良いのでしょう。ロシアが、軍事的に圧倒的優位に立っている間は、慌てて攻撃する必要がないのかもしれない。ただし、戦線が膠着してきたら、オデッサ攻撃は必ずあるでしょう。

 写真は、1918年にオデッサで発行された切手。この時期、オデッサに地方政権があったわけではなく、単に旧来のロシア切手を販売禁止・使用禁止にしたため、ロシア切手にウクライナマークを加刷して発行しました。
 このような切手は、オデッサのほか、キエフ・ハリコフ・エカテリノスラフ・ポルタヴァ・ポドリアで発行されています。また、へルソンでも発行されたらしい。

革命期のウクライナ2022年03月21日

 
 ウクライナが国家となったのはソ連崩壊の30年前です。それ以前は、ウクライナはロシアの中央あるいは地方の一つでした。
 そういうと、1918年にウクライナ国家が成立していたとする意見もあるだろう。内乱の混乱期に、各勢力が群雄割拠していた状況の中で、ごく一部の地域を掌握し国家樹立宣言した勢力もあったが、ウクライナ全土に国家が成立したわけではなく、このような国家を理由に「1918年にウクライナ国家が成立」と考えるのは無理がある。
  
 ロシア革命後、キエフには中央ラーダ・臨時政府派・ボルシェヴィキの3つの勢力が存在していた。このうち、キエフでは中央ラーダ派が勝利し、ウクライナ人民共和国の成立を宣言した。この時期、中央ラーダ派がウクライナ全土にわたって政権をとっていたわけではなく、工場労働者の多いの東部の要衝ハリコフなどでは、ボルシェヴィキ派が圧倒的優位にたっていた。またウクライナ南部ではマフノ農民党が活躍していた。1918年にボリシェビキがキエフを奪回すると、西部に逃れた中央ラーダは、ドイツと、いわゆる「パン条約」を締結し、ウクライナの莫大な穀物と引き換えに、ドイツの軍事力により、キエフを占領した(1918年3月)。また、ドイツはウクライナを独立国家として承認した。しかし、中央ラーダ政権のもとでは十分な穀物収奪が出来なかったドイツは、ウクライナの少数の地主と結託し、18年4月クーデタによって中央ラーダ政権を打倒、スコロパツキー政権を樹立し、農村からの穀物収奪を強行した。
 
 写真はスコロパツキー政権が1918年7月に発行した切手。
 
 ドイツ本国が不安定になると、ドイツは1918年秋にはウクライナから撤退し、スコロパツキー政権は崩壊した。ウクライナでは各派や外国軍が入り乱れて争う状態が続いた。こうした中、1919年2月、ボルシェヴィキはキエフを占領し、ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。やがて、ボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いて、1923年7月5日、ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦に組み込まれることになった。

 このように見てゆくと、ウクライナが歴史的見地から国家である合理性はない。
 民族的観点からはどうだろう。民族とは、血統・言語・宗教によって分けられる人間集団のことを言う。ウクライナ人の血統はスラブなので、ロシアの主要民族と区別がない。宗教も正教なので、ロシアの主要民族と区別がない。
 言語は、ウクライナ語によって区別できるとの主張がある。ウクライナ語とは何か。ロシア語の方言との考えと、ロシア語とは独立した言語であるとの考えがある。後者だと、ウクライナはウクライナ民族、ロシア民族、ベラルーシ民族、ポーランド民族などの、多民族国家になり、ロシアとの違いがなくなる。このように、ウクライナをロシアと異なる民族国家と定義することは、かなり難しい。ウクライナをウクライナ語化して、ウクライナ民族の国家を人為的に作り出すことが行われたが、これに反発するルガンスク・ドネツク住民たちの騒動が民族紛争に発展した。
 ロシア・ウクライナ戦争の発端はNATO東方拡大問題と、ルガンスク・ドネツク問題がある。ウクライナは、今すぐNATOに加入することは諦めたようだが、ルガンスク・ドネツク問題はまだ解決がついていないようである。ルガンスク・ドネツク問題は、ウクライナ国家の定義にかかわるので、大統領や取り巻きが、頭の悪い俳優だけならば、解決の知恵は出ないだろう。政治経験のある知恵者は大統領取り巻きにいないのだろうか。

イワノフランコフスク2022年03月19日

ロシア国防省は、極超音速弾道ミサイルを使用し、西部イワノフランコフスク州の地下ミサイル・弾薬庫を破壊したとの報道があります。イワノフランコフスクは旧称Stanislauで、ロシア革命後に、西ウクライナ共和国の首都だった町。第二次大戦前はポーランドだったが、大戦後ソ連に編入された。
  
西ウクライナ(イワノフランコフスク)で発行された切手の解説は以下をご覧ください。
http://cccpcamera.stars.ne.jp/Hi-Ho/Stamp/OtherRep/WestUa/WestUkraine.htm

リボブ、リビウ、ルブフ、レンベルグ2022年03月19日

 ロシア・ウクライナ戦争では、西部の都市リビウが攻撃されたとの報道がある。
 ここは、西側からの軍事援助の拠点なので、軍事的には、真っ先に攻撃すべき場所だ。なのに、今まで、攻撃してこなかった、プーチンの忍耐強さに驚くばかり。こここは、リボブ、リビウ、ルブフ、レンベルグなどと言われる。

 ロシア革命の混乱の中、1918年10月、東ハーリチナとブコヴィナの指導者は「ウクライナ国民ラーダ」を設立し、ザカルパチアをあわせて、独立国家を設立する事を宣言した。1918年11月13日(あるいは11月1日)、リヴィウを首都とする「西ウクライナ国民共和国」の設立が宣言された。しかし、リヴィウでは、ポーランド系住民との間で戦闘が起きて、この共和国は1週間ほどで、リヴィウを撤退、1919年1月に100キロ南東のスタニスラヴィウに首都を移した。しかし、結局ポーランドとの戦いに敗北し、ポーランドに占領されてしまう。西ウクライナ国民共和国は8ヶ月ほどの寿命だった。
 写真は、1919年5月、西ウクライナ共和国崩壊前後に発行された切手で、実際に使われたか疑問。

 西ウクライナが形式的に独立したのは1年にも満たず、また、領域も限定的で、その後はポーランド領になった。第二次大戦後にソ連に復帰した。ここが、ウクライナとして独立するのはソ連崩壊のとき。 
 第一次大戦後、イギリス宰相カーゾンによりポーランド・ロシアの国境が定められた。スラブ人のうち、カトリックを信仰するものが多い地域はポーランド、正教を信仰するものが多い地域はロシアとなった。リビウの町はカトリックが多いのだが、周辺農村は正教徒が多かったため、カーゾンはこの地をロシアと定めた。
 ソ連では各地域を連邦共和国とし、ウクライナはウクライナ共和国と言う行政区域になった。この時、リビウはポーランド領だった。第二次大戦後、西ウクライナがソ連に復帰すると、行政区域はウクライナ共和国に編入された。
 リビウの町は、もともと、カトリックが多かったので、今でも教会はポーランド風で、あまりロシア風の感じがしない。

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